列王記下23章26節~24章20節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

列王記下24:10 そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの部将たちがエルサレムに攻め上って来て、この都を包囲した。
24:11 部将たちが都を包囲しているところに、バビロンの王ネブカドネツァルも来た。
24:12 ユダの王ヨヤキンは母、家臣、高官、宦官らと共にバビロン王の前に出て行き、バビロンの王はその治世第八年に彼を捕らえた。
24:13 主が告げられたとおり、バビロンの王は主の神殿の宝物と王宮の宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが主の聖所のために造った金の器をことごとく切り刻んだ。
24:14 彼はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。

いよいよ、南ユダ王国の滅亡の時がやってきました。
バビロンの軍隊は、エルサレムの神殿や王宮に安置してある金銀財宝をことごく持ち去り、有力な役人や大工、鍛冶屋など、有益と思われる人材を中心に、バビロンへ捕囚として連れ去っていきます。
聖書には、主なる神様がバビロンの軍隊を用いて、イスラエルをお裁きになられたという風に語られていますが、そこはやはり、神を畏れぬバビロンのなすこと。金持ちや優秀な人材を連れ去り、バビロンの国益になるように考えて侵略している様子が伺えます。
一方で、貧しい人たちは、そのままユダに取り残され、捕囚の苦役をまぬかれます。おそらく、そのような人たちをバビロンへ連れて行っても、有益ではないと思われた人たちだったのでしょう。

いつの時代にも、貧しい人や、優れた能力を持っていない人は、歴史の中から見捨てられてしまいがちです。しかし、そのような人たちが、ここでは、苦役をまぬかれ、細々と元の生活を続ける事ができたのです。
人の目には、価値の無いように見える者であっても、神の目には尊い存在であり、何もできない者であっても、いえむしろ、何もできない者だからこそ、神の憐れみの故に、祝福されることもあるのだということを覚えていたいものです。

マタイ5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」