マラキ3章19~24節、ルカ1章68~79節、ルカ9章1~6節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

マラキ 3:19 見よ、その日が来る 炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
3:20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには 義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように 躍り出て跳び回る。
3:21 わたしが備えているその日に あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。
3:22 わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため ホレブで掟と定めを命じておいた。
3:23 見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
3:24 彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように。

ルカ 1:68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、
1:69 我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。
1:70 昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
1:71 それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。
1:72 主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。
1:73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、
1:74 敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、
1:75 生涯、主の御前に清く正しく。
1:76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、
1:77 主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
1:78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

ルカ 9:1 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。
9:2 そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、
9:3 次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。
9:4 どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。
9:5 だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」
9:6 十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。



主なる神様は、時が満ち、救い主イエス様をお遣わしになる直前に、イエス様の到来を予告する預言者ヨハネを遣わされた。
彼の語る言葉は、イエス様が来られることよりも、イエス様をお迎えするために必要な心の備えをしていくよう、罪の悔い改めを説いた。
なぜなら、後に来られるイエス様は、罪を償うために十字架で死ぬために人として生まれてこられるためである。
つまり、それぞれ、自分の罪を悔い改め、その罪のためにイエス様が身代わりで死んで下さるのだということを信じられなければ、救いが成立しないからである。
どんなに神が人を赦したいと願われても、赦される側の人間が心を頑なにしていたのでは、イエス様の十字架の死も、何の意味もないこととなってしまうからである。
しかし、多くの人が心を頑なにしているというか、無関心でいる人が多いのが実情であろう。
そんな現状をイエス様はどう思っておられるであろう。
しかし、もともと主なる神様は、私たちを憐れんで下さったがゆえに御子イエス様を送られたお方である。
きっと今も変わりなく、私たちを憐れみ、人々が悔い改めて救い主を信じて救われることを切に願い続けておられることだろう。
先に救われた者としては、ヨハネのように救い主イエス様の到来を告げる働きを、何があろうと、自分がどう思われようと、淡々とこなしていくだけである。