詩篇139:1 主よ、あなたはわたしを究めわたしを知っておられる。
139:2 座るのも立つのも知り遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
139:3 歩くのも伏すのも見分けわたしの道にことごとく通じておられる。
139:4 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに主よ、あなたはすべてを知っておられる。
139:5 前からも後ろからもわたしを囲み御手をわたしの上に置いていてくださる。
139:6 その驚くべき知識はわたしを超えあまりにも高くて到達できない。
139:7 どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
139:8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし陰府に身を横たえようとも見よ、あなたはそこにいます。
この詩篇には、主なる神様の驚くべき臨在の様子について語られています。
この中で私が注目したのは、8節の「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし陰府に身を横たえようとも見よ、あなたはそこにいます。」という言葉です。
主なる神様は、正しいお方であり、愛に満ちたお方。当然、いつも日の当たる所におられるイメージがあります。ところが、ここには、主なる神様は、たとえ私たちが陰府のような所へ行こうとも、そのような所にまでも御臨在されるお方として語られているのです。
なんと言う、驚くべき約束でしょうか。しかし、この約束が現実のものとなるためにも、主イエス様は十字架に死なれ、陰府にくだり、そして、3日目によみがえられたのです。
私たちは、絶望的な状況にあるとき、ついつい、どうして神様は私を見捨てておられるのかとつぶやいてしまいたくなります。しかし、そこにも主はおられます。なぜなら、主イエス様こそ、そのような絶望の淵にある者の悲しみを担うため、神に見捨てられた者の味わう絶望を一身に引き受けて下さったからです。
マタイ27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
私たちが「もう終わりだ」と思うとき、主はそこにおられます。
私たちが「誰も私の苦しみなんてわかってくれない」と思うとき、主は、あなたのことを良く理解していてくださいます。
そのような主、憐れみ豊かな神、イエス・キリストの御臨在を感謝したいものです。