コヘレト2章1~11節、詩篇29篇、1コリント2章1~10節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

コヘレト 2:1 わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。
2:2 笑いに対しては、狂気だと言い 快楽に対しては、何になろうと言った。
2:3 わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。
2:4 大規模にことを起こし 多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。
2:5 庭園や果樹園を数々造らせ さまざまの果樹を植えさせた。
2:6 池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。
2:7 買い入れた男女の奴隷に加えて わたしの家で生まれる奴隷もあり かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く 牛や羊と共に財産として所有した。
2:8 金銀を蓄え 国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ 人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。
2:9 かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって わたしは大いなるものとなり、栄えたが なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた。
2:10 目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。
2:11 しかし、わたしは顧みた この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく 風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。

詩篇 29:1  賛歌。ダビデの詩。 神の子らよ、主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ
29:2 御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
29:3 主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。
29:4 主の御声は力をもって響き 主の御声は輝きをもって響く。
29:5 主の御声は杉の木を砕き 主はレバノンの杉の木を砕き
29:6 レバノンを子牛のように シルヨンを野牛の子のように躍らせる。
29:7 主の御声は炎を裂いて走らせる。
29:8 主の御声は荒れ野をもだえさせ 主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。
29:9 主の御声は雌鹿をもだえさせ 月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える 「栄光あれ」と。
29:10 主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。
29:11 どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。

1コリント 2:1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。
2:2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
2:3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
2:4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、"霊"と力の証明によるものでした。
2:5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
2:6 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。
2:7 わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
2:8 この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
2:9 しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。
2:10 わたしたちには、神が"霊"によってそのことを明らかに示してくださいました。"霊"は一切のことを、神の深みさえも究めます。



コヘレト2章の箇所に記されている事柄は、多くの人が願い求め、実践しようとしている現代社会そのものと言えるだろう。
快楽を追い求め、愉悦に浸り、何をすれば幸福になるかと考え、酒を飲み、愚行に身を任せる。
大規模な事業や工事も行い、多くの屋敷や果樹園なども手に入れ、奴隷を買い入れ、牛や羊と共に財産として所有し、それらによって多くの金銀を蓄え、歌い手をそろえるなどして狂乱するのである。
しかし、これらのことを経験してみても、すべて空しいことだと言う。
それは、いくら人がこの世で栄華を極めても、何一つあの世に携えて行くことはできないし、人はいつか死ぬことが分かっているからであろう。
何をもってしても、人は死を克服することはできないし、必ずいつか死ぬ。
しかも、それがいつなのか、どういう形でなのか、誰にも分からない。
だから、今さえ良ければいいと考える人も出てくるのであろう。
しかし、それもまた空しい。
今さえ良ければ良いと考えている事は、今という時でさえ結局は無価値であるということを証明しているようなものだからであろう。
これに対し、聖書は語る。
そんな無価値なあなたの人生を、神の御子イエス様が命をかけて贖って下さったと。
神の御子イエス様の命の代価が支払われても構わないほど、神は私たちのことを愛して下さり、必要として下さり、尊んで下さるのである。
それだけ知っていれば良いのだ。
何もできていなくても、何も持っていなくても、私たちの存在には神の尊い命の代価ほどの価値がある。
無価値な人生を無駄に過ごすのではなく、価値ある尊い人生とされた者として生きていよう。