イスラエルの会衆が、エジプトの地から解放され、出て行ったところ、そこは、まさに荒涼とした死の世界、どこまでも荒野の広がる砂漠でした。
民は、そこで、「こんなことなら、エジプトにいた方がましだった」と言って、モーセにつぶやき始めます。
モーセとしても、命からがらイスラエルの民を助け出したというのに、そんなことを言われて、きっと面白くなかったことでしょう。「人の気持ちも知らないで、皆、勝手な事ばかり言って・・・」というような気持ちになったかもしれません。
そんなモーセも、やはり人の子。責任ある立場にある者の苦労を少しでもわかって欲しいという気持ちや、必要以上にではなくても、尊敬の念を持って、モーセの立場を認めて欲しいと言うような願いを持っていたのではないかと思うのです。
そんな気持ちを持っていたかどうか、はっきりとしたことはわかりませんが、イスラエルの民が、「水が欲しい」と言ってつぶやいたとき、モーセは、神様に命じられたとおり、岩に命じて、水を湧き出させたのには違いないのですが、彼は、つい、このことが自分たちの力によるものであるかのように言ってしまったのです。
民数記20:10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
新共同訳聖書におけるこの箇所には、「私たちが」という言葉は記されていませんが、新改訳聖書では、はっきりと「私たちが」という言葉が挿入されており、荒涼とした砂漠の真ん中で、ほとばしる泉を湧き出させた奇跡が、あたかも自分たちの力でもあるかのようにモーセは言ってしまい、イスラエルの民からの尊敬や信頼の心を得ようとしたのかもしれません。
いずれにせよ、この時のモーセの態度は、神様の御心を損なうものでした。
民数記20:12 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
20:13 これがメリバの水、イスラエル人が主と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。
すべての出来事には、必ず、何らかの神様のご計画があります。そして、そこに、主の御業が現された時、私たちは、「これは聖なる主の御業、イエス様が聖なるお方であるということをお示しになられた証しなのだ」と言う事ができるのです。
時には辛い事も、悲しい事もあるでしょう。でも、「それも、これも主の御業です。」と言えるものでありたいなあ。
ローマ11:36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。