イザヤ41章14~20節、詩篇69篇1~5,30~36節、ヨハネ1章29~34節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 41:14 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神 主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。
41:15 見よ、わたしはあなたを打穀機とする 新しく、鋭く、多くの刃をつけた打穀機と。あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする。
41:16 あなたがそれをあおると、風が巻き上げ 嵐がそれを散らす。あなたは主によって喜び躍り イスラエルの聖なる神によって誇る。
41:17 苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず 渇きに舌は干上がる。主であるわたしが彼らに答えよう。イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない。
41:18 わたしは不毛の高原に大河を開き 谷あいの野に泉を湧き出させる。荒れ野を湖とし 乾いた地を水の源とする。
41:19 荒れ野に杉やアカシヤを ミルトスやオリーブの木を植え 荒れ地に糸杉、樅、つげの木を共に茂らせる。
41:20 彼らはこれを見て、悟り 互いに気づかせ、目覚めさせる 主の御手がこれを成し遂げ イスラエルの聖なる神がこれを創造されたことを。

詩篇 69:1  指揮者によって。「ゆり」に合わせて。ダビデの詩。
69:2 神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。
69:3 わたしは深い沼にはまり込み 足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み 奔流がわたしを押し流します。
69:4 叫び続けて疲れ、喉は涸れ わたしの神を待ち望むあまり 目は衰えてしまいました。
69:5 理由もなくわたしを憎む者は この頭の髪よりも数多く いわれなくわたしに敵意を抱く者 滅ぼそうとする者は力を増して行きます。わたしは自分が奪わなかったものすら 償わねばなりません。
69:30 わたしは卑しめられ、苦痛の中にあります。神よ、わたしを高く上げ、救ってください。
69:31 神の御名を賛美してわたしは歌い 御名を告白して、神をあがめます。
69:32 それは雄牛のいけにえよりも 角をもち、ひづめの割れた牛よりもなお 主に喜ばれることでしょう。
69:33 貧しい人よ、これを見て喜び祝え。神を求める人々には 健やかな命が与えられますように。
69:34 主は乏しい人々に耳を傾けてくださいます。主の民の捕われ人らを 決しておろそかにはされないでしょう。
69:35 天よ地よ、主を賛美せよ 海も、その中にうごめくものもすべて。
69:36 神は必ずシオンを救い ユダの町々を再建してくださる。彼らはその地に住み、その地を継ぐ。

ヨハネ 1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
1:31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、"霊"が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」



ヨハネはイエス様を見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言った。
非常に的確にイエス様のことを言い表している言葉であろう。
しかし、ヨハネは、イエス様に出会うまでは自分はイエス様のことを知らなかったと言っている。
自分のあとから救い主が来られることは知っていても、それがどのようなお方なのか、実はよく分かっていなかったというのである。
しかし、ヨハネはイエス様を見て、すぐにこの方が真の救い主であることを悟り「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と述べたのである。
イエス様のお姿が、あまりにも圧倒的に高貴な方のように見えたからであろうか。
おそらくそうではないだろう。
見た目には普通の人であり、貧しい大工の子、でしかなかったはずである。
しかし、そんなイエス様のことをすぐにヨハネが悟ることができたのは、聖霊によるのであろう。
頭で理解したり、経験を通して学んだり、そういったこととは違い、人知を超えた方法で、神はヨハネにイエス様が真の救い主であられることを示されたのであろう。
私たちも、聖書の言葉を読み、いつしかイエス様のことを信じるようになった。
単に人間の知識や理解力などによるものならば、おそらく、これらの聖書の記述は「おろかなこと」となるのだろう。
けれど、聖霊様が働かれ、私たちに信仰を与え、養い、導かれたのである。

1コリント1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」
1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
1:26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
1:27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
1:29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

神が人間のために人の姿となり、自らの命を捨てて救おうとされた、などということは、人間の頭には愚かなことのように思えるだろう。
しかし、神はそうされた。
それしか私たちを救う手段がなかったからである。
私たちは相変わらず愚かな知恵者であろうとするが、神の御前に「虫けら」同然に過ぎなかった者が高価な恵によって救われた事実を覚え、感謝し、喜んで生きていたいものである。