士師記17章1~6節、詩篇96篇1~9節、3ヨハネ9~12節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

士師記 17:1 エフライムの山地に名をミカという男がいて、
17:2 母に言った。「銀千百シェケルが奪われたとき、あなたは呪い、そのことをわたしにも話してくれました。その銀はわたしが持っています。実はわたしが奪ったのです。」母は言った。「わたしの息子に主の祝福がありますように。」
17:3 彼が母に銀千百シェケルを返すと、母は言った。「息子のために彫像と鋳像を造っていただこうとして、この銀はこの手で聖別し、主におささげしたものです。今これをあなたに返します。」
17:4 彼が銀を母に返すと、母は銀二百シェケルを取って銀細工師に渡し、彫像と鋳像を造らせた。ミカの家にあったのはそれである。
17:5 このミカという男は神殿をもっており、エフォドとテラフィムを造って、息子の一人の手を満たして自分の祭司にしていた。
17:6 そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。

詩篇 96:1 新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。
96:2 主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
96:3 国々に主の栄光を語り伝えよ 諸国の民にその驚くべき御業を。
96:4 大いなる主、大いに賛美される主 神々を超えて、最も畏るべき方。
96:5 諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ
96:6 御前には栄光と輝きがあり 聖所には力と光輝がある。
96:7 諸国の民よ、こぞって主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ。
96:8 御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り
96:9 聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。

3ヨハネ 1:9 わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。
1:10 だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。
1:11 愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は、神を見たことのない人です。
1:12 デメトリオについては、あらゆる人と真理そのものの証しがあります。わたしたちもまた証しします。そして、あなたは、わたしたちの証しが真実であることを知っています。


士師記17章の箇所においけるミカとその母親の関係性を端的に言い表すならば、わがまま息子と溺愛母親といったところであろうか。
ミカは母親の持っていたお金を盗み、あとになって自分がやったと言って申し出てはいるが、お金欲しさに盗んではみたものの、結局それをどう使えば良いのか分からなかったのだろう。
ミカの母親は、もともと息子ミカのために撮っておいたお金であったからということで、盗んだことを申し出たミカを赦し、あろうことか、そのミカのために彫像と鋳像を作ってやるのである。
あきれた親子、といったところであろう。
しかし、案外こうした光景は、普通の家庭においても時おり見受けられるものではないだろうか。
何が良いことで、何が悪いことなのか、自分基準で物事を考えている間は、こうしたあきれた行動もまかり通ってしまうのである。
しかし、善悪の基準というのも、案外いい加減なものであり、その時々の環境や社会の風潮によって変わっていくこともある。
かつてはただの冗談で済まされていたことも、今の世では立派なハラスメントとなってしまう。
あまりに行き過ぎた基準を定めてしまうのも、生きることが窮屈になってしまうだけで、それも好ましいこととは言えないかもしれないが、ある程度の基準は必要であろう。
聖書にも基本的なルールが記されているが、時代にそぐわないと言われるものもあるかもしれない。
細かいルールの決め方というのは難しいものがある、イエス様が「神を愛し、隣人を愛せよ」と基本的な考え方をまとめられたことは大切なことと思う。
愛するとは、本当にその人にとって好ましいことを与えていくことであり、欲望のままに何でも欲するものを与えたり、何の反省もないまま赦したり、その人を駄目にしてしまうような仕方で溺愛することとは違う。
本当に必要なものを与え、悔い改める者を赦し、その人が成長していくことができるように、その人の存在自体を認めていくことを、好ましい愛の態度を選んでいけるように心がけていきたいものである。