歴代誌上29:17 わたしの神よ、わたしはあなたが人の心を調べ、正しいものを喜ばれることを知っています。わたしは正しい心をもってこのすべてのものを寄進いたしました。また今、ここにいるあなたの民が寄進するのを、わたしは喜びながら見ました。
29:18 わたしたちの先祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、これをあなたの民の心の思い計ることとしてとこしえに御心に留め、民の心を確かにあなたに向かうものとしてください。
ダビデは、主なる神様に対して、正しい心で神殿建設に必要な捧げ物を捧げました。
「正しい心」。新改訳聖書では「直ぐな心」、口語訳聖書では「正直」あるいは「正しい心」となっており、おおよそ、意味するところは、私たちの神様に対する誠実さが問われているということでしょう。
しかし、私たち人間のうちに、果たして、本当に正しい心があるのでしょうか。
100%完全で、嘘偽りのない心などというものがあるのでしょうか。
ついつい、私たちは「正しい」という言葉を、善悪の「善」なるものとしてのみ捉えてしまいがちなのですが、悪である部分もあるなら、それを包み隠さず告白し、主の御前にさらけ出すこと(教会では、それをざんげと呼ぶのかもしれません)それが、本当の意味での「正しさ」なのではないかと思います。
そう考えると、「直ぐな心」とか「正直」という言葉の方が、「仮に悪い内容であっても、包み隠さず述べる」ということでは、より適切な表現と言えるのかもしれません。
ダビデも、自分たちが捧げた物も、もともとは、主から与えられた物であるということを正直に認めています。
そうです。私たちのうちには、神様に捧げられるようなものなど、本来、何もないのです。でも、こんな私たちを救って下さった神様に、何かをお捧げしたい!と思うとき、私たちの精一杯の正直で、誠実な生き方をもって、主に従っていくことしかないように思うのです。
ローマ12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
ありのままの自分を神の御前にさらけだし、赦しの言葉を頂いて、神に喜ばれる生き方をする。これこそが、本当の意味での正しい生き方なのではないでしょうか。
今日という日も、主によって赦され、生かされている幸いを感謝し、精一杯、誠実に歩ませていただきたいものです。