マラキ3章5~12節、ルカ1章68~79節、フィリピ1章12~18節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

マラキ 3:5 裁きのために、わたしはあなたたちに近づき 直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者 雇い人の賃金を不正に奪う者 寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者 わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる。
3:6 まことに、主であるわたしは変わることがない。あなたたちヤコブの子らにも終わりはない。
3:7 あなたたちは先祖の時代から わたしの掟を離れ、それを守らなかった。立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると 万軍の主は言われる。しかし、あなたたちは言う どのように立ち帰ればよいのか、と。
3:8 人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と 献納物においてである。
3:9 あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。
3:10 十分の一の献げ物をすべて倉に運び わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと 万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために 天の窓を開き 祝福を限りなく注ぐであろう。
3:11 また、わたしはあなたたちのために 食い荒らすいなごを滅ぼして あなたたちの土地の作物が荒らされず 畑のぶどうが不作とならぬようにすると 万軍の主は言われる。
3:12 諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだと 万軍の主は言われる。

ルカ 1:68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、
1:69 我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。
1:70 昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
1:71 それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。
1:72 主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。
1:73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、
1:74 敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、
1:75 生涯、主の御前に清く正しく。
1:76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、
1:77 主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
1:78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

フィリピ 1:12 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。
1:13 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、
1:14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。
1:15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。
1:16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、
1:17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。
1:18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。



私たちにとってはマイナスの出来事にしか思えないようなことの中にも、不思議な主の御業が顕されることもある。
パウロが捕らえられたこともその一つだったのかもしれない。
パウロはイエス・キリストの救いの御業について宣べ伝える働きを行っていたが、彼が捕らえられたことにより、福音の宣教が滞ったかと言うと、そうではなく、逆に仲間たちが意気に感じてパウロの分まで福音の宣教の働きを担おうとしていったのである。
彼らはパウロと違い、直接的な召しを受けていたわけでもない普通の人たちであったかもしれないし、特別な知識や技能があったわけでもなかったかもしれない。
それでも、パウロの意思を受け継いで、なんとか自分たちの手でも福音の宣教の働きを続けていこうと考えたのであろう。
パウロが捕らえられたことについて、パウロに何の落ち度もなく、単なる妬みや言い掛かりに過ぎなかったはずであるが、結果的に、それらの出来事も福音宣教のために用いられた、ということである。
ならば、私たちの周りで、仮に私たちにとってマイナスと思えるようなことや理不尽と思えるようなことがあったとしても、主なる神様がそれすらも益となるように用いて下さることを信じて、可能な限り、福音を宣べ伝えて行きたいものである。
神の御業は、私たちには思いもよらない不思議な方法で現わされる。
ありえない恵み、考えもつかない御業、御子イエス様の十字架と復活の御業により罪深い私たちが救われるという救いの約束こそ、何より不思議なことなのだから。