歴代誌上17:4 「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。わたしのために住むべき家を建てるのはあなたではない。
17:5 わたしはイスラエルを導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕から天幕へ、幕屋から幕屋へと移って来た。
17:6 わたしはすべてのイスラエルと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民を牧するようにと命じたイスラエルの士師の一人にでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか。
17:7 わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。
17:8 あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名を与えよう。
17:9 わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に虐げられることもない。
17:10 わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしはことごとく屈服させる。わたしはあなたに告げる。主が、あなたのために家を建てる。
預言者ナタンを通してダビデに語られた神様の御言葉は、「あなたが私のために家を建てるのではない。むしろ、主があなたのために家を建てる」というものでした。
しかも、その「家」とは、単なる建物としての神殿のことを言い表しているわけではありません。主が治める王国であり、平和と恵みに満ちた、神の国の建設を意味していると言えるでしょう。
私たちは、ともすると、神様のために何ができるだろうかなどと、思いあがったことを考えてしまいがちです。しかし、所詮私たちは、神に造られた人間に過ぎず、そんな人間が、神様のために何かしてあげようなどと思ったところで、それらのことは全て、神様ご自身の手によって行う事ができるものであるはずなのです。
では、私たち人間に対して、神様は何を求めていらっしゃるのか。
1サムエル15:22 サムエルは言った。「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。
イスラエルの初代の王、サウルは、主の御言葉に聞き従う事をおろそかにし、王位から退けられてしまいました。続くダビデ王は、同じ事を繰り返すわけにはいかず、神の御心を尋ね求め、神様の仰せの通りに従うことで、神様からの祝福の約束を受ける事ができたのです。
神様は、ご自分だけが祝福されることを願っておられるのではありません。むしろ、私たち一人一人が祝福されることを願っておられます。そしてそれは、「自分はどうなっても構わないけど、あなた方には幸いであってほしい」と願う、イエス様の犠牲的な愛に通じる考え方であると言えるのではないでしょうか。
そして、その事のために、神様を畏れ、敬い、御言葉に信頼して従っていくことが大切であると言えるのでしょう。
御言葉に従うとは、神様の恵みを素直に受けることなのですから。