エレミヤ 22:11 父ヨシヤに代わって王となったが、このところから引いて行かれたユダの王、ヨシヤの子シャルムについて主はこう言われる。「彼は再びここに帰ることはない。
22:12 彼は捕囚となっているそのところで死に、この国を再び見ることはない。」
22:13 災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を 正義を行わずに高殿を建て 同胞をただで働かせ 賃金を払わない者は。
22:14 彼は言う。「自分のために広い宮殿を建て 大きな高殿を造ろう」と。彼は窓を大きく開け レバノン杉で覆い、朱色に塗り上げる。
22:15 あなたは、レバノン杉を多く得れば 立派な王だと思うのか。あなたの父は、質素な生活をし 正義と恵みの業を行ったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。
22:16 彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそ わたしを知ることではないか、と主は言われる。
22:17 あなたの目も心も不当な利益を追い求め 無実の人の血を流し、虐げと圧制を行っている。
詩篇 120:1 都に上る歌。 苦難の中から主を呼ぶと 主はわたしに答えてくださった。
120:2 「主よ、わたしの魂を助け出してください 偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」
120:3 主はお前に何を与え お前に何を加えられるであろうか 欺いて語る舌よ
120:4 勇士の放つ鋭い矢よ えにしだの炭火を付けた矢よ。
120:5 わたしは不幸なことだ メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは
120:6 平和を憎む者と共に わたしの魂が久しくそこに住むとは。
120:7 平和をこそ、わたしは語るのに 彼らはただ、戦いを語る。
ルカ 11:37 イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。
11:38 ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。
11:39 主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。
11:40 愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。
11:41 ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。
11:42 それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。
11:43 あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。
11:44 あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」
11:45 そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。
11:46 イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。
11:47 あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。
11:48 こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。
11:49 だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』
11:50 こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。
11:51 それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。
11:52 あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」
イエス様は、ファリサイ派の人たちや律法学者たちの偽善的な生き方に対し、墓という言葉を用いて語られている。
墓とは死者を葬るところであり、そこに命はない。
ファリサイ派の人たちに対しては、彼らは見えるところ、人に見せることだけに心を配り、その内実は強欲と悪意に満ちた偽善的な生き方であり、人は誰もそのような生き方を尊重しようとは思わないし、人知れず踏みにじられる墓のようであるとイエス様は仰せられる。
一方、律法学者たちに対しては、自分では指一本触れようともしないのに、人々には重荷を背負わせるだけで、悔い改めを説いた預言者たちを迫害した先祖たちを称えるために、記念の墓を建てて褒め称えているかのようであると語られている。
律法の言葉を用いて他者を迫害するという点では、彼らもまた人を迫害するものでしかない。
ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、偽善者であり迫害者でしかない。
そのような生き方に、真の幸いは存在しない。
ちなみに「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。」と語られるイエス様の言葉は、「~ものは幸いである」と語られる山上の説教などの教えと対局をなすものと言えるだろう。
何が本当に幸いなことで、どのような生き方を選び取っていくべきかということを学んでくためには、良い面と悪い面と、両方見ておく必要があるということであろう。
私の中にも、罪に汚れたどす黒い心と、自分に絶望し、打ちひしがれて神に救いを求める心とが共存している。
それでも、私は主に救いを呼び求めるものでありたい。
詩篇 120:1 都に上る歌。 苦難の中から主を呼ぶと 主はわたしに答えてくださった。
120:2 「主よ、わたしの魂を助け出してください 偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」