数世代にも及んだ、南北イスラエル王国も、いよいよ最後の時がやってきました。
24章の最後の箇所に、ヨヤキン王がバビロンに捕虜として捕らえられた後、ヨヤキンのおじであるゼデキヤが王となったということが記されています。
彼は、バビロンに反逆し、自ら、ユダ王国の滅亡の時を招いてしまいます。
バビロンの軍隊は、今まで以上に、エルサレムの町を徹底的に破壊し、もはや、この土地で、国を治めていくことが困難なほどに打ちのめしてしまいました。
わずかでも、礼拝を捧げるための神殿が守られていたり、あるいは、人が住めるような町の生活基盤が残っていれば、まだ、復興の希望も持てるのでしょうが、徹底的に打ち壊われてしまうと、もはや、何の希望も見出せなくなってしまいます。
礼拝で用いるような、ほんの小さな神殿の器具さえ、バビロン軍は持ち去っていったのです。
このことは、一見すると、たいへん厳しい現実のようにも思えます。しかし、そこまでしなければ、イスラエルの中に蔓延していた偶像礼拝から脱却することができなかったのかもしれません。
私たちの心を神様から遠ざけようとするもの、それは、案外、ほんの些細な事柄であるかもしれません。そして、そのような物に、いつまでもこだわり続けていると、本当に大切なことを見失ってしまうかもしれません。
そういう意味では、捕虜としてではありますが、バビロンに捕らえ移され、神様のなさる御業に従って祝福の中で生き延びていったヨヤキン王は、私たちに、良い意味で、生きる見本のような存在となっているようにも思えるのです。
以前、ある知り合いの方が「自分がこうなりたいと描いている人生が偶像礼拝であったことに気が付いた」ということをお証しして下さったことがあります。自分の願い、自分の人生計画、もちろん、無計画では困りますが、必要以上に、自分自身が立てた計画にこだわり過ぎると、それすらも、一種の偶像礼拝に陥ってしまう危険性があると言えるのではないでしょうか。
私たちは、今一度、私たちの置かれている現状を良く見て、神様が一体何をなさろうとしておられるのかを日々祈りの中で問いながら、導かれるところへ進んで行きたいものですね。
もちろん、そこには、きっと、豊かな祝福が用意されていることでしょうから。
ローマ8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。