イザヤ 1:24 それゆえ、主なる万軍の神 イスラエルの力ある方は言われる。災いだ わたしは逆らう者を必ず罰し 敵対する者に報復する。
1:25 わたしは手を翻し 灰汁をもってお前の滓を溶かし 不純なものをことごとく取り去る。
1:26 また、裁きを行う者を初めのときのように 参議を最初のときのようにする。その後に、お前は正義の都 忠実な町と呼ばれるであろう。
1:27 シオンは裁きをとおして贖われ 悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。
1:28 背く者と罪人は共に打ち砕かれ 主を捨てる者は断たれる。
1:29 慕っていた樫の木のゆえにお前たちは恥を受け 喜びとしていた園のゆえに嘲られる。
1:30 お前たちは葉のしおれた樫の木のように 水の涸れた園のようになる。
1:31 強い者も麻の屑となり、その行いは火花となり 共に燃え上がり、消す者はいない。
詩篇 90:1 祈り。神の人モーセの詩。 主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
90:2 山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神。
90:3 あなたは人を塵に返し 「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
90:4 千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。
90:5 あなたは眠りの中に人を漂わせ 朝が来れば、人は草のように移ろいます。
90:6 朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい 夕べにはしおれ、枯れて行きます。
90:7 あなたの怒りにわたしたちは絶え入り あなたの憤りに恐れます。
90:8 あなたはわたしたちの罪を御前に 隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
90:9 わたしたちの生涯は御怒りに消え去り 人生はため息のように消えうせます。
90:10 人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
90:11 御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて あなたの憤りをも知ることでしょう。
90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
90:13 主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。
90:14 朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ 生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。
90:15 あなたがわたしたちを苦しめられた日々と 苦難に遭わされた年月を思って わたしたちに喜びを返してください。
90:16 あなたの僕らが御業を仰ぎ 子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。
90:17 わたしたちの神、主の喜びが わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを わたしたちのために確かなものとし わたしたちの手の働きを どうか確かなものにしてください。
ルカ 11:29 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
11:30 つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。
11:31 南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。
11:32 また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」
ヨナは神様から託されて、ニネベの町の人たちに、神の言葉を宣べ伝えようとしていた。
しかし、その働きぶりは、ニネベの町の人たちを裁き、神はニネベの町を滅ぼすだろうといったものであったようである。
つまり彼は「他者を裁く」ことしか頭になかったということである。
もちろん、神の言葉には、罪を悔い改めさせるための言葉もないわけではない。
しかし、その言葉は、自分以外の他者のためだけに語られるものではない。
自分も含めた全ての人に対するものであり、まずは己が御言葉に聞いていくことが大切である。
ヨナにかけていたものはそういうところであろう。
自分は正しいし、正しいことをしている、間違っているのはニネベの人たち、と、そんな思いで行動していたのであろう。
しかし、ヨナ書を見て行くと、神がことさらに目をとめ、悔い改めへと導いておられたのは、ニネベの人たちよりもヨナ自身であることは明らかであろう。
我々もともすると、他人の事ばかりに目がいき、裁くことばかりに進みがちであるが、そんなことは我々のすべきことではない。
一人一人が主なる神の御前に立ち、己を見つめなおし、悔い改めるところがあるかないか自己吟味し、その上で、キリストの十字架の御業のゆえに赦された者であることを覚えたい。
私たちは、ソロモンやヨナにまさる知恵者でもなんでもなく、彼らにまさる罪人であり、神に愛された者なのだから。