エズラ1章1~11節、詩篇120篇、2コリント1章12~19節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エズラ 1:1 ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。
1:2 「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。
1:3 あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。
1:4 すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ。」
1:5 そこで、ユダとベニヤミンの家長、祭司、レビ人、つまり神に心を動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って行こうとした。
1:6 周囲の人々は皆、あらゆる随意の献げ物のほかに、銀と金の器、家財、家畜、高価な贈り物をもって彼らを支援した。
1:7 キュロス王は、ネブカドネツァルがエルサレムの主の神殿から出させて、自分の神々の宮に納めた祭具類を取り出させた。
1:8 ペルシアの王キュロスは財務官ミトレダトによってそれを取り出させ、ユダの首長シェシュバツァルの前で数えさせたところ、
1:9 その数は次のとおりであった。金の容器三十、銀の容器一千、小刀二十九、
1:10 金杯三十、二級品の銀杯四百十、その他の祭具一千、
1:11 以上金銀の祭具の合計五千四百。シェシュバツァルは、捕囚の民がバビロンからエルサレムに上って来たとき、これらの品々をすべて携えて上った。

詩篇 120:1  都に上る歌。 苦難の中から主を呼ぶと 主はわたしに答えてくださった。
120:2 「主よ、わたしの魂を助け出してください 偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」
120:3 主はお前に何を与え お前に何を加えられるであろうか 欺いて語る舌よ
120:4 勇士の放つ鋭い矢よ えにしだの炭火を付けた矢よ。
120:5 わたしは不幸なことだ メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは
120:6 平和を憎む者と共に わたしの魂が久しくそこに住むとは。
120:7 平和をこそ、わたしは語るのに 彼らはただ、戦いを語る。

2コリント 1:12 わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。
1:13 -14わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。
1:15 このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。
1:16 そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。
1:17 このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。
1:18 神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。
1:19 わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。



ペルシャの王キュロスは神からの託宣を受け、イスラエルの民に対し、エルサレムに帰還し神殿の再建を行うよう命じた。
その際、バビロン侵攻の際、強奪された神殿祭具などを持ち帰らせるように指示している。
それらは、金や銀、家財や家畜、高価な贈り物などと記されているが、基本的には、神殿で神に礼拝をささげるためのもの、であり、彼らの生活を保障するための財産ではない。
つまり「神を第一とせよ」とのメッセージが込められたものであると言えるだろう。

マタイ 6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」


イエス様は「なによりもまず神の国と神の義を求めよ。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と仰せられている。
自分のことよりも、神のことを覚えよ、というのは、時に厳しくも感じられるかもしれないが、その神ご自身が、私たちのためにご自分の御子イエス様の命を捧げて救って下さったのである。
言うなれば、神にとっては私たちの救いこそが全てなのである。
だから、まず神の国と神の義を求めるということは、結果的に、神を信じる私たちにとって最善のものとなるということを覚えたい。
自分のことしか、自分の生活のこまごまな事しか見えていないような愚かな私たちであるが、そんな私たちを神は命がけで愛して下さった。
この神の愛を、何よりも大切に受け止めて行こうではないか。