ミカ7章18~20節、詩篇121篇、ローマ3章21~31節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ミカ 7:18 あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。
7:19 主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。
7:20 どうか、ヤコブにまことを アブラハムに慈しみを示してください その昔、我らの父祖にお誓いになったように。

詩篇 121:1  都に上る歌。 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
121:2 わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。
121:3 どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。
121:4 見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。
121:5 主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
121:6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。
121:7 主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。
121:8 あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

ローマ 3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。


聖書には確かに義を求める言葉、律法の言葉が記されている。
しかし、それらの言葉は、神が人に対して求めている御心ではありつつも、その言葉をもって人を打ち叩いて、立ち上がれなくしたり、ましてや打ち滅ぼすためのものではない。
むしろ、神の御心は、人を生かすためのものであって、律法の言葉も、そこに求められている事柄を人間が全うできていれば、聖なる民として生きていられるのだろう。
いかんせん、人間には律法を全うする力がないし、神の御心に背くような罪の業しかできないのが現実である。
そんな人間に対し、主なる神様は御子を送り、私たちの代わりに律法の求めるところの全てを担って下さり、十字架の贖いの御業によって、我々の罪の償いを成し遂げ、信じる者を聖なる民として神の国に招き入れて下さることを実現されたのである。
律法の言葉は、もちろんそれを実行できれば神の民となることができるが、たとえ実行できなかったとしても、救い主イエス様を信じることで、神の求める全ての律法をも全うしたものとみなして頂けるのである。
これが聖書に語られている福音の言葉であり、私たちの信じるべき事である。
神は最初から私たちを愛し、慈しんでおられたからこそ、このような仕方で救いの御業を現わされたのであり、律法の求めるところも、また、福音によってもたらされる祝福も、みな、永遠に変わることのない神の愛の現われであると言えるだろう。
あとはこの事実を信じるだけ。
難しいことではない。