マラキ3章13~18節、ルカ1章68~79節、フィリピ1章18~26節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

マラキ 3:13 あなたたちは、わたしに ひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う どんなことをあなたに言いましたか、と。
3:14 あなたたちは言っている。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても 万軍の主の御前を 喪に服している人のように歩いても 何の益があろうか。
3:15 むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え 神を試みても罰を免れているからだ。」
3:16 そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。
3:17 わたしが備えているその日に 彼らはわたしにとって宝となると 万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように わたしは彼らを憐れむ。
3:18 そのとき、あなたたちはもう一度 正しい人と神に逆らう人 神に仕える者と仕えない者との 区別を見るであろう。

ルカ 1:68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、
1:69 我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。
1:70 昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
1:71 それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。
1:72 主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。
1:73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、
1:74 敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、
1:75 生涯、主の御前に清く正しく。
1:76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、
1:77 主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
1:78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

フィリピ 1:18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
1:19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。
1:20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
1:22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
1:23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
1:24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
1:25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。
1:26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。



フィリピの手紙を書いた時、パウロはクリスチャンに対する迫害を受けて捕らえられていたようである。
捕らえられ、牢に入れられているといったことは、客観的に見れば試練でしかない。
しかし、パウロは、仮に自分がどのような迫害を受けようとも、そのことを通してキリストの御名が宣べ伝えられるのなら本望であるかのように述べている。
人々の間で「なぜあの人は捕らえられたのだ?」「キリストを救い主として宣べ伝えていたかららしい」といった風に、たとえ噂であったとしても、それほどに命をかけてでもキリストの御名が宣べ伝えられることを願っていた人がいるということが知らされ、そこまで人を動かすことのできるキリストとは何者かと人々に知られるならば、それも一つの宣教の御業である、ということなのだろう。
キリストを信じることによって、周りの者がどういう反応をするかといったことは、その時、その状況になってみないと分からない。
けれど、イエス様を救い主として信じることで、永遠の滅びから解放され、永遠の命が与えられるという約束は変わることは無い。
そのことを信じて、都度、誠実に生きていれば良い。
パウロのようにとはいかなくても、私の生き方を通して、誰かがイエス様のことを知り、願わくは救いに導かれるようになっていくなら、私が生きていた証しとして、これほど幸いなことはない。