士師記 2:6 ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの人々は土地を獲得するため、それぞれ自分の嗣業の地に向かった。
2:7 ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた。
2:8 主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、
2:9 エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・ヘレスに葬られた。それはガアシュ山の北にある。
2:10 その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。
2:11 イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。
2:12 彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。
2:13 彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、
2:14 主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。
2:15 出陣するごとに、主が告げて彼らに誓われたとおり、主の御手が彼らに立ち向かい、災いをくだされた。彼らは苦境に立たされた。
詩篇 139:1 指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。 主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。
139:2 座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
139:3 歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。
139:4 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。
139:5 前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いていてくださる。
139:6 その驚くべき知識はわたしを超え あまりにも高くて到達できない。
139:13 あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
139:14 わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって 驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか わたしの魂はよく知っている。
139:15 秘められたところでわたしは造られ 深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
139:16 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている まだその一日も造られないうちから。
139:17 あなたの御計らいは わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。
139:18 数えようとしても、砂の粒より多く その果てを極めたと思っても わたしはなお、あなたの中にいる。
2コリント 10:1 さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。
10:2 わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。
10:3 わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。
10:4 わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、
10:5 神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、
10:6 また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。
10:7 あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。
10:8 あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。
10:9 わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。
10:10 わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。
10:11 そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。
人が集まるところには群れができる。
そして、その群れは、一つの共同体として歩みを始めていくことになるが、複数の人間が集まるわけでだから、当然、意見も違えば行動も違ってくる。
そして、なんとか群れを導くリーダーや指導者を立てようとするが、それもなかなか上手くは行かないものである。
このリーダーはふさわいくないとか、指導者たるもの高貴な者でなければならないといった幻想に囚われ、指導者を批判することばかりに傾くことも多い。
いったい何のために人は集まり、一つの群れとして活動しようとしているのか。
士師記の記述には、エジプトを出て、約束の地に辿り着き、ようやく神の契約の民となったはずのイスラエルが、さっそくまことの神を捨てて、異なる偶像の神々に心を奪われていったことが記されている。
偶像の神々は確かに手ごわいし、すぐに人の心をとりこにしていくが、実態は無い。
本当は何も無いのだが、人間が勝手にそういう偶像を作りだしていくのである。
神々の像だけではなく、理想であったり、こうあるべきといった固まった考えなども偶像の類と言えよう。
自分と意見が違えば、あの人はサタンだなどとすぐに口にする人もいるだろう。
本当の敵は、他人や他人を縛り付けている様々な価値観だけではない。
自分の中にいる、自分中心の考え方から偶像は生成されるのだ。
イエス様がなぜ私たちと同じ人間の姿となって十字架で死んで下さったのか。
私たち人間の中に、罪があり、偶像を生成し続けているからではないだろうか。
こんな愚かで汚れたものを、イエス様は命がけで救おうとされたのである。
なんともったいなくも、申し訳ないことであろう。
しかし、それほどに神は我らを愛して下さっている。
もちろん、イエス様は私のためだけに死なれたのでもない。
私がまるで敵だと思い込んでいるような人たちのためにも死なれたのである。
本当の敵が何であり、どこにあるのか、見誤らないよう、しっかりとイエス様の十字架の意味を思いながら、全てに勝利されたイエス様をお迎えし、本当の勝利者としての生き様を歩んで行きたいものである。