コヘレト1章1~11節、詩篇29篇、1コリント1章18~31節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

コヘレト 1:1 エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。
1:2 コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。
1:3 太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。
1:4 一代過ぎればまた一代が起こり 永遠に耐えるのは大地。
1:5 日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。
1:6 風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き 風はただ巡りつつ、吹き続ける。
1:7 川はみな海に注ぐが海は満ちることなく どの川も、繰り返しその道程を流れる。
1:8 何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず 目は見飽きることなく 耳は聞いても満たされない。
1:9 かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。
1:10 見よ、これこそ新しい、と言ってみても それもまた、永遠の昔からあり この時代の前にもあった。
1:11 昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも その後の世にはだれも心に留めはしまい。

詩篇 29:1  賛歌。ダビデの詩。 神の子らよ、主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ
29:2 御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
29:3 主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。
29:4 主の御声は力をもって響き 主の御声は輝きをもって響く。
29:5 主の御声は杉の木を砕き 主はレバノンの杉の木を砕き
29:6 レバノンを子牛のように シルヨンを野牛の子のように躍らせる。
29:7 主の御声は炎を裂いて走らせる。
29:8 主の御声は荒れ野をもだえさせ 主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。
29:9 主の御声は雌鹿をもだえさせ 月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える 「栄光あれ」と。
29:10 主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。
29:11 どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。

1コリント 1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」
1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
1:26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
1:27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
1:29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。



ソロモンの知恵の書ともいわれるコヘレトの言葉は、以前の聖書では「伝道者の書」として紹介されていた。
知恵の書ではなく伝道者の書と呼ばれているのは興味深いことであろう。
つまり、真の知恵とは、まことの救い主なる神のことを宣べ伝えることに他ならないからである。
神のなされた救いの御業を告げることが真の知恵であるといったことは、コリントの手紙の冒頭の箇所でも述べられているが、そこで語られていることは、神の知恵は人間のいかなる知恵では考えもつかないような、神ご自身が人間を救うために十字架にかかられて死なれたことにについてである。
そのような知恵は、自己保身や自己中心の罪に縛られている人間にしてみれば、全く愚かなこととしか思えないなことであろう。
しかし、そういった罪に囚われている間、人間に救いはなく、人間には愚かなことのように見える神の御子キリストの十字架の贖いによって罪赦される救いの約束を信じるほか、人間が救いにあずかることのできる方法はないのである。
人が友のために命を捨てるという、これほど大きな愛はない、というのが聖書の救いの言葉であり、人間には愚かなことにように見えるキリストの十字架にのみ、真の救いの道があることを覚えたいし、受け入れたい。
人間の知恵を誇ったところで、所詮、自己保身や自己中心の力の働く愚かな考えでしかないけれども、人間の目には愚かなことに見える、神の御子イエス様の十字架の死による贖いの御業と、それによって完全に罪赦され、救われると言う聖書の「愚かな」約束に信頼し、平安のうちに歩んでいこう。