士師記2章16~23節、詩篇139篇1~6,13~18節、使徒13章16~25節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

士師記 2:16 主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。
2:17 しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏した。彼らは、先祖が主の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々に離れ、同じように歩もうとはしなかった。
2:18 主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。
2:19 その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかった。
2:20 主はイスラエルに対して怒りに燃え、こう言われた。「この民はわたしが先祖に命じたわたしの契約を破り、わたしの声に耳を傾けなかったので、
2:21 ヨシュアが死んだときに残した諸国の民を、わたしはもうこれ以上一人も追い払わないことにする。
2:22 彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである。」
2:23 主はこれらの諸国の民をそのままとどまらせ、すぐ追い払うことはなさらなかった。彼らをヨシュアの手に渡すこともなさらなかった。

詩篇 139:1  指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。 主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。
139:2 座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
139:3 歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。
139:4 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。
139:5 前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いていてくださる。
139:6 その驚くべき知識はわたしを超え あまりにも高くて到達できない。
139:13 あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
139:14 わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって 驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか わたしの魂はよく知っている。
139:15 秘められたところでわたしは造られ 深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
139:16 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている まだその一日も造られないうちから。
139:17 あなたの御計らいは わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。
139:18 数えようとしても、砂の粒より多く その果てを極めたと思っても わたしはなお、あなたの中にいる。

使徒 13:16 そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。
13:17 この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。
13:18 神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、
13:19 カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。
13:20 これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。
13:21 後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、
13:22 それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』
13:23 神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。
13:24 ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。
13:25 その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』


イスラエルとパレスチナの問題は、それこそ聖書に記録されている時代から続く、根の深い問題である。
イスラエルにとっては、パレスチナの土地は神が与えて下さると約束して下さったもので、何が何でも手に入れることしか考えていないだろうし、その地に住んでいるパレスチナの民を滅ぼすことも含め、それを推し進めることが神への忠心であるかのように考えているのであろう。
しかし、士師記の記述などを読むと、確かにパレスチナの土地へ導き入れようとされたことは記されているが、大切なことは、まことの神のみを礼拝することであり、偶像の神々を礼拝しないようにすることが最も中心的なこととして語られていることが伺える。
偶像の神々を取り込まないためには、場合によっては、異教の民族と交わらないこともやむなしといった感じであろうか。
そして、もっと重要な事は、神はイスラエルの民がどう歩んでいくか、常にごらんになっておられる、ということである。
神が何を求めておられるのか、何が一番大切な事なのかをきちんと理解し、その神の御心に沿って生きていくことこそが大事なことであり、それを見ておられる。
神が願っておられるのは、ただただ自分たちの土地に住む異邦人たちを打てばいいといった類のことではないし、むしろ、そういった人たちと、どう向き合って生きていくのかを注視しておられるのだろう。

主はイスラエルに対して怒りに燃え、こう言われた。「この民はわたしが先祖に命じたわたしの契約を破り、わたしの声に耳を傾けなかったので、ヨシュアが死んだときに残した諸国の民を、わたしはもうこれ以上一人も追い払わないことにする。彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである。

パレスチナの民を一掃することは神の願っておられることではないだろう。
イスラエルの民が偶像を捨て、自分たちの都合や理想を追い求めることを止め、まことの神の御声に耳を傾け、神と人とを愛する生き方へ向き直っていくことが、神の契約の民として選ばれた者たちの進むべき道なのではないだろうか。