ユダの王マナセは、彼の父、ヒゼキヤの時代に取り除かれた偶像礼拝の習慣を再びユダの国に築きなおし、多くの罪のない者たちの血を流させることになってしまいます。
列王記下21:16 マナセは主の目に悪とされることをユダに行わせて、罪を犯させた。彼はその罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血を非常に多く流し、その血でエルサレムを端から端まで満たした。
いつの時代にも、横柄な指導者の身勝手さの故に犠牲を強いられるのは、一般の民衆であり、社会的弱者であると言えます。
一部の人は、それに対し、公正な裁きを求めるのですが、いかんせん、力無き者には、それを覆す事は難しいのです。
もはや、私たちは、公正な裁きをしてくださる神様の裁きの時を待つしかありません。
しかし、神様の裁きとは、ただ単に、力ある横柄な支配者を退け、虐げられている弱者を救うことだけに留まりません。支配者も悔い改めさせ、虐げられている者の小さなつぶやきに対しても、償いを求めてこそ、真の裁きと言えるのです。
私たちは、ついつい、強い者が倒れ、弱い者が救われるべきという単純な構造を思い描いてしまいがちなのですが、神様の目には、全ての人が尊いのであって、横柄な指導者も、虐げられている弱者も、みんな救われて欲しいのです。
ですから、そのために、真の支配者であられる神御自身が、全ての人間の持つ罪の償いに、ご自身の命を十字架に捧げられ、罪の支配から、私たち全ての人をお救いになろうとなさったのです。
マナセ王は、罪のない者の血を流し・・・とありますが、他人の罪をとやかく言う前に、この私こそ、どうしようもない罪人であり、救われなければならない存在であるということを覚えていたいものです。
こんな私のために、罪のないお方が血を流して救ってくださったことに感謝いたします。
2コリント5:21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。