イザヤ書30章15~18節、詩篇51篇3~14節、ヘブル4章1~13節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ書 30:15 まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。
30:16 お前たちは言った。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに あなたたちを追う者は速いであろう。
30:17 一人の威嚇によって、千人はもろともに逃れ 五人の威嚇によって、お前たちは逃れる。残る者があっても、山頂の旗竿のように 丘の上の旗のようになる。
30:18 それゆえ、主は恵みを与えようとして あなたたちを待ち それゆえ、主は憐れみを与えようとして 立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。

詩篇 51:3 神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。
51:4 わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。
51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。
51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。
51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み 秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。
51:10 喜び祝う声を聞かせてください あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
51:11 わたしの罪に御顔を向けず 咎をことごとくぬぐってください。
51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。
51:13 御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
51:14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えてください。

ヘブル 4:1 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
4:2 というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
4:3 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。
4:4 なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。
4:5 そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。
4:6 そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、
4:7 再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。
4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。
4:9 それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
4:10 なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
4:11 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。
4:12 というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。
4:13 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。



人はとかく「何かをしなければ」と考えがちである。
動的に、対外的に、何等かの行為をもって自分を正当化しようとしてしまう。
しかし、聖書における神様の言葉は、まずは静まって神の御言葉に聞くように勧められる。
なぜなら、人間の業によっては完全なる義は得られることはなく、むしろ害悪なことばかりしてしまうし、そんな人間でも、神が与える救いの約束に信頼するならば、全ての罪は赦され、神の御前に命あるものとして受け入れて頂けるからである。
主なる神様は、そのために御子イエス様の命を捧げられた。
私たちにはできないことを、主なる神ご自身が私たちの代わりに成し遂げて下さったのである。
それゆえ、そこには安息があり、平安がある。
主なる神様は、私たちにそこまで多くのことを求めているわけではない。
むしろ、何もできないことをご存知の上で、立ち帰って主のみ前に静まり、救いの言葉を聞き、その約束に信頼せよ、と仰せられる。
極めて内省的な呼びかけである。
もちろん、何もしないわけにはいかないが、まずは主のみ前に立ち帰り、静まって、神の恵みの言葉、救いの約束の言葉を聞こう。
そして、その約束に信頼し、平安のうちに歩み出して行こう。
心ざわつくまま踏み出しても、何も良いことは起きないけれど、平安のうちに歩み出して行くならば、そこにはきっと豊かな祝福があるはずだから。