歴代誌下1章7~13節、詩篇147篇12~20節、マルコ13章32~37節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

歴代誌下 1:7 その夜、神はソロモンに現れて言われた。「何事でも願うがよい、あなたに与えよう。」
1:8 ソロモンは神に答えた。「あなたは父ダビデに豊かな慈しみをお示しになり、父に代わる王としてわたしをお立てになりました。
1:9 神なる主よ、あなたは父ダビデになさった約束を今実現し、地の塵のように数の多い民の上に、わたしを王としてお立てになりました。
1:10 今このわたしに知恵と識見を授け、この民をよく導くことができるようにしてください。そうでなければ、誰が、あなたのこの大いなる民を裁くことができましょうか。」
1:11 神はソロモンに言われた。「あなたはこのことを望み、富も、財宝も、名誉も、宿敵の命も求めず、また長寿も求めず、わたしがあなたをその王として立てた民を裁くために、知恵と識見を求めたのだから、
1:12 あなたに知恵と識見が授けられる。またわたしは富と財宝、名誉もあなたに与える。あなたのような王はかつていたことがなく、またこれからもいない。」
1:13 ソロモンはギブオンにある聖なる高台、その臨在の幕屋を後にしてエルサレムに帰り、イスラエルを治めた。

詩篇 147:12 エルサレムよ、主をほめたたえよ シオンよ、あなたの神を賛美せよ。
147:13 主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし あなたの中に住む子らを祝福してくださる。
147:14 あなたの国境に平和を置き あなたを最良の麦に飽かせてくださる。
147:15 主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。
147:16 羊の毛のような雪を降らせ 灰のような霜をまき散らし
147:17 氷塊をパン屑のように投げられる。誰がその冷たさに耐ええよう。
147:18 御言葉を遣わされれば、それは溶け 息を吹きかけられれば、流れる水となる。
147:19 主はヤコブに御言葉を イスラエルに掟と裁きを告げられる。
147:20 どの国に対しても このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。ハレルヤ。

マルコ 13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」


民俗学において、日本の伝統と分化の特徴に「ハレとケ」という概念が唱えられている。
ハレとは非日常の祭礼などを言い、ケはそれ以外の日常のことを言う。
後に「ケガレ」という概念も加わり、葬儀などがこれに含まれる。
日本人のみならず、死は忌み嫌うべきものであり、日常の中にくみこまれることを嫌う人が多い。
しかし、私たち人間は、いつ死ぬかわからないし、普段あまり考えないようしていても、日常の生活の中にも死につながる要素は多いのが実情であろう。
本当は誰もが自分や家族の死などについて、普段からきちんと考えておくべきことであろうとは思うが、だからと言って、それだけを強調し過ぎるのも良くない。
死は当然起こりうるものでありつつも、その中で日常を生きていく。
そのために大切なことは、永遠の救いの約束を頂くことによる平安を得ていることであろう。
私たちは毎聖日に礼拝でのメッセージを通して、神様から救いの約束の言葉を頂いて、慰めと平安を頂き、新しい週の歩みへと送り出されていく。
それは、日本的な考え方から言えば、ケガレからケへもどるためのハレと言えるのかもしれない。
しかし、実際には、日常の中にもいつでも罪と死が隣り合わせにあって、その中で格闘しながらも、それでも主イエス様の十字架の贖いと復活による救いの約束によって、すべてが赦され、永遠の命に至る約束がなされているのだから、私たちの日常(ケ)にはケガレもハレも、いつでも同居しているということであろう。
私たちはケの中にもつねにケガレが存在し、同時に、主と共に生きることで、毎日がハレなのである。
そのことを覚え、今日も御言葉と共に生きて行こう。