箴言4章1~9節、詩篇8篇、ルカ2章41~52節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

箴言 4:1 子らよ、父の諭しを聞け 分別をわきまえるために、耳を傾けよ。
4:2 わたしは幸いを説いているのだ。わたしの教えを捨ててはならない。
4:3 わたしも父にとっては息子であり 母のもとでは、いとけない独り子であった。
4:4 父はわたしに教えて言った。「わたしの言葉をお前の心に保ち わたしの戒めを守って、命を得よ。
4:5 わたしの口が言いきかせることを 忘れるな、離れ去るな。知恵を獲得せよ、分別を獲得せよ。
4:6 知恵を捨てるな 彼女はあなたを見守ってくれる。分別を愛せよ 彼女はあなたを守ってくれる。
4:7 知恵の初めとして 知恵を獲得せよ。これまでに得たものすべてに代えても 分別を獲得せよ。
4:8 知恵をふところに抱け 彼女はあなたを高めてくれる。分別を抱きしめよ 彼女はあなたに名誉を与えてくれる。
4:9 あなたの頭に優雅な冠を戴かせ 栄冠となってあなたを飾る。」

詩篇 8:1  指揮者によって。ギティトに 合わせて。賛歌。ダビデの詩。
8:2 主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
8:3 幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き 報復する敵を絶ち滅ぼされます。
8:4 あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
8:5 そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。
8:6 神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていただかせ
8:7 御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました。
8:8 羊も牛も、野の獣も
8:9 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
8:10 主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。

ルカ 2:41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
2:42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
2:43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
2:44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
2:50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
2:51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
2:52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。


親子の関係性というものは、とても神聖なものであり、命や個性、人格といったところで密接につながっている。
いくら親と自分が違うと思っても、どこか似ているし、親から受け継いでいるものばかりというのが実際にところなのかもしれない。
けれど、それが命を受け継いで生きているという証拠でもあろう。
もちろん、個性や性格だけでなく、理性や経験なども受け継がれていくだろう。
時には受け継いでいくのが面倒に思えることもあるかもしれいないが、少なくとも、親がいなければ自分はこの世に生まれてもいなかったし、育てられても来なかったかもしれない。
どんなポリシーで育ててきたかなんて知る由もないが、知らず知らずのうちに、いろんな薫陶を受け、自然と身についていることもあるのだろう。
時にそういったことを思い起こしてみるのも良いし、言語に現わしてみるのもいいかもしれない。
なかなか言葉には表すことが難しいこともあるのだろうけれども、親の背中だったり、苦労して育ててくれていたこととか、そこにきっと愛を見いだすことができるだろう。
イエス様も言葉で表してしまえば「愛」という言葉で表現されることを、歴史を通し、ご自身の生涯を通して現わして下さったお方。
このお方の背中から、語られた言葉、歩まれたその生涯の全てを、御言葉を通して私たちも聞き、学んでいきたい。
イエス様のようにはできなくても、きっとどこかでつながっている、そう信じて、神の子とされた者として生きていきたいものである。