列王記下17章では、ついに、アッシリヤの占領によって、北イスラエル王国が滅亡の時を向かえたことが記されています。
聖書には、このことが起こった理由として、主なる神様が礼拝してはならないと命じられていた、諸国の神々や風習を取り入れたことによるものであるということが語られており、いわゆる、偶像礼拝の罪に対する裁きとして、国の滅亡が引き起こされたのであるということが語られているのです。
列王記下17:5 アッシリアの王はこの国のすべての地に攻め上って来た。彼はサマリアに攻め上って来て、三年間これを包囲し、
17:6 ホシェアの治世第九年にサマリアを占領した。彼はイスラエル人を捕らえてアッシリアに連れて行き、ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディアの町々に住ませた。
17:7 こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から導き上り、エジプトの王ファラオの支配から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、他の神々を畏れ敬い、
17:8 主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の風習と、イスラエルの王たちが作った風習に従って歩んだからである。
17:9 イスラエルの人々は、自分たちの神、主に対して正しくないことをひそかに行い、見張りの塔から砦の町に至るまで、すべての町に聖なる高台を建て、
17:10 どの小高い丘にも、どの茂った木の下にも、石柱やアシェラ像を立て、
17:11 主が彼らの前から移された諸国の民と同じように、すべての聖なる高台で香をたき、悪を行って主の怒りを招いた。
17:12 主が、「このようなことをしてはならない」と言っておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。
ここで注目すべきことは、彼らが「自分たちの神」を礼拝していたという事実です。
自分たちの神を礼拝するというのは、そもそも、礼拝ではありません。なぜなら、自分のために、自分の都合のために勝手に神を作り、それを拝むことは、本来、真の神ではないということを自ずと証明しているようなものだからなのです。
私たちの国でも、なんと多くの方々が、自分の勝手な神を作り出し、自分の都合によって拝んだり、軽んじたりしているかということを思わされます。
「困ったときの神頼み」一体、そんな虚像のような神に、何の力があるというのでしょうか。
今一度、神を信じるということは、どういうことであるのか、改めて考え直してみる必要があるように思います。
出エジプト記20:2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
私たちを、罪の奴隷から解放して下さるのは、唯一の主、イエス・キリストの神のみです。