死の宣告を告げられたヒゼキヤは、涙ながらに主に祈りを捧げ、主が祈りを聞かれることによって、奇跡的に命を永らえることになりました。
本来ならば、そのような驚くほどの奇跡を体験した者ならば、神様に感謝を捧げ、残りの生涯を神様にお捧げし、神様のために生きていこうと思ってもおかしくないはずです。
しかし、人間とは、何と自分勝手な存在であるか。一時の苦しみを乗り越えてしまうと、その時の苦しみをすぐに忘れ、癒していただいた神への感謝も薄れていくものなのです。
神様に病を癒していただいたヒゼキヤは、その後、バビロンの国から遣わされた使者がやってきた時、彼らに、国中のありとあらゆる財宝等を見せ、やがて、それが、国を滅ぼすきっかけとなっていくのです。まさに、傲慢というか、ヒゼキヤは、自分の国の偉大さ、豊かさを誇示したかったのでしょう。
列王記下20:5 「わが民の君主ヒゼキヤのもとに戻って言いなさい。『あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。
20:6 わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはわたし自身のために、わが僕ダビデのために、この都を守り抜く。』」
神様は、確かに、ヒゼキヤに対し、このような約束をお語りになられました。しかし、ここで忘れてはならないのは、神様は、「ヒゼキヤの祈りの故に・・・」とはお語りになっておらず、「私自身のために、わが僕のダビデのために・・・」とお語りになられていることであり、決して、ヒゼキヤが素晴らしかったからということによるのではないということなのです。
もちろん、ダビデ自身も罪を犯し、普通の人間であったことには変わりないのですが、ダビデの子孫に対する約束として受け取るならば、ダビデの子孫、ヨセフとマリヤから生まれたイエス様の故に、祝福の約束が守られることになっていくということを示していると言えるでしょう。
ヘブル5:7 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。
5:8 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
5:9 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、
5:10 神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
私たちは、私たち自身の故に、神様が何かして下さったのではなく、ただただ、神ご自身、そして、神の御子イエス・キリストの尊い十字架の救いの御業の故に、神様の前に義なる者、神の子に等しい身分の者にしていただける事を忘れず、いつでも感謝していたいものです。