サムエル記上2章1~11節、詩篇1章46~55節、マルコ11章1~11節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

サムエル記上 2:1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び 主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き 御救いを喜び祝う。
2:2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。
2:3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神 人の行いが正されずに済むであろうか。
2:4 勇士の弓は折られるが よろめく者は力を帯びる。
2:5 食べ飽きている者はパンのために雇われ 飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み 多くの子をもつ女は衰える。
2:6 主は命を絶ち、また命を与え 陰府に下し、また引き上げてくださる。
2:7 主は貧しくし、また富ませ 低くし、また高めてくださる。
2:8 弱い者を塵の中から立ち上がらせ 貧しい者を芥の中から高く上げ 高貴な者と共に座に着かせ 栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの 主は世界をそれらの上に据えられた。
2:9 主の慈しみに生きる者の足を主は守り 主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。
2:10 主は逆らう者を打ち砕き 天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし 王に力を与え 油注がれた者の角を高く上げられる。」

ルカ 1:46 そこで、マリアは言った。
1:47 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1:48 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
1:49 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1:50 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
1:51 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
1:53 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。
1:54 その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、
1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

マルコ 11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
11:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
11:4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
11:5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
11:6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
11:7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
11:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
11:10 我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


サムエル記に記されたハンナの祈りと、ルカ福音書に記されたマリヤの祈りは、どちらも子供を授かったことに対する神への感謝の祈りであるのだが、内容を見てみると、神の成し遂げられるであろう偉大な救いの御業に対する賛美の歌となっている。
おそらく、そこには聖霊様が働かれ、神の救いの御業について証しがなさるよう、祈りと賛美の言葉が与えられたのであろう。
そして、同じようなことはイエス様の周りでも生じている。
イエス様がロバの子に乗ってエルサレム神殿へと向かわれた時、人々は神の大いなる御救いについてほめたたえ、救い主が到来されたことを高らかに賛美したのである。
しかし、イエス様は見るからに救い主とか偉大なお方というよりも、どちらかと言うとごくごく普通の人であり、ガリラヤで育った大工の子にしか見えなかったはずである。
イエス様をほめたたえた人たちも、イエス様の噂は聞いていたのではあろうが、まだよく知りもしない人を、自分たちを救ってくれるまことのメシアとして受け入れ、力の限り賛美の歌を歌っている様子は、にわかには信じがたい光景であると言える。
しかし、だからこそ、そこには聖霊様が働かれ、人々に信仰を与え、祈りと賛美の言葉が与えられていたのであろうことを思う。
私たちも弱いものであるし、確固たる信仰を備えているというほどの者ではない。
どちらかと言うと、すぐに心が揺らいでしまうような不信仰な者である。
しかし、だからこそ私たちは祈り、神をを賛美するのである。
救いの根拠が全て神の側にあるからこそ、祈り、また賛美できるのである。
そう考えていくと、聖書に出てくる人たちも、切実な思いで神に助けを求めた結果、このような素晴らしい信仰者として歩ませて頂けているのであろう。
私も弱い者。
だからこそ、神に全ての助けを求めて祈りつつ、神だけが私を救いうることのできるお方だからこそ、賛美の歌を歌って行きたいものである。