列王記下18章 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

新たに南ユダの王となったヒゼキヤは、国中に蔓延していた偶像礼拝の習慣をことごく取り除き、真の神、主に信頼することを徹底して推し進めていきました。
それは、実際の政治的な面にまで及び、隣国、アッシリヤの支配にも屈することなく、唯一真の神であられる主を、文字通りの君主として従う道を進み始めます。

これに対し、影響力を維持しようとしたアッシリヤは、ラブ・シャケらを大軍と共にエルサレムに遣わし、実際的には何の頼りにもならないような神に従わず、目に見える地上の王、アッシリヤのセンナケリブに従うように言い送るのです。

2列王記18:19 そこでラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王はこう言われる。なぜこんな頼りないものに頼っているのか。
18:20 ただ舌先だけの言葉が戦略であり戦力であると言うのか。今お前は誰を頼みにしてわたしに刃向かうのか。
18:21 今お前はエジプトというあの折れかけの葦の杖を頼みにしているが、それはだれでも寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ。エジプトの王ファラオは自分を頼みとするすべての者にとってそのようになる。
18:22 お前たちは、『我々は我々の神、主に依り頼む』と言っているが、ヒゼキヤはユダとエルサレムに向かい、『エルサレムにあるこの祭壇の前で礼拝せよ』と言って、その主の聖なる高台と祭壇を取り除いたのではなかったか。

このラブ・シャケの言葉は、生ける真の神を信じる全ての者に対する挑発であるとも言えます。つまり、いつの時代でも、目に見えない神を信じて、一体、何ができるというのか、口先だけの約束に、一体、何の保証があるというのか。そういう問いかけは、目に見えない神様を信じる私たちにとっても、常にさらされている誘惑であるからなのです。

ラブ・シャケの誘惑に対し、ユダの民は、ひたすら沈黙を守りました。おそらく、返す言葉もなかったのでしょう。
現代に生きる私たちにも、この答えを簡単に言葉に言い表す事はできません。
ただ、少なくとも、ラブ・シャケの言うとおりに従うような生き方を選択したところで、彼の言う通りの安定した生活が約束されるという保証も、どこにもないのです。
つまり、完全に不安が解消されることはないということです。

では、私たちは、一体何を信じていけば良いのか、神を信じようと思っても、何をもって、信頼すべき言葉であるかどうかを見分けるのか。
それは、ご自分の命をも投げ出すほどの愛を示して下さった神様の御業をおいて他にはないのではないかと思うのです。

1ヨハネ4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

聖書の神様は、確かに目には見えないお方であり、信じることしかできないお方ではありますが、しかし、私たちのために、ご自分の命を投げ出して下さったという驚くほど大きな愛を示して下さったお方は、イエス・キリストの神を置いて他にはいないのです。
このような愛を示して下さったお方が、私たちを見捨てるはずがないではないか。
少なくとも、ヒゼキヤには、主なる神様が、自分たちを見捨てられるようなお方ではないということをしっかりと確信していたのでしょう。きっと、そこには、他の何物によっても得られない、安心感があったことと思います。

神様を信じ、神様を頼って生きていくということは、そんなに簡単なことではないかもしれませんが、少なくとも、言いようの無い不安や恐れからは解放されます。
しかも、ご自分の命をも投げ出してまで私たちを救いたいと思われた大きな愛で愛されているのですから、感謝と喜びを抱いて生きる事もできます。
願わくは、そんな生き方を選び取る方がもっともっと増えていくといいですね。