民数記12:1 ミリアムとアロンは、モーセがクシュの女性を妻にしていることで彼を非難し、「モーセはクシュの女を妻にしている」と言った。
12:2 彼らは更に言った。「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。」主はこれを聞かれた。
ミリアムとアロンは、モーセの姉と兄でした。彼らは、自分たちの弟であるモーセがイスラエルの指導者として立てられている事に不満を抱いていたようです。
そして、モーセが預言者であるのなら、その兄姉でもある自分たちもまた預言者であるはずだという、いかにも身勝手な主張によって、イスラエルの指導的立場を確立しようと企んでいたのでしょう。
そのような彼らに対し、神様の応えは、普通の預言者ならば、夢や幻の中で神様の言葉を聞くことができるが、モーセはそうではなく、神様と口と口とで語り合う、非常に親しい関係であるというものでした。
民数記12:6 主はこう言われた。「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば主なるわたしは幻によって自らを示し夢によって彼に語る。
12:7 わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。
12:8 口から口へ、わたしは彼と語り合う あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず わたしの僕モーセを非難するのか。」
夢や幻によって語るということは、神の国の事柄を、はっきりと直接的な言葉を用いて語るのではなく、どちらかと言うと、イメージを用いて、少しぼかして語りかけているような印象を与えます。
多くの預言者たちは、確かに、神様から幻を示されて、それをできるだけ正確に語り伝えることを試みましたが、幻で見た物を言葉に言い表すと言う事は、そこに、何がしかの翻訳、あるいは、解釈が必要です。
一方、はっきりと言葉で伝えるということは、間に、聞いた者の主観や、解釈を加える必要がないため、より正確な伝達を行うことができます。
よく、言葉だけでは、正確な情報は伝えられず、絵や図などを用いるとわかりやすいというようなことを聞きますが、それは、絵や図を用いて言葉で説明するからであり、もし、言葉がなければ、やはり、正確な情報は伝えにくいはずなのです。それよりも、見たものが、勝手に分析してしまい、下手をすると、全然違う意味に解釈してしまう危険性もあるからです。
ルカ8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」
イエス様は、よく、たとえを用いて神の国の奥義についてお語りになられました。それは、まだ、当時の人たちが、神の国の意味を正確に理解することができるほどの知識や状況が整っていなかったからかもしれません。
では、今はどうでしょうか。少なくとも、イエス様は、私たち全ての人間の罪の償いのために十字架で贖いを成し遂げ、3日目によみがえり、天に昇り、私たちに、永遠の命の約束を示して下さったことは事実なのですから、もはや、その事実を伏せて、たとえや幻などを用いて、ぼんやりと伝える必要はないのです。願わくは、はっきりとした言葉を用い、何を伝えるべきかを良く吟味しながら、神様に示された事柄をお伝えしていきたいものですね。
1コリント14:7 笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。
14:8 ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。
14:9 同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。
14:10 世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。
14:11 だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。
14:12 あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。