tablaboyの道日記 -8ページ目

tablaboyの道日記

祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように

久々の五井先生のお話です。

 

かなり世界が危機的な状況にあるので、どういう想いで日常生活していればいいか?

戦争を回避するために、また、地球の平和のために、また日本国民、世界人類の一員として、何をすればいいのか?

 

自分の健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、それらだけを考えてはいられないのです。

 

世界平和のためには、すべての人があらゆる欲望から解脱し、自己保存の本能を全員が越え、覚者になければならないのですが、それは理想的なことで、今までの進化のスピードではとても達成できません。それまでに戦争、あるいは天変地変によって、地球に住めない状態になってしまいます。

 

どんな大聖者が出ても賢者、哲人が出ても、自分を守ろうとする人類全体の業想念、自己保存の本能を超えさせることができず、戦争をなくすことができなかったのが、この地球人類の歴史なのでした。

 

五井先生も同じことを想っておられて、単なる宗教運動だけでは、その教えがどんなに良くても、教祖が立派であっても、それだけでは世界を平和に導くことはできない。地球の守護神たちの援助、宇宙天使たちの援助、そして肉体の人間たちによる世界平和の祈り・・その中から宇宙子波動生命物理学が誕生し、それによって世界は平和になる。

それ以外にはありえない、と何度も何度もお話しされています。

 

祈りによって地球の幽界の磁場を浄め、宇宙天使や地球の守護神たちが働きやすい環境を作り、宇宙子波動生命物理学の完成を促進させる・・・

 

それが五井先生の祈りによる世界運動ということになります。

 

このお話の中では、かなり詳しい宇宙子波動生命物理学の説明があります。

 

五井先生の写真をたくさんいれています。


五井先生の身体はご自分で「神霊のマンション」と表現されていましたが、神々、聖者、賢者が入れ代わり立ち代わり五井先生の身体に入られ、顔がいくらでも変わり、、自由自在にお話しされたり、叱られたり、浄めたり、という形で、完全に個人というものがなくなり、大光明の中に溶けてしまっています。私にはそう感じられます。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

あけましておめでとうございます。

 

いつもこのブログを見ていただいている方、

面識のある方もない方もご訪問ありがとうございます。

皆様の健康と幸せ、充実、成長をお祈りいたします。

本年もよろしくお願いします。

 

去年は、北朝鮮が本当に世界戦争のきっかけなりそうな、とても危ない状態でした。

大勢の祈り人が戦いの想念を浄めて、まだ地球が存続しているという状態です。

 

もう祈りがなかったら、一瞬先の未来もない厳しい様相なのです。

 

こうなることは、かなり前から知っていましたので、「いよいよ来たな。断崖絶壁に来たな」という感じです。

 

昔、心の中で守護神さんに聞いてみました。

「こんな凄い地球が本当に平和になるのですか?」

「世界は必ず平和になる! 宇宙子波動生命物理学が決定打となり、世界は必ず平和になる!」

という答えが返ってきました。

 

それが、36年前のお話です。

 

それ以来、まったく疑いが湧いてきません。

 

しかし、どれだけ犠牲を減らせるか、人間一人ひとりの苦しみを軽減するか、

それは、人間一人一人の想い次第、祈り次第なのです。

 

五井先生は、

「宇宙子波動生命物理学は野球でいうとホームランです。しかしホームランだけではだめなので、シングルヒットも必要です。そのシングルヒットが世界平和の祈りなのです」

というお話をされていましたが、今年も祈り続けて、塁を埋めてホームランを待ちましょう。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

あまり暗い話題を題材にしたくないので避けていましたが、最近の事件のせいで、連日報道されているので、書きたいと思います。

 

自殺といっても人間の存在自体が肉体だけではないので、不可能なことですが、肉体だけが自分と思い込んでしまっているので、死んだら悩みも苦しみも葛藤も病気もなくなると思って、自分の肉体を殺すのでしょうが、その後に遭遇する壮絶な状況を知っていれば、誰も絶対に自殺を希望する人はいなくなるでしょう。他殺の場合はもっと大きな苦しみが待っているのは言うまでもありません。

 

誰しもたくさんの過去生も経験していて、その中には生命の法則を離れた想念行為もあるので、それが現在の環境、魂の漠然とした曇り、理由なき不安、恐怖、自殺への衝動となっていると思いますが、祈りでいくらでも光明に変えることができるのです。常に選択の自由が与えられているのです。なぜなら、一番奥には神意識(生命の光)がだれにも存在していて、もうすでに神様であり、創造主なのだから。

それを知らせたいのです。その創造主である自分の力を自他の幸せ、自他の自由のために使えばいいだけの簡単なことなのです。

 

五井先生の自殺についてのお話です。

 

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

 

 

スピリチュアリズム(心霊主義)、心霊科学の大きな役目は、肉体の死後にも意識がある、マインドがある、意識活動がある、個我が存在する、霊界がある、霊界は厳密な秩序社会である、ということを世に知らしめることだと思いますが、残念ながら未だ十分に認知されていないので、自殺、他殺、その他の犯罪、戦争がこの世に存在しているわけです。

 

そこで少し引用させていただきます。

 

(ケース1 ― 公衆浴場で自殺した身元不明の男性の霊による通信)

 

1858年4月7日の夜7時頃。
パリの公衆浴場の中で、身元不明の男性が、自分の喉を切って自殺しているのが発見された。
死後6日経ってから、パリのスピリティズム協会で、この男性との交信が行われた。

 

ー 今、あなたはどこにいますか?

「わかりません…。 教えてください。
私はまだ生きているのですか…。 棺桶の中で窒息しそうです」

 

ー ここ(協会の交霊会)に来るよう、誰かに勧められたのですか?

「何か、ほっとしたのを覚えています」

 

ー なぜ自殺をしたのですか?

「では私は死んでいるのですね。 いや、そんなはずはない。 まだ体の中にいますから。
私がどれほど苦しい思いをしているのか、あなた方にはわからないでしょう。
あぁ、息が詰まる!
だれかそっととどめを刺してくれないだろうか?」

 

ー なぜ身元を確認できるようなものを何も残さなかったのですか?

「みなに見放されたからです。 苦しみから逃れようとして命を絶ったのに、これでは拷問だ」

 

ー ご家族は?

「私はみなから見放されたのです。 もう誰も愛してくれません」

 

ー 自殺を試みようとしている直前、ためらいはなかったのですか?

「とにかく死にたかった。 疲れ果てていたので、休息がほしかった」

 

ー 将来のことを考えて思いとどまるという可能性はありませんでしたか?

「もはや未来などありませんでした。 すっかり希望を失っていたのです。 希望がないと将来のことなど考えられません」

 

ー 絶命した瞬間、どんな感じがしましたか?

「よくわかりません。 私が感じたのは…。
だいたい、私はまだ生きています。
私の魂はまだ、肉体につながっているのです。
あぁ、うじ虫が私の食っているのが感じられる!」

(※ うじ虫がわいている感覚や、身体が腐っていく感覚は、必ずしも自殺者特有のものだけではない。 精神的に生きず、ひたすら物質的な享楽を求めて生きた人間が死んだ時もよく見られるものである)

 

ー 死が完了したとき、どんな感じがしましたか?

「死は完了しているのですか?」

 

ー 死んでいくときは苦しかったですか?

「その後ほどは苦しくなかった。
その時苦しんでいたのは、身体だけでしたから」

 

(カルデックの背後霊団のリーダー聖ルイへの質問)
ー この霊は死の瞬間は、そのあとほど苦しくはなかったと言っていますが、これはどういうことでしょうか?

「死の瞬間に、霊が、その生の重荷から解放されつつあったのです。 そういう場合には、解放された喜びのほうが死の苦しみに勝る場合があります」

 

ー 自殺した場合は常にそうなのですか?

「必ずしもそうではありません。
自殺した人の霊は、肉体が完全に死ぬまでは、(※ シルバーコードで)肉体とつながれたままになります。
それに対して自然死は生命からの解放です。自殺は生命を破壊することなのです」

 

ー 事故で不本意に亡くなった場合も同様ですか?

「いいえ。 あなたは自死をどうとらえているのですか?
霊は、自分のしたことに対して、責任を取らされるのですよ」

 

 

(ケース2 ― 投身自殺をした男性の霊による通信)

1863年2月12日、ルアーブルにおいて催されたスピリチュアリズムの集会において行われた交信の記録。
霊が自ら降りてきて語る。

 

「あぁ、これほど長い間、これほどまでにひどく苦しんでいる悲惨な者に、どうか憐れみを!

あぁ、むなしい。。。虚無の中を落ちていく。限りなく落ちていく。
あぁ、助けてくれ!

神さま、私はとても悲惨な人生を送りました。 哀れな人間でした。
老いてからは常に飢えに苦しんでいました。
そして酒におぼれ、すべてを恥じ、すべてに嫌悪していたのです。
もうこれ以上生きていたくはないと思い、身を投げました。

あぁ、神様、なんと恐ろしい瞬間でしょう!
どっちにしろ長くは生きられなかったのに、どうして自分から死を選んでしまったのだろう!?どうか私のために祈ってください。
もうこれ以上、むなしい虚無感がのしかかってくることに、私は耐えられません。このままでは体が砕けてしまう。
どうかお願いします。

あなたがたは、自殺によって地上を去った人間が、どれほど悲惨な経験をするか、よくご存じでしょう。
見ず知らずのあなたがたに、こうしてお願いするのは、この苦しみにこれ以上耐えられないからなのです」

 

(ここから、霊媒の指導霊からのメッセージ)

「あの霊は、地上で悲惨な生活を送ったのち、すべてが嫌になって、自ら命を絶った人の霊です。
あの霊には、勇気が欠けていたのです。
そうしようと思えば、高みを目指すこともできたはずなのに、アルコールに溺れてしまったのです。
彼は絶望のどん底まで落ち込んで、1857年7月22日、フランソワ1世塔から身を投げて、哀れな人生に終止符を打ったのです。

霊的学びや成長が進んでいなかった未熟で哀れなこの霊に、同情しておあげなさい」

 

(その後調査をし、指導霊の語った内容が事実であることを新聞記事で見つけ、確認ができた)

6年経ってもこの男性は相変わらず、「塔から落ち、身体が岩に激突する」体験を繰り返している。
繰り返し、目の前に広がる空間を見ては恐れおののいているのである。
身体が落下しているときの恐怖に繰り返し、6年も、さらされ続けているのである。

 

(ケース3 ― 婚約者の不実への激しい怒りから自殺した男性の通信)

(彼の自死までのいきさつをかいつまんで説明します。
ルイという靴職人が、ヴィクトリーヌという名の縫い子に言い寄り、二人はもうすぐ結婚をすることになっていた。
ある晩、ルイは彼女の家で一緒に夕食を食べていたが、そのうち激しい口論になる。けれどもどちらも一歩も譲らずルイは怒って自分の家に帰ってしまう。翌日ルイは彼女のところに謝りにきたのだが、彼女は頑として許そうとしない。仕方なく数日おいて再び彼女の元を訪れたのだが、彼女はドアも開けず、彼の懇願にも応じることはしなかった。
そしてルイは、「これで永久にお別れだ!」と叫んで、様子が静かになる。15分後、ドア向こうで同じアパートの隣人の叫び声を聞きつけ、ヴィクトリーヌがドアを開けてみると、そこには心臓にナイフを突き刺し絶命していたルイがいた)


 

1858年8月 パリ・スピリティズム(霊実在主義。 英語ではスピリチュアリズム)協会にて。

最初に聖ルイ(カルデックの背後霊団のリーダー)の霊への質問。


 

― ヴィクトリーヌは図らずも恋人を死なせてしまったのですが、彼女に責任はあるのでしょうか?

「あります。 彼女はルイを愛していなかったからです。彼女は付き合い始めてからずっと、ルイと別れられる機会をうかがっていたのです」

 

― ということは、彼女はルイのことを愛してもいないのに、関係をつづけたということですか? それではルイをもてあそんだことになり、ルイはそのために死んだというわけですか?

「その通りです」

 

― 彼女の責任は、彼女の犯した過ちの度合いに比例して大きくなると思います。 意図的にルイを死なせた場合と比べればまだ責任は小さくて済むのでは?

「その通りです」

 

― 彼女のかたくなさにルイは錯乱して自殺したわけですが、となるとルイの罪はそれほど重くはないと思えるのですが?

「そうですね、愛ゆえの自殺ですから。 卑怯な動機から人生を放棄して自殺したケースに比べれば、それほど罪深いものとはされないでしょう」

 

次にルイを招霊して尋ねてみた。

 

― ご自分のされたことをどう思いますか?

「ヴィクトリーヌは不実な女です。 そんな彼女のために自殺するなんて、完全に間違いでした。 彼女はそれに値しない女です」

 

― つまり彼女はあなたのことを愛していなかったと?

「はい、そうです。 最初は愛していると思い込んでいたようです。 けれどそれは錯覚だったということと、私との最後のケンカの際に気づいたのです。 そこでそれを口実にして私と別れようとしたようです」

 

― ではあなたはどうなのですか? 本当に彼女を愛していたのですが?

「むしろ、彼女を欲していたというのが正しいかもしれません。 もし本当に愛していたなら、彼女に苦痛を与えようとは思わなかったはずですから」

 

― あなたが本気で死ぬつもりでいたと彼女が知っていたとしても、彼女は拒み続けていたでしょうか?

「わかりません。 しかしそうは思いたくありません。 というのも彼女は根はやさしい女性だからです。 もししかたなく私を受け入れていたら、彼女はもっと不幸になっていたでしょう。 あんなふうになったことは彼女にとってはむしろ良いことだったのです」

 

― 彼女の部屋のドアの前に行ったとき、もしまた拒まれたら本気で死ぬつもりでいたのですか?

「いいえ、思ってはいませんでした。彼女が予想していた以上にかたくなだったので、私の感情が激しく高ぶってしまったのです」

 

― あなたが自殺を後悔しているのは、彼女がそれに値しない女性だったという理由だけですか? それ以外に何かありますか?

「現時点ではありません。 まだ混乱しているのです。 いまだに彼女の部屋のドアの前にいるような気がします。 ほかのことはちゃんと考えられません」

 

― そのうちわかるようになるでしょうか?

「たぶん、混乱が収まれば。 私がしたことは誤りでした。 彼女はそっとしておいてあげる必要があると思います。 私が弱かったのです。 それを思うとつらいです。。。
男は情熱にとらわれて盲目になると、馬鹿なことをしでかすものです。 あとになってみなければ、どれほど愚かなことをしてしまったのかに気づけないのです」

 

― あなたはつらいとおっしゃいましたが、それはどんな感じですか?

「自ら命を縮めたことは間違いでした。あんなことはすべきじゃない。
まだまだ寿命が来ていたわけではなかったのですから、すべてに耐えなければならなかったのです。今は不幸を感じています。 苦しいのです。いまだに彼女のせいで苦しんでいるような気がします。 いまだに、自分に冷たい仕打ちをした女の部屋のドアの前にいるような気がするのです。もうこの話はやめましょう。 このことは考えたくありません。 苦しくてもうこれ以上は何も考えられません。 さようなら」

 

この例ではまず悪いのは娘のほうである。
愛してもいない男が自分を愛している様子を見ながら、彼の愛をもてあそんだ。
したがってこの責任の多くは、彼女のほうにある。
彼に関していえば、彼は自分が作り出した苦しみによって罰せられた。
しかしその苦しみはそれほどひどくはないだろう。
というのも、彼は一時的な興奮によって軽々しく命を絶ってしまっただけで、時間をかけて悩んでから、人生の試練から逃れたいがために自殺したのではないからだ。

 

 

 

(ケース4 ― 高学歴の無神論者の霊による通信)

 

 

JD氏は高等教育は受けておらず、骨の髄まで唯物主義がしみ込んでおり、神も魂の存在もまったく信じてはいなかった。
死後2年たってから、義理の息子の依頼で、パリのスピリティズム協会において、自動書記による交霊会が行われた。

 

― 招霊します・・・。

「うぅーん、苦しい! 俺は神から見放された」

 

― あなたのその後を心配するご家族の依頼を受けてあなたをお呼びしたのですが、こうしてお呼び立てすることがあなたをくるしめているのでしょうか?

「そうだ、辛い」

 

― あなたは自ら死を選ばれたのですか?

「その通りだ」

 

(書かれた文字はひどく乱れ、最初は怒りのあまり鉛筆を折り、(彼が憑依している霊媒によって)用紙も破いてしまったほどだった)

 

― 落ち着いてください。 私たちみんなであなたのために神に祈りましょう。

「なんだと? 俺に神を信じさせるつもりなのか?」

 

― どうして自殺などしたのですか?

「希望のない人生がたまらなく嫌になったからだ」


人生に希望が無くなった時、人は自殺したくなる。
あらゆる手段を講じて、不幸から逃れようとするのである。

だがスピリチュアリズム(霊実在論)を知れば、未来が開け、希望が戻ってくる。
自殺はもはや選択肢の中には入らなくなる。
そもそも自殺によって苦しみから逃れることはできず、かえってその百倍も厳しい苦しみの中に放り出されることがわかるからである。

 

― あなたは人生における様々な試練や不幸から逃れたくて自殺したわけですが、それによって何が得られましたか? 生前よりも幸せになれましたか?

「死んだあとに、どうして虚無が存在しないのだ?」

 

― できる限り、今のあなたの状態を教えてください。

「かつて否定していたことをすべて信じなければならないことにひどく苦しんでいる。 魂がまるで燃え盛る火の中に投げこまれたようだ。 本当に恐ろしい苦しみだ」

 

― なぜ生前、唯物主義者だったのですか?

「俺は前の過去生で意地の悪い人間だった。 そのせいで今生で俺はずっと "疑い" にさいなまれることになった。 そのために自殺したわけだ」


 

前世からの傲慢を引きずっている者、自らの過ちをしっかり悔い改めていない者には、直感的に霊界が存在することに気づくことが禁じられている。それは、自らの理性によって、神の存在と死後の生命の存続を認めなければならないからだ。

しかし思いあがりが激しいばかりに、自分を超える存在を認めることができず、再び傲慢の罪を犯すことになる。
そしてひどく苦しむわけだが、その苦しみは、彼らが傲慢さを捨て去って、宇宙の節理のために膝まずくまで続くのである。

 

― 水中に沈んで、いよいよ死にそうになった時、いったいどうなると思いましたか? その瞬間にどんなことを考えましたか?

「何も考えなかった。 死後は虚無だと思っていたからだ。 後になって、これからずっと苦しみが続くのだということを知った」

 

― 今では「神も、魂も、あの世もある」ということがわかったのでは?

「あぁ! あまりにも苦しくて、そういったことはよくわからない!」

 

― お兄さんにはもう会いましたか?

「いや、会っていない」

 

― どうしてでしょう?

「なぜこれ以上苦しみを増やさなければならないのだ?  兄も俺も今は不幸なんだぞ。 再会は幸福になってからで良い・・・。 あぁ、なんということだ!」

 

― あなたが生前属していた団体には、生前のあなたと同じような考えをしている人々が多いようですが、彼らに伝えたいことがありますか?

「あぁ、なんと不幸な人たちだろう! 彼らがあの世を信じられるようになるといいのだが。 それが俺がもっとも望むことだ。 今の俺のことを知ったら、彼らもきっと考えを変えるだろう」

 

この後、JD氏の兄が呼び出される。
兄はJD氏と同じような考え方の持ち主だったが、自殺で死んだのではなかった。
不幸ではあったが、落ち着いていた。

 

― あなたは弟さんよりも落ち着いているようですね。 あなたがどのように苦しんでおられるのか、詳しく教えていただけますか?

「地上においても、自分たちの過ちを認めざるを得なくなったとき、自分のうぬぼれや慢心ゆえに苦しむことはありませんか?
『あなたは間違っている』とはっきり指摘してくる人の前で、身を低くしていなければならない時、抵抗を感じるのではないですか?
生涯、死後には何も存在しないと信じ続けてきた人間、しかもだれがなんといおうと自分は正しいと思い込んでいる人間が、『死後も存続する』と知った時、どれほど驚き、また苦しむと思いますか?
突然、輝かしい真理の前に投げ出され、自分が無であると感じるのです。自分が恥ずかしくて消えてしまいたくなります。
しかもその恥ずかしさに、かくも善でかくも寛大な神の存在を、これほどまでに長い間忘れていたことに対する後悔が加わるのです。
これは本当に耐えがたい苦しみです。安らぐどころか平安でもないのです」

 

 

(ケース5 ― 破産が原因で自殺した男性霊による通信)

 

フェリシアン氏は裕福で教養があり、善良な性格の、霊感の強い詩人だった。また親切で思いやりに満ちあふれており、人々から大変尊敬されていた。しかしある時、投機に失敗し、全財産を失った。
すでに年を取っていたので一からやりなおす気力もわかず、1864年12月、自宅の寝室で首を吊った。
彼は唯物主義でも無神論者でもなかったが、少々軽薄なところがあり、死後のことは考えたこともなかった。
そして死後4か月ほどたった頃に招霊を試みた。

 

― 招霊します。

「あぁ、地上が懐かしい。 地上でも落胆を味わいましたが、こちら(霊界)ほどではありませんでした。あの世はもっと素晴らしいところかと期待していたのですが、思っていたほどではなかったです。
霊界はごちゃ混ぜの世界なので快適に暮らすためには、そこから抜け出す必要がありそうです」
(ごちゃ混ぜというからには、彼がいるところは低級霊がいる世界である)

 

― 恐れ入りますが、亡くなったときの様子を教えていただけますか?

「自分で死ぬことを選びました。あの死に方は気に入ってます。
人生からおさらばするのに、どんな死に方をすべきか、ずいぶん長いこと考えましたから。しかしあんな死に方も、結局、たいしたことはありませんでした。物質的な心配からは解放されたものの、こちらではそれ以上に深刻でつらい状況に陥ることになってしまったのですから。
しかもそれがいつ終わるのか、見当もつかないのです」

霊媒の守護霊が、「彼はふざけて軽い答えかたをしているが、実際には相当辛い思いをしている。 自殺したことで大変苦しんでおり、できるだけ自分の悲惨な最期を思い出したくないのです」と答えた)


 

「あぁした形(自殺)をとらなければ、財政の危機的状況から逃れることができなかったのです。
今私が必要としているのは、みなさんのお祈りのみです。
もしお願いできるのであれば、私につきまとっている恐ろしい者たち、私をあざ笑い、ののしり、馬鹿にする者たちから解放されるように祈ってください。
彼らは私を『卑怯者』とののしりますが、確かにその通りなのです。
人生から逃げるというのは、卑怯以外の何ものでもないからです。

私はこれまでの転生で、この試練に4回も失敗しているのですよ!
今回は絶対に失敗しないと固く決心していたはずだったのですが…。
あぁ、なんという宿命だろう。どうか、どうか、祈ってください。
なんという拷問だろう。あぁ、苦しい…!」

 

(自殺したこの者の霊は、過去生でも何度も同じような事情で自殺をしていたのである。そしてこれからもそうした状況に抵抗できなければ、やはり何度も自殺することになるだろう。
われわれが地上に転生するのはあくまでも向上するためなのであって、その目的が果たせなければ、何のために転生したのかわからなくなる。 戦いに勝つためには、何度でも転生して挑戦する以外にないのである)

 

(ケース6 ― 前世で犯した罪の記憶にさいなまれて自殺した男の霊による通信)

 

カナダ銀行の支店の会計係であったアントワーヌ・ベルは、1865年2月28日に自殺した。
そして20年前から彼と知り合いで医学博士であり薬学博士でもある、カルデック氏の知人から、ベル氏に関する情報が伝えられた。

「ベル氏は物静かな性格で、子だくさんな父親でした。
しばらく前からベル氏は、自分が私の店で毒物を購入し、それを使って誰かを毒殺したという妄想を抱くようになりました。
やがて私の元を訪れ、私がいつ彼にどの毒薬を売ったのかを教えてほしいと言ってくるようになりました。
それから激しく落ち込むのです。
やがて夜も眠れなくなり、自分を責め、手で胸を殴るようにさえなりました。
彼は銀行で毎日夕方4時から翌朝9時まで、几帳面に、一度も間違えることなく帳簿をつけていたのですが、彼の家族はそんな彼の様子を心配していました。
彼が言うには、内部にある存在がいて、その存在が規則正しく帳簿をつけさせている、とのことでした。

ところがこんな理不尽な考えに完全に支配されるようになると、彼は私にこう言いました。

『いいえ、あなたは私をだまそうとしているのです。
私は覚えているのですから。
私があれ(毒薬)を買ったのは事実なのです』」


 

彼が自殺を図ってから約2か月後、パリで招霊された。

 

― 招霊します…。

「私に何をしろというのですか? 尋問でもするつもりですか? よろしい!結構です。 すべてを告白しましょう!」

 

― ちょっと待ってください。ぶしつけな質問をしてあなたを苦しめようなどと思っているわけではありません。 ただ今あなたがどんな境涯におられるのかを知りたいだけなのです。 もしかするとお役にも立てるかもしれません。

「もし助けていただけるのでしたら、どれほどありがたいか!
私は自分が犯した罪が恐ろしくてしかたないのです。
あぁ、私はなんてことをしてしまったんだろう!」

 

― どのような罪を犯したと思っていらっしゃるのですか?

「まず、私の心の中に希望の光を入れてくださったことに、感謝しなければなりません。

もうはるか昔のことになります。
今回の転生の直前に転生した時のことです。

私は南フランスの、地中海のすぐそばに立つ家に住んでおりました。
その時の私はかわいい女性と付き合っており、彼女は私の愛に応えてくれていました。
しかし私は貧しかったので、彼女の家族からはよく思われてはいませんでした。
ある日彼女から、大変繁盛している仲買人の息子と結婚することにしたと告げられました。
そうして私は捨てられました。
気が狂いそうなほど苦しんだ私は、結婚式の前日、相手の男への憎しみから、彼に毒を盛って殺したのです」

 

― それでその過去生でのあなたは自殺を試みたのですか?

「いえ、しませんでした。
希望が戻ってきたからです。
つまり、その娘と結婚できる可能性が出てきたのです。
私は心の中でひそかに喜びました。
しかし、罪の意識には勝てず、自首しました。
そして私は絞首刑となりました」

 

― 今回の転生においては、その過去生における悪しき行為の記憶はあったのですか?

「それを意識したのは最後の数年間だけです。
つまりこういうことです。
私はもともと善良な人間で、それはあの殺人を犯した時代もそうでした。
そしてこれが殺人を犯した霊にはありがちですが、犠牲者の最期の様子が頻繁に心によみがえってきて大変苦しかったので、私は何年もの間悔い改め、必死に祈り続けました。

その後私はまた生まれ変わって、別の人生を始めました。
それが今回の転生です。
私は平穏に、しかしおどおどしながら生きていました。
生まれつきの自分の弱さと過去生での過ちを漠然と意識していたのだと思います。
それは、潜在意識に記憶があったからです。

しかし、私が殺した男の父親が復讐心に満ちた憑依霊となって私に取り憑き、私の心の中に、あの過去生の記憶を走馬灯のようによみがえらせることに成功したのです。

憑依霊の影響を強く受けているときは、私は人を毒殺した殺人鬼であり、指導霊の影響が強い時には、子供たちのために一生懸命働いてパン代を稼ぐ健気な父親でした。
けれども、ついに憑依霊に負けて、自殺を図ったのです。

確かに私には自殺をしたという罪があります。
ですが、自分の意志だけで自殺を決行したのではなかった分だけ、罪は軽かったのです。

どうか、私のために祈ってください。
というのも、次の転生で私は再び、自殺したくなるような状況に置かれることになっているからです」


 

霊媒の指導霊の話)

「神は単なる口先だけの約束では満足しません。
実際の行為によって善に戻ったことを証明しなければならないのです。
そのためにこの霊は新たなる試練にさらされたのであり、この試練を乗り越えてこそ、より強くなることができたわけであり、また、勝利の意味も大きくなるのです。

彼は憑依霊につきまとわれましたが、彼が十分に強くなりさえすれば、憑依霊も離れていったはずなのです。
憑依霊の言うことに耳を貸さなければ、そそのかされても、自殺してしまうことはなかったでしょう」

 

この霊の話は、過去生で犯した罪の記憶が、警告として、また悔悟の思いとして、人につきまとうことがあるという事実を明らかにしている。
つまりすべての転生が関連しているということなのである。

 

 

メキシコで大きな地震があり、大勢の人が被災し、大勢の人が亡くなりました。みなさんで祈りの光を送りましょう。

 

世界人類が平和でありますように

メキシコが平和でありますように

メキシコの天命が完うされますように

メキシコ国民が健康で幸せでありますように

メキシコ国民の命が光り輝きますように

 

また、北朝鮮の問題もあります。

北朝鮮が平和でありますように

北朝鮮の天命が完うされますように

北朝鮮国民の命が光り輝きますように

 

夜中から、朝から晩まで祈りっぱなしの毎日ですが、これが祈り人の天命ですので、常に祈りの中で全生活をしております。

 

 

「光明の生活者」より

 

神さまの世界にかえる

  世界人類が……とやっていても、やっているうちに本当になって来ます。やっているうちに、知らないうちに想いが祈りに入ってゆく。

何故入ってゆくかというと、世界人類の平和を祈るその祈りの中には、神さまの光が充満しているんです。自分が想うと思うまいと、グーっと光の中に引張っていかれちゃう。だからどういう形でもよい、寝ながらでも世界平和をやっていたら、そのままよい気持でねちゃいますよ。眠れないなんていうことはありません。

言葉として世界人類、世界人類と想っているからダメなんです。

  声に出る言葉じゃない。想い以前のものなんです。世界人類の平和というのはそこのところがむずかしいんです。想い以前なんだ。

何故ならば本心の中では世界人類は平和なんです。いいですか。

神さまの世界、神さまが創った真実の人間の世界というのは平和なんです。そこへ帰えるだけなんですよ。帰えるだけなんだから、はじめっから平和なんです。はじめっから平和なんだけども、平和でないように見えている。それは業想念が消えてゆく姿として、まるでめちゃくちゃな世界が出ている。業想念の中で、政治が悪い、アメリカが悪い、ソビエトが悪い、あいつが悪い、あの会社は間違っている、なんていろいろ言っている間はダメなのです。

そんなことはどうでもよい。やりたい者はやらしておけばいいんです。他の国はどうであろうと、こっちのことはどうであろうと、そんなことは自分たちでいったってしようがないんだ。

それよりも、世界人類が平和である、という想いの中、神さまの中に入っちまうことです。入っちまうと、なんだかんだというのは空廻りしてゆくんです。そして祈りの光明が今度は逆に地上界に天下って来て、世界を浄めるんですよ。だから世界平和の祈りをやる人が多くなればなるほど、戦争の危機は遠のくし、天変地変もなくなるし、すべてはよくなるんです。それを知らせたくて私はしようがない。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

五井先生というかたは、偽善や形式を一番嫌われておられたので、平和ということでも常に一番根底から考えておられました。

今のような政治的妥協による平和、戦争がないというだけの平和・・・

そういう平和ではなく、「人間とはいかなる存在か、自分とはなにか」

それを解明した上での、光り輝く、活き活きとした平和、すべての人が覚者となった状態を平和と考えておられました。

 

「どうしたら世界人類が平和になるか?」という答えは、一人一人が世界平和の祈り心で生活し、大光明を地球界に振りまき、できるかぎりカルマを消滅させ、滅びようとする勢いをくい止めている間に、宇宙天使との提携による宇宙子波動生命物理学を完成させ、すべての人を覚者にして、他の星と交流できる文明程度に引き上げることだったのです。こういう完ぺきなシナリオを持った宗教家であり、科学者(宇宙子波動生命物理学五井研究所所長)・・それが五井昌久師であったのです。

 

 

 

「人類の未来」より

 

カルマから人類を解放すること

個人を救い、人類を救うのには、武器を持つな、持たすな、というより先に、一番根本の癌である業想念波から人類を解き放つことに専心しなけばならないのです。業の波動の中にいては、どのような偉大な政治家が出てきても、世界戦争はさけられません。アイク(アイゼンハワー)やケネデイのような立派なクリスチャンの人々でも、戦争の方向に向ってゆく世界の運命をどうにもならずに苦悩しました。

  地球世界を蔽っている、神(光)を離れた闇の想い、業想念の波動を、一日も早く光によって融かしきらなければ、どのような政治政策を取っても人類は平和にはならないのです。

  さて、この運動をいったい誰がやるのでしょう。アメリカの大統領がやるのでしょうか、それともソ連の首相がやるのでしょうか。とても駄目です。それは神を信ずる人々の一人一人がやるのであります。

 地球人類を滅亡させないために、第三次大戦を未然に防ぐために、皆さんの一人一人が、人類の業想念波を消滅させる、神のみ光を世に放つ、世界平和の祈りの運動を、是非ともやらなければいけないのです。やらなければ世界と共に自分たちも滅亡してしまうのです。

 今日の政治政策は、すでに業の波の残がいによって行われているのです。新しい世界は私たちの 一人一人の祈りの結集によって開けてくるのです。

   世界平和の祈りが持っ光明の塔は、今や厳然として、地球界に光を放っているのです。皆さんの一人一人が、その大光明の光の中に世界平和の祈り言をもって入りきり、自らが光明の使徒となって自らの周囲に平和の光を放つのです。

  世界の政治は、今や人類の一人一人が行わなければならぬ時となっているのです。一人一人の世界平和の祈りこそ、平和達成の大いなる力となるのであります。  

      ″世界平和祈るは神のみ心のひびきにあれば祈るたのしさ″

なのであります。各国人が祈り言をもって神のみ心に入ることは、神のみ光が、その人を通して地球世界に光明を放つことになるのです。

  よくよく、考えてみて下さい。今日の状態では、個人個人がどのように世界の政治政策に口出ししようと、思想的に根本的な相違をもつ米ソ中の対立は絶対に解けそうもありません。米ソ中の対立の解けない限りは世界の壊滅は時間の問題となります。

  そう致しますと、肉体人間の頭で、いくらどのように考えても行為しても、この世界は駄目になるということは、かなりはっきりしています。

  そこで一度、肉体人間の自己の力などという中途半端なものは思い切って捨て去ってしまうのです。どこヘ捨て去るかというと、世界平和樹立の光明の塔の中に捨てきってしまうのです。

それより他に方法は絶対にありません。                

  神のみ心は地球世界の平和を確立することにあるのは当然のことですし、人類の念願も平和世界をつくるということが、最大の念願です。ですから、神のみ心と人類の心が、この世界平和の祈りを仲立ちにして、すっきりと融け合うわけです。

誰でも容易に自己の業想念を消滅させ得る方法であると同時に、世界人類に平和をもたらす光明運動ともなる、世界平和の祈りこそ、全く今は生れなくてはならぬ絶対条件の下に生れ出でた祈り言なのであります。

 

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

今、北朝鮮とアメリカが一触即発の状況にありますが、日本も韓国もそれは同じです。

しかし、誰もがこの危機的状況を解決する力を持っています。

政治家だけが、力を持っているわけではありません。

一人一人の想い、祈りでとてもとても強力に働きかけることができます。それは世論という光のプレッシャーとなって、各国の指導者の潜在意識に直接つたわります。

日常生活ももちろん大事ですが、戦争になれば日常生活もなにもかも崩れるのですから、世界平和の祈り、守護の神霊の加護への感謝を、常に鳴り響かせていることがさらに大事だと思います。

いつもいつも思うのですが、世界平和の祈りは精神の万能薬、運命改善、カルマ消滅の万能薬だと思います。しかもただなのですから、これを飲まない手はありません。

 

 

 

 

「責めてはいけません」より

 

 小さな紛争も日本に影響する

 今年(昭和36年)になっていろいろな予言が出ていますね。第二次大戦で日本が真珠湾を攻撃するといった、それで当った、という予言者が、この春頃には世界大戦が勃発するとか予言をしたり、日本でも同じような予言をしています。

 さて果して世界大戦があるものでしょうか、どういうもんでしょうか。

これは実に大事なことですけど、私は“ない”という予言をするのです。“そういうことはありません”という予言。私はいい方の予言者、悪いことは一切予言しないことに決めているのです。

それでそういう風にもっていかないといけないでしょ。そういう風にもってゆくための世界平和の祈りなのです。

  それではこれから世界平和の祈りの重大なる意義を申し上げましょう。

 いつも申し上げているんですけれど、こうやって日本の情勢を見ておりますとね、この間もソ連が、アメリカがラオスヘ在日米軍を出兵させるようなことがあれば、日本は只じゃおかない、というわけですね。嚇し文句をソ連がいって来ておりますね。といって日本は、アメリカ軍を日本から追い出すわけにはいかない。もうちゃんと安保条約は決っているし、それにちゃんと駐留軍が来ているのだし、今更米軍を日本から追い出そうという気はないし、又出来もしないわけです。

 そうすると米軍は日本にいるのだし、それで米軍と協力すればソ連から年中おびやかされるのだし、日本が戦争をしたくなくたって、例えばラオスならラオス、キューバならキューバという処で米国が戦いをして、ソ連と戦争がはじまって、日本にいる米軍や沖縄にいる米軍を出兵させれば、今度ソ連が日本をやっつける口実が出来るわけね。だからやっつけられても文句はない。とこういうことになるのですよ。ですからね、今はアメリカ軍とソ連軍とこの二つの国の動きがね、すべてに関係する。

全世界の運命をかけているわけです。その間に小さな国々など沢山ありますね。そういう小さな国の内乱はどうやって起るかというと、アメリカならアメリカとくっついている国がありますね。するとソ連が物をやって武器をやったりして反乱軍をつくるわけです。反乱軍を作り上げてしまって、それで反乱させるわけですよ。反乱すると政府がアメリカに援助を求めてアメリカが援助する。陰ではソ連が焚きつける。

アメリカは正面からやって来る。するとソ連はアメリカは侵略している、侵略すると世間に宣伝するわけです。アメリカはそうするとますます怒ってやる、というようなことになって、キューバなんか、うまうまとソ連の手に乗っかっちゃったわけです。

実にうまく術中に入ってしまってアメリカは国交を断絶しましたね。

あれが一寸筋が違えば、アメリカがキューバを爆撃した、さあソ連が援助して報復した。こうやったあゝやったといううちに、インドシナの方でもやる。どこでもやるとなれば、これは世界戦争になっちゃう。

 世界が大戦になればどうなるかといえば、原水爆が落ちてくるとこういうわけなんですよ。

だから私共が安閑として生活しておりますけれども、実は毎日毎日明日あさって死ぬかもわからない生命の形で、生きているわけなんですよ。只知らないだけなんです。キューバで何かあったって、インドシナで何かあったって、一寸も関係ないような気がするでしょう。ところがキューバであることが、インドシナであることが、朝鮮であることが、どこかであることが、どんな小さな国である戦でも、結局は日本に影響して来るわけだし、全世界に影響して来て、これが地球最後の日になるかわからないという、境目になるわけなんですよ。

 

    幽界という世界がある

 肉体の他に幽体というものがあって、その世界を幽界というのです。

 幽界という世界はどういうことかというと、みんなの想いが溜っている処です。いろんなことが一年中ありましたね、一年中あったことをみんな憶えていますか。憶えちゃいませんね。特別なこときり憶えていません。後はみんな忘れているんです。その忘れたものはどこにあるかというと、幽界を波になってぐるぐる廻っているわけです。これを普通、潜在意識というのです。

そうした想念の波動が自分の幽体の中に廻っている。それが他の人の方にも関係してズーと幽界をぐるぐる廻っている。だから一人の人がいろんな想いをすることは幽界という広い範囲をぐるぐる廻っているわけですよ。だから一人の人があのヤロウやっつけちゃおう、あいつは憎らしいからやっつけちゃおうというように想います。それで自分は忘れてしまう。忘れてしまうけれど、その想いは、幽界をぐるぐる廻っているわけです。そういうやっつけちゃおう、あいつは敵だ、あいつは憎らしいというような想いが沢山たまると、憎らしいという想いと想いがぶつかって、それが戦争になったり天変地異になったりするのですよ。

 天変地異を起すのも戦争を起すのも、全部人間の想いなのです。

嵐が起るのも地震が起るのも戦争が起るのも原因は一つでね、人間の業想念、自分勝手な想い、人をやっつけようとする想い、要するに調和しない不調和な想いが、みんなそういうものを作るのです。

 

    幽界に危機の原因がある

 それで幽界を予言者や霊能者がみますと、幽界にはそういう戦いの波だとか、やっつけちゃおう、やっちゃおう、いろんな波が一杯溜っているわけなんで、その波をたどってゆくと、あゝ今年あたりもう戦争があるなという風に見えるわけなんですね。そういう波が実際にあるのだからね。だから私共のような世界平和の祈りがなくて、只あたりまえの地球世界が今迄のまゝの世界で、いわゆる肉体の人間という存在が只一つのもので、他に人間なんていうものはないんだ、神も仏もない、肉体だけが人間の全存在だ、というような考え方をしているならば、これは終いに必ず地球は破滅します。そういうように出来ているのだからね幽界は。

 ところが私は破滅するとは思わない。世界平和の祈りが生れて来たということは、幽界に出来ているあらゆる業想念を、みんな浄め去ってきれいにして、本来ある神様の生命を、神様の子の生命を、このまゝズーと神様の世界から肉体界まで、真直ぐに光を投げかけて光の交流をはかればね、幽界というのはきれいになって、神様のみ心の絶対調和がこの地球人類の世界に、開けてくるに決っているのですね。

そういう風に出来ているんです。

 一番初めには、神様は完全円満でしょ。だから完全円満のものが地球界にうつし出されて、神様のみ心が現われて、地上天国が出来るように設計が出来ているわけですよね。ところが人間の業がグルグル廻っちゃって、その神様のみ心をそのまゝ現わさないで、歪めてうつしているわけなのです今は。それでうっかりすれば戦争になりそうな波が現われているわけですね。だからそのままジーと見過していたらば、そのまゝ渦の中に入って、あいつがいけないとか、こいつがいけないとかこいつが悪いとか私か悪いとかなんとかかんとかという風に、自分で思っている想いが消えない以上は、必ずこの世界に戦争の危機とか天変地変の危機が訪れるのですよ。

 星にも現われているんだし、霊能的にも現われているのだから、そういうものを見ればあゝ戦争があるな、天変地変があるなという風に見えるのですよね。だからそういう予言は必ずしも嘘ではないんです。

けれどもそうなってしまったんじゃ、神は愛でなくなっちゃう。

それこそ残酷物語になっちゃう。

みんな亡びちゃうんだからね。そういうことがあるわけがない。

あっちゃいけないように守護霊守護神があるんですよね。だから守護霊守護神とか世界平和の祈りを考えなければ、神様なんていうものは非常に残酷なものですよ。そのまゝ人間は亡びちゃうのだから。

必ず肉体界は亡びちゃうのですから。

 

    神様と人間の自由

 だから今迄の宗教のようにね、只単に神様といっていたら、只行ないを改めなければダメたというんではね、お前の信仰が足りないからだめだとかね、お前の心が悪いからダメだとか、これは本当は原理なんですよ。自分の心が悪ければ悪いように現われるのだからね。

自分が相手をやっつけようと思えばやっつけられるのであって、むさぼればむさぼられちゃうんだし、自分の心が現われて必ず返ってくるのだけれど、只お前が悪いからそうなったというような、そういうお説教だけじゃダメなんです。そういう宗教じゃだめになって来た。

そこで私達が説いているように、神様というものは人類救済の波としては、守護神として現われてるんだ、一方では大生命から分れた小生命、直霊直日という生命を司っているもの、その流れとして神様から生命が来ている。生命は神様から来ているけれども、その生命はすべて人間の自由にまかされているわけなんです。自分の生命は自分で自由に使っていろんなことが出来るわけですね。

何をしようと勝手ですよ。人間というものは大体生れてもの心つけば何をしても勝手ですね。喧嘩しようと何をしようと自分の好きです。

したい放題のことをするわけですよね。止めようと思ったって止まらないでしょ。いわゆる生命を神様から分けられ与えられているから、その生命を自由に使って、その生命とは資本みたいなものですね、資本を自由に使って、どんなことでも自分で出来るように出来ている、そこが機械と違う処なのですが。機械というものは自分の自由に出来ない、作られたままで、作った人が動かさなければ動きがとれませんね。

人間というのは創造の生命の原動力をもらって、それで自由に自分の世界を作るわけですよ。だからこの地球界というものは、神様のみ心と人間の心とね、まざってそれで出来ているわけなんですよ。

 神様が自由にするわけじゃない。神様は”わしの子だ、自由だ”といって、人間がこっちへ行きたいというのに、ぶんなぐってなんでもかんでもこっちへよせるわけじゃないし、善いことをするのもみんな人間の自由に任せているわけなのですよ。大神様というものはね。

それで任せていなかったら機械と同じになっちゃう。

 

    守護霊守護神の涙ぐましき働き

 よくきくことは、どうして神様があって、神様が完全円満ならばどうしてこんな悪いことをする人間を造ったか、なんだってこんな不完全な人間を創ったりするのか、こういうように時々質問があるのですよ。

それは神様というものは生命そのものだからね、大神様は生命そのものだから、与えただけですよ、大神としては。何か人間を指導するのか、ということはそれは守護神なのですよ。

守護霊守護神が人間の運命を司どって、人間に協力して、神様のみ心を地球界に現わすようになっているわけです。

だから守護霊守護神というものを考えない信仰というのは、ないんですよね。

 神様が法則としての神様と、それから守護霊守護神としての神様と両方に分れて、守護霊守護神が一所懸命人間を守りに守って、どんな馬鹿な人間でも、コッチむけというのにアッチむいてしまう。又むけというのにアッチむいてしまう。いくらいっても駄目な人間が沢山いる。

皆さんじゃないんだけれど、あるんです。それをあきもせず、私は守護霊守護神はよくあきもせずやっていると思う。いうことをきかないから人間という奴は。もう自分の好き勝手。自分の想うことだけやろうとするのですよ。業なんだから仕様がない。みすみす損をするのをわかっている癖に、こっちに進もうとする。

それを守護霊守護神はなだめすかしなだめすかし、後からやっているわけね。いくらやってもらって危い所を救ってもらっても感謝しない。

平気な顔をしている。それで自分のことをやっている。

そういう人間なのね。それで私か神様と一つになった時ね、守護霊守護神が涙ぐましき働きをしているのがわかった。何もこっちはお礼をいわないのにさ。眠らないんだからね霊は。

人間は眠るでしょ。霊の方じゃ眠らないで働き放しなんだから。

それで一所懸命業をかぶっちゃ、苦しくなると滝へ行って、神様の世界でもみそぎがあるのですから、やって又来ては守り、一所懸命しているわけ。

それをこっちは一寸も感謝しない。それをみていた時にね、これはまず第一番に守護霊守護神に感謝させなければダメだと思ったのですね。守護霊守護神がこんなに苦心して守っているのにね、知らん顔をして守りを受けている、平気な顔をしている馬鹿共があるか。

こんなやつは亡びちゃった方がいい、とは思わなかったけれどさ(笑)本当に守護霊守護神の立場になるとね、肉体人間程馬鹿な横着なものはないんだから。

 それで守護霊守護神の代弁者として、守護霊守護神に感謝しなさい、とこうやっていた。それで守護霊守護神に感謝させていると、今度守護霊守護神がとても守りやすくなった。守護霊さん守護神さんといっているのだから、業がこんなにあってもね、こっちから(肉体人間側から)守護霊さん守護神さん!向うは助けたい助けたい、守護霊さん有難うございます! 助けたいとこうやってゆくでしょ。

だからぴたっとくっついてゆく。そうすると大きな業が出てくる場合でも小さく済んじゃうのですよ。

 

    一番運命をよくする方法は

 守護霊守護神に感謝してね、いつも守護霊守護神にくっついていることよ。どんな悪いことがあっても、どんないやなことがあっても、守護霊守護神にくっついていることよ。そうすると守護霊守護神がうまーくきれいに消してくれるのです。そこで守護霊守護神さん、有難うございますと感謝しなさい、と私はいつもいうのです。それだけじゃまだ積極的じゃないでしょう。それでもっと積極的な為にね、世界人類が平和でありますように、と守護霊守護神への感謝の想いを世界平和の祈りの方にむけたわけですよ。

 世界人類が平和でありますように

 日本が平和でありますように

 私達の天命が完うされますように

 って、守護霊守護神への感謝と共に世界の平和を願ったわけですよ。そういう祈りをはじめたらね、守護霊守護神の光が大結集して、救世の大光明として改めて私と一つになったのですよね。

 それからそれ迄の力と世界平和の祈りを始めてからの力とは、まるきり違っちゃったです。

十二、三年ぐらい前から、霊能のお婆さんが来ていましてね。まだ私がこんなに人数がない時に会った。そのお婆さんが来ると、私を見て遠く離れちゃって「あゝ有難うございます、あゝきれいな観音様、大きな観音様で有難うございます」とおばあさんがいつもお礼をいっていたのね。

私の母親なんか眉に唾をつけて見ていたけれどね(笑)だんだんそれを信用しましたけれどね。それが久し振りでこの間来たの。そしたら襖を開けて私を見た途端、パーッと下っちゃってね「あゝ有難うございます、あゝ先生の観音様は大きくなられました。まあ大きい」といってね、感嘆これ久しうしていた。

 

    大きい観音様に皆なっている

 前にあった時が例えばこの家ぐらいだったとすればですね、今はもう大きくて計り知れないくらい大きいと、いうのですよね。観音様が大きくなったということは、光が強くなったという意味なのですね。

それは世界平和の祈りを始めてからだからね。大きさがまるっきり違っちゃった。それで側にいる者が叱られちゃった。「あなた方はわかんないでしょ。この先生の偉さ、こんなに光っている」と叱っていましたよ。側には寄れませんといっていたけれどね、側に寄らなければ困る。

私は仕事にならないのです。というわけで、世界平和の祈りを始めてからは、世界平和の祈りを始めない前の何千倍何万倍何億倍というね、すごい光になっているのです。

それは当り前の話でしょ。個人個人を救う光と、世界人類を救う光とは違うに決ってますよね。だから皆さんが“世界人類が平和でありますように”という時には、大きい観音様に皆さんがなっているわけですよ。

どんなお婆さんでも小さな子供でも“世界人類が平和でありますように”とまともにいっている時は、その人はでっかい観音様です。

そう思ってこの日常生活をして下さい。すると心が豊かになって明るくなって、この世が楽しいですよ。そうしなければ世界は平和になりません。どんな現象的なことをやったってダメですよ。どんな偉い政治家が出てもダメです。

日本にいくらいい政治家が出たって、アメリカとソ連がやっているのだからね。キューバあたりでやっているのや、ラオスあたりでやっているのに、日本はどういう権限があるの。なんの権限もないでしょ。

アメリカはこうしろといったって、向うはそんなこと知ったことじゃない。ソ連は、といったってそんなこと知っちゃいない。日本なんかちびくさいのだから。そこでそんな言葉でいったって仕方がないから、霊界からサァーッと光をあててね、業想念の迷いの想い、人をやっつける想い、自分が威張りたい想いを人類の潜在意識の中からサーと消してゆくんですよ。

 そうすると必要のないもの、死んじゃうものは死んじゃうだろうし、亡びる者は亡びるだろうし、要するに光の人間だけが残ってゆくのですよ。そこで初めて地球世界が平和になってね、地上天国が出来るのです。その時は皆さんもうんと偉くなっています。

 

世界人類が平和でありますように

アメリカと北朝鮮が平和でありますように

アメリカと北朝鮮の天命が完うされますように

May peace prevail on earth

聖者の中でも、ほんの少数の弟子に”私を思いなさい” ”私を呼びなさい”というのは、師と弟子の深い絆の中での会話なら理解できますが、五井先生のように公に書物や録音で”私を思いなさい”という聖者は、きわめて稀だと思います。インドの和尚やカルキ・バガヴァンもたぶんそういうお役目を持っておられたのだと思います。

世界中の人の想いを24時間受け続けて浄めるというのは、本当に光明体になっていないとできない仕事なので、それができるということは神の器になりきっている、神我一体になっている、ということだと思います。世界平和の祈りで、この大光明を常に身体に取り入れましょう。

 

 

「不動の心」より

 

       大光明が働いている祈り

 こう観ていますと、守護霊守護神の働きがものすごいんです。大光明です、光が満ち満ちているんですよ。だから世界平和の祈りをやりますと、誰がやってもそこの処が光っています。どんな人が世界平和の祈りをしようと、その時は輝いている。世界平和の祈りをやる人は、大体私の話を聞いているか、私というものを通しているのです。

私というのは肉体ではありません。直霊の神である私です。神である私ということは、あなた方も神の子であり、神なんです。只業想念が邪魔をして、鼻っかみじゃなかろうか、なんて思うんですね。

神さま! って全部神さまにまかせてしまって、神さまと一つになり、そして降りてきたような、それは私ばかりでなく他にもあるはずです。

みなさんもそうなりつつあるんです。そうなる一番良い方法は何かというと、世界人類の平和を祈る想いなんです。何故祈る想いがよいかというと、世界人類が平和でありますように、ということは神さまのみ心でしょう。この地上界が天国になることは神さまのみ心なのです。

世界に戦争があったほうがよいなんて、神さまは想ってはいません。神さまは平和のほうがいいんです。大調和だし統一体なんですから、すべてのすべてなんです。完全円満なんだから平和であることは、神さまのみ心の現れなんです。だから、世界人類が平和でありますように、と想う心は神さまの中に入っている。わかりますか。世界人類が・・・と思う時にはもう神さまの中に入っちゃっているんです。

ところが今迄誰にも自信がない。

世界平和っていったっていいと思うんです。

けれど

”ハイ、私が神さまとつながって、世界平和の祈りを神さまがやれといって、私にやらしているんだ。世界平和の祈りを唱えれば、必ずここに大光明が輝き出るんだぞ”

と私が明言しますよね、それで私がいろんな奇蹟をやって見せます。

いろんな病気が治ったり、不幸が治ったり、知らない間に心が豊かになったりしますからね。

そうするとそれを信じます。信じた心でやりますから、世界平和の祈りの中にズーッと入ってゆく信じて世界平和を祈る人々がだんだんだんだん多くなると、みんなの想いが伝わっていって、祈りを知らされた人が知らない間に世界平和の祈りの中に入ってしまう。

だから、私のことなどを全然知らない人がした祈りと、ここにつながっている人の祈りとは全然違うのです。何故違うかというと、梯子だんがないからです。

五井先生という器があって、それを梯子だんにして登ってゆくんです。船戸さんじゃないけれど、神さまというのは五井先生だと思っている、それで自然に神さまの中に入ってしまう。世界人類が平和でありますように、というのは私の肉体を梯子だんにして登ってゆくんですよ。

或いはエレベーターでもあるんです。ところがこういう器がないと神さまの中へいかれないんですよ。             

               

        逃げないで責任をとる

  今迄の宗教家というものは、自分のことを想いなさい、なんていう人は殆んどない。

自慢をして、自分を見せようとして、自分は儲けようとして、私にすがればいい、その代り一万円よこせ、というんじゃだめなんです。

そういう人は大がいそうなんだ。

自分を想いなさい、助けてやる、というのはみな金取り主義なんです。立派な宗教家といわれるような人は、自分のことな想いなさい、なんて誰もいわないのです。何々の神を想いなさい、天照皇大神を想いなさい、イエス様を想いなさい、観音さまを想いなさい、そういって神さまを想わさせたのです。自分ということはいわないんです。

ここは大事なところなんですよ。ところが何々の神というのは抽象的なんですよ。つかみどころがない。天照皇大神といったってちょっと掴みどころがないでしょう。イエスキリストは、本当のクリスチャンにはイエスはふさわしいからよいけれど、ふつうイエスキリストといってもイエスは今いないから、掴みにくいでしょう。稲荷大明神といったっていないから、つかみにくいでしょう。それでお社にしたりしている。

神社は木で造った社です。この社に神さまが宿るくらいなら、この神秘不可思議なる肉体の中に神さまが宿らないわけがないでしょう。

よく考えて下さい。お社は木で造ったものです。どっちに神さまが宿るかっていうんですよ。わかりますか。

  今迄は自分の責任を逃れる人もある。或は自分というとなんだか自慢気だから、遠慮して、天照皇大神とか、あの神社を、とかいうんですよ。それでわざわざ像を造って、お社に置いて拝ましたり、自分は神主みたいにやっているだけなんです。そうすれば責任は自分にはないやね。その社の中の神さまにある。或いは像にある。或いは祈っている本人にある。お前の信仰が足りないからということになる。そうやって逃げられたんですよ。

ところが今みたいに、激しく業が出て、今にも滅びそうになっているのに、そんなことで逃げてはしょうがない。そこで、サア私のことを想いなさい、五井先生を想いなさい、というのが私の教えになって来たんです。                                                                    

     

      五井先生を思いなさい

  私のことを想いなさい、五井先生を想いなさい、こんなことはふつうじゃいえないんですよ。これは大犠牲でないといえないんですよ

五井先生を想いなさい、といって向うが想うたびにお金が入ってくるなら、私は邸が建っちゃうね。ところが想ったって想ったって、夜中の三時に想ったって五時に想ったって、私は一銭にもならないんだから。

一銭にもならないことをやる程バカなことはないでしょう。想いというのは伝わってくるんです。おなかが痛い、五井先生っていえば、おなかの痛いのがこっちヘ伝わってくるんですよ。頭が痛いっていえば、頭の痛いのが伝わってくるんです。憎らしいといえぱ、憎らしい想いが伝わってくるんです。波なんだから伝わってくる。伝わってくるものを報酬なんか受けないで、サァ私のことを想いなさい、ということはなかなかいえない。

  ひとの道、というのはお振替えというのをやりました。それで病気を治す時に、お振替えッて教祖のほうに病気の想いを返しちゃう。ところが振替料というのが要るんです。振替小切手(笑)か何か。何か包んで出すんです。私の場合には、朝でも晩でもいつでも想っても、いちいち今日は一回想いましたから、今日は二回想いましたから先生ッて送ってくる人はないんですよ。こっちは想いっ放し、想われっ放しなんですよ。みんな伝わってくる。その上で、みな想いなさい、と想わせることは、これは十字架なんです。

  何故、この固有名詞の五井先生なんていって想わせるかというと、想いやすいんですよ。神さまに伝わりやすい。それは高慢だ、という人があったら、その人はやらなくていいんですよ、想えば必ず利益がある。利益があるのは向こう。私のほうは無利益。想えば想っただけ助かる。ああ先生にまかせたから大丈夫だ、そうすると破産の手前でもなんとか助かる。たとえば破産しても、あああと大丈夫だと思う。

それは本当は私が受け合わなくても大丈夫なんですよ。人間の運命というのは必ずよくなるに決っている、神さまさえ想えば必ずよくなるに決っている。何故ならば、神さまは完全円満なんだし、人間は神さまの子なんだから、絶対に悪いことなんかありっこないんですよ。

悪いことなどというのはみな消えてゆく姿なんだ。ただそれだけじゃわからない。それで五井先生を想いなさい、とやるんですね。

想うでしょう。すると責任の転嫁ですよね。

いっぱい詰まっている自分の想いを、私のほうに渡しちゃうからね。

すると気が楽になる。ふつうの人でもそうですよ。向うが、うちの姑はこれこれで、うちの嫁はこれこれで・・・と愚痴のいいっ放し。こっちはああそうですか、と聞いているんです。さんざんおやじの悪口か何かいっちゃって、いうだけいうと向うは気が楽になる。うっかり「そいつは悪いですね、あんなの貴女のおやじさんですか、ダメですね」といったりすると、逆に怒っちゃったりする。

        

    これぞ菩薩行

  人間は想うだけのことをいいたいんです。貯めておけないの、貯めておくと病気になったり、不幸になったりするから、いいたい。いえる相手の人はどこにもいるというわけでもない。ふつうだったら嫌ですものね、またあの人は愚痴をいって、隣りのお婆さんが来たら逃げようなんて思う。ところが私の場合は逃げもかくれも出来ない。道場にいるから。

ああ来たな、と思って、愚痴をああそうかそうかと聞いている。本当に聞いたって聞かなくたって私のほうはいいんです。                           

  「ああさっばりした。先生が聞いてくれて有難い」といって帰ってゆく。

そうすると気が晴れてその日一日愉快。ところがこっちに想いはみんなかぶってくる。 

  たとえば電話がかかってくる。「五井先生、実はうちの子が四〇度の熱がでまして」「ハイ大丈夫ですよ」ってこっちはいうんです。大丈夫というからには大丈夫の責任をとらなければならないでしょう。はじめ電話がかかってくる時なんか、いやな気持なんです。

こっちはお浄めしている。電話がかかってくる。「先生、ちょっと」と呼ばれるでしょ、「実はうちの子が四〇度の熱が・・・」といわれた時はギョッとするですよ。次の瞬間にわかりますから「ハイ大丈夫」という言葉が出るけれど、その瞬間というものはなんともいえない嫌なものです。また「先生、手形が今日どうしても割れなかったち破産なんです」という電話がかかってくる時の嫌なことってないです。手紙もそうですよ。

  何か悪い人が来て「今日は」といった時、ああと思いますよ。「ああ大丈夫」と次には思います。その瞬間のいやなことが連続しているけれど、瞬間のひっくり返し、ひっくり返しがわかるからいいんです。

  「大丈夫」という一言で熱が下っちゃう。そういう責任は誰がとってくれるかというと、神さまと肉体の五井先生の連盟なんでね。肉体のほうと霊のほうと連盟して「大丈夫」というんです。だから大丈夫といった以上は大丈夫なんですね。ズーッとそうやって来ている。それでみんな安心している。        

  こんなこともあります。ある結婚の相談を受けた。駄目だといったのですが、よくみるともう結ばれてるんですね。だめだといったって結ばれていてどうにもならない。

どうしても許さなければならないでしょう。だめだ、といったらよけいだめになる。

そこで「よし、なんとか助太刀しましょう」ってことになる。

さあ結婚して、うまくいかない。案の定どうにもならなくなっちゃう。そうすると「先生がいいっていったじゃないか」とくるんですよ。いいなんていいやしないんだ。向うが実際上に結婚しちゃってるのに、いいも悪いもないでしょう。しょうがないから、いいというんです。

けれどその時にはもう私は責任を負うのです。文句をいって来た時に、本当のことをいったんじゃ身も蓋もないから、ああそう、それはいけないね、と応援するんです。朝から晩までそうなんですね。

  このような人が在るということは大切なことです。たくさん出来たらいいと思うんです。

そうすればこの世界の業の想いというのは、パッパッと消えてゆきます。私と同じような想いで、私と同じような教えをしている人がたくさん世界中に出てごらんなさい。業想念はその人が背負って消してしまいます。私のような人がだんだん増えます。身をもって身を投げ出して皆引受けてくれるんですから。それを菩薩行というんですね。

 

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

人間は神そのものであり、創造主そのものなので、「世界人類よ平和であれ」、あるいは「世界人類が平和でありますように」と祈ったことは、もう平和を創造したことになります。それは宇宙に記録され、その分霊の大きな功徳となります。

それを確信しているか、理解しているか、分かっているかにかかわらず、やはり祈りは世界平和への大きな力となりつづけています。

やがて科学的に証明されるときが来ると思いますが、それまでは祈りの力を信じて、祈りつづけてまいりましょう。

 

 

「想いが世界を創っている」より

 

人間というものはどれだけの悪いことをしているか。肉体人間のほうは罪悪深重の凡夫なんだから、動物を殺して、ただ食べているだけだって悪いのだから、本当を言えば。それが積み重なっているんだし、人のためにならないことをやっている。それでも神様は赦してくれているわけなんです。

神様の赦しの大なることは、もう感謝感激雨あられですよ。

私たちのように想いの世界のわかるものは、神様有り難いなアと本当に思いますよ。ああ、あの人なんか本当は無事に生きていられる人ではないのに、いつでも文句ばかり言っているのに、神様のほうで赦して助けてくれて、有り難いと思っちゃう。世の中には、よくも赦しておくなアという人がいるんだから。

それを自分はいいと思っていることがあるとすれば、いいと思っているだけマイナスです。

妙好人と言われる人たちがいるんです。妙好人というのは浄土門から出ているんですね。南無阿弥陀仏から出ているんです。

妙好人というのは、白蓮華のように、きれいに浄まった人という意味なんです。悟った人です。それで学問なんかない、知識もないんですが、行ないが素晴らしくいい。そういう人を妙好人というのです。自力の聖道門や禅宗なんかからは出ていない。

「みんな南無阿弥陀、このじじいのような悪いものを」というところから出ているんです。

この間、白光誌に書いたのは因幡の源左さんで、お百姓なんですけれど、ものすごくいい人なんです。けれど自分は一番の悪人だと思っている。一番のどん底の悪い人と思っている。ちっとも悪くないのですよ。自分が一番悪い人だと思って、何か来ても、どんなことが来ても有り難いと思っている。

子どもが長男、次男とつづけて二人、気狂いみたいになって死んじゃうのです。お寺の和尚さんが「いくら阿弥陀様の慈悲といっても、こんなに悪いことが重なると、慈悲と感じられないだろうね」と言うと「いやそんなことはありません。阿弥陀様のご慈悲でございます」素直に本当にそう思っている。

それで「この苦しみから逃れて、早く阿弥陀様のところに行かれた、有り難いことだ」というような考え方をするんですよ。

火事で焼けちゃうことがあるんです。でもそれがそのまま有り難い、前生の業がこんな苦しみぐらいで消えていって有り難い……すべてそういう式なの。それには泣かされますよ。

すべてが有り難い。いいことをして有り難いのは誰だって有り難いわね。お金が入りました有り難い、出世しました有り難い、というのは有り難いんだけれども、ふつうの場合でいえば有り難くもなんともないことを、スパッと有り難い、と思えるんです。

とても素晴らしく、見ていると涙ぐましくなっちゃうんです。

牢屋に入っている犯罪人たちをみると「私のような悪い者が入らないで、代わりにあの人たちが入ってくれ、こういうことをすればこういうことになる、という見せしめをしてくださって、本当にあの人たちは私たちの身代りになっているんだ、有り難い」という調子なんですよ。

そういうのを聞くと、ああいい人がいるもんだなア、人間はいいなアと思います。

 自分は罪悪深重の凡夫と、自分をどん底に置いてある。肉体のほうの自分をね。だから何も出来ないから、みな神様、阿弥陀様――親様と言っています――のほうからやっていただくのだ。すべては阿弥陀様のほうから頂くんだ、何一つ自分の力ではしていないんだ、とハッキリ割りきっているんですよ。

 こういう人をみると、実に魂が浄まります。うちの宗教なんかもそれと同じことをやっている。肉体の自分の力では何も出来ない。

だから世界平和の祈り言を通して、救世の大光明の中に自分が入ってしまって、いいとか悪いとか判断をすることさえも、自分としては出来ないのだから、いいも悪いもすべて世界平和の祈りの中に入れてしまって、世界平和の祈りの大光明のほうから、この生活を毎日毎日新しく頂き直していこう、というのが世界平和の祈りなんです。

 真実の南無阿弥陀仏も本当はそうなんです。ただ自分だけが仏様の中に入って、自分だけが救われる、という形になるんですね。

ところが世界平和の祈りは、自分が世界平和の祈り言で入ってゆくと「世界人類が平和でありますように」という大きな愛の心でしょう。

スーッと横に光が広がってゆく。南無阿弥陀仏の場合は、自分と仏様との間だけはきれいになってゆく。ところが世界平和の祈りというのは、入る時にもう横に、人類に、世界中に、光が広がってゆくんですよ。

 往相といって、自分か救われる姿、それが南無阿弥陀仏なのね。救われてから、自覚がついてからやった南無阿弥陀仏は、今度、還相になって広がってゆくんですが、そこまでなかなか行かないんですよ。

時間がかかる。ところが世界平和の祈りというのは、まだ悟っていなくても、罪悪深重の凡夫のままで、なんだこんな世界平和の祈り大丈夫かしら、でも先生が言うならやりましょう、というぐらいで世界平和の祈りをしても、やっぱり世界平和の祈りが持っている使命、役目があるから、いっぺんにサーッと横に光が走ってゆくんです。

その人を通してね。

「なんだかわからないけれど、やらないよりましだ」と言って“世界人類が平和でありますように”とやっても、その人はそのまま光の中に入ってゆくわけです。自分が悟ろうと悟るまいと、光はその人を通して世界人類のほうに流れてゆくんですよ。これが世界平和の祈りの大変な功徳だし、大変な力なんです。

昔、塚本清子さんという人が八幡様のお祭りで、葛飾八幡宮にご挨拶のつもりで、世界平和の祈りをして石段を降りてきたら、そこに易者のお婆さんがいて「あなたのうしろには凄いお光が出ている、凄いお光で守られている。何んの守護神さんでしょう」ときかれた、というお話がありますね、易者のお婆さんが見たんですよ。ただ世界平和の祈りをしているだけなのに。今みたいに偉くなっていない時で、当たり前の奥さんの時です。やっぱりすごい光が出ているんですね。

浅草橋の山本さんという人は、お墓へゆくと必ず世界平和の祈りをしていた。山本さんのところによく行者さんが来ていた。

その人が「あなたのお墓のところから光がいっぱい出ていて、他のお墓にも光が放射されている。どうして」と言ったという。山本さんはただ世界平和の祈りをやっていただけでしょう。

 その人が悟ろうと悟るまいと、世界平和の祈りをやっていることが、世界人類のためになっていることなんです。世界人類のためになればそのお返しは、必ず自分に来るに決まっています。徳はみんなかえってくる。世界平和の祈りは世界人類のためなんだから、自分だけでなく、子孫代々、末代までに徳が伝わってゆくわけですよ

 こういう祈りはいまだかつてないんです。それはいよいよ末世、最後の世だから、そういう簡単にして効果のある祈り言が出てきたんです。だから皆さんは安心して、世界平和の祈りをやっていればいいのです。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

最近は異常気象で、台風や地震で大きな被害が出ていますが、気象というのは神々の働きで、人間の発した想念の浄めのために起こる、ということを五井先生は常々おっしゃっておられました。

ある段階にまで意識が高まると、神々、龍神などとの交流が自然になされ、気象をもその神通力によって変えることができると言われています。弘法大師がその神通力で多くの奇跡を行い、雨を降らせたり、井戸を湧かせたり、多くの人々を救ったというのは有名な話です。

台風や地震は、この地球の調和にはどうしても必要な修正の意味があります。それを人間の方できれば必要なくなるということです。

それが五井先生の開かれた道、祈りによる大調和運動、世界平和運動、想念の浄化運動によってやさしく実行できるのです。

最小限の被害で済むように、日常生活の中で無理なく、倦まずたゆまず、祈りつづけてゆきましょう。

 

 

 

「人類の未来」より

 

調和をめざす宇宙の叡智

ところで、宇宙神のみ心は無限の進化をつづけ、すべてを大調和してゆこうとなさっているのでありまして、このみ心が、宇宙の在り方に現われておりますし、大自然の運行にも現わされているのであります。私ども地球人は地球だけが大事でありまして、無限数ある星の一つ一つにも宇宙神のみ心の働きがあるのだということを忘れています。

大叡智である宇宙神が、地球よりはるかに膨大である星々を、ただ単に地球の美化のために飾りつけておくようなことをなさるわけがありません。各星々にはそれぞれ主神があり、諸神善霊がそれぞれの天命を果して働いておられるのです。宇宙神のみ心を心とした主神方が大宇宙経綸のために、常に光明波動を交流しあっておられ、その下につかれる諸神善霊がそれぞれの持ち場でそれぞれの働きをしているのでありまして、竜神の働きというのはすべての流れを司どり、浄化作用の働きをしているのでありますので、水に縁のあるところには、大なり小なりの竜神の働きがなされているのであります。

海にも河にも、湖にも池にも井戸にも、白竜、金竜、黒竜、青竜などそれぞれの持ち場での働きをされるので、天気の状態などにも、竜神の働きがなされているのです。

  すベては、宇宙に大調和をもたらすための働きなのでありまして、台風なども、台風そのものだけをみれば、被害甚大で困ったことのように思われますが、宇宙の運行や地球生物存在のためには大きなプラスになっているのです。ですから台風がなくても、それだけの浄化の働きを人間の側ですることができれば、台風が起る必要がなくなってしまうのです。イエスにしてもヨガの大聖者にしても相当の聖者になれば、祈りによって風雨を止めることができる、ということがよくいわれていますが、これは事実でありまして、その大聖の浄めの力によって、風雨によって浄めるだけの働きを、代ってするわけなのです。そこで風雨が止むということになるのです。

  それほどの大聖にならなくとも、多くの人々の真心こめた祈りによっては、天候を左右することができるのです。それは、多くの人々の祈りの力によって、大自然の浄めがなされるからなのであります。

その理でまいりますと、地震などでも、多くの人々の祈りによってさけることができるということになります。何故かと申しますと、この大地にしても、根本は波動によって成り立っておりますので、波動によって成り立っているということは、あらゆる素粒子は、粒子でもあり、波動でもある、という科学の原理によって明らかなので、科学的な解釈でもあり、霊的な観方でもあります。

祈りによる人間の心の光明波動、命の正しいひびきによって、波動から成り立っている地殻が正しく矯正されてゆくから、地震によって矯正してゆく必要がなくなるのであります。

  宇宙とか、大自然とかいうと、無知なる人々は、単なる物質存在とか、物質的動きとか思っているようですが、宇宙の運行や大自然の成り立ちは、すべて、神霊の働きによってなされているのでありまして、単なる物質的存在でも、物質の動きでもないのです。

  これは私などのように、常に神霊の世界との交流で働いているものには当然も当然も、普通の人が呼吸していると同じぐらい自然の想いなのであります。               

この大宇宙は、宇宙神を中心として、各主神、諸神善霊の組合せや段階が厳密になされておりますので、私どもが自然の働きだとか、それは自然になるのさ、という、そういう自然という状態はこうした諸神善霊の働きによって、そうした状態が起っているので、唯物論者のいう、単なる偶然や智慧も意志を持たぬ動きとは全く違うのです。

一定の定まった宇宙の法則とか自然律とかいうのでも、みな宇宙神や神々のみ心によってその法則が保たれ、自然律が保たれているのでありまして、引力と名づけ、斥力と名づけ、或いは原子の諸活動と科学的に解明されても、原子の活動そのものが、神々の働きによるのであります。

  五感で感じる世界では、この地球そのものも、人間というものも、みな物質とみえるのですが、実は、地球にしても人間にしても、ただ単に五感に感ずる物質体だけではなく、六感以上に感じる、つまり五感に感じるより微妙な波動圏の何重もの重なりによってなされているもので、これを私は人間は肉体の他に幽体、霊体、神体というものを纏っており、同時に各階層において生きているのである、といっているのであります。         

        

必要な想念の純化

  神界、霊界、幽界と一口にいいますが、この各界ともにまた幾つもの階層がありまして、細かく分けたら数えきれぬほどのものです。

そして、幽界なら幽界の或る階層だけにしか住むことができない生物がたくさんいます。その生物は勿論人間の五感ではみえぬ生物たちです。その生物たちは人間というものに非常に興味をもっていまして、折あらば人間の幽体にもぐりこんで、人間と同じような生活をしてみたい、と思っているのです。そこヘ人間のほうで、その生物たちと同じような下等な想念、つまり不純な性欲、虚栄心、権力欲、物質欲等々の、人間の高貴性から離れた想念を出しつづけていますと、いつかその想念の波に乗って、人間の幽体の中に入ってきて、自己の欲望を遂げようとするのです。

すると、まるで人間ではとてもできぬような、破廉恥の行為を平気でしたりするのです。神の子である真の人間性が、それらの生物の波動でかくれきってしまうのです。

  ですから人間は、常に自己の心を浄めるための祈りをすることが必要なので、人に知られぬからといって、いつも下等な想念で心を汚していてはいけないのです。人間の生活は常に種々な波動を受けていますので、時折りは様々な下等な想念も出てくることでしょうが、出てくる度に、これは消えてゆく姿と思って、神のみ心の高貴性のほうに想念をむけ変えるとよいのです。それが即ち消えてゆく姿で世界平和の祈りという方法なのです。

  人間だから下等な想いが出ても仕方がないなどと思ったら、とんでもないことで、人間は本来神の子であり、生物中最高の存在者なのです。ただ長い間の習慣性によって、下等な想念が蓄積されてしまっているのです。そこで私は、そういう想念はすべて過去世からの神のみ心を離れた想念が消えてゆく姿として現われてくるのだから、消えてゆく姿と思って、世界人類が平和でありますように、と人類すべての平和を念願する高貴な想いの中に自己を入れてしまいなさい、そういう善い習慣に自己の想いを変えてゆきなさい、と説くのであります。

  人間は最高の神のみ心から、光明そのものの生命波動が、霊、幽、肉と伝わって流れてきているのですから、常に蓄積された想念エネルギーを、神のみ心のほうに向けつづけて、神のみ心と同化 した想いで、自己の生活をしてゆけば、その人の生活は神界の生活と同じような善いことのみの現われてくる生活となるのであります。

人格も高貴なものとなるのであります。

 そういたしておりますと、幽界の生物のつけ入る隙もないので安泰の生活ができるのです。

  その他に幽界には、この世で誤った生活をして地獄に落ちている霊魂や、いまだ自己が死んで幽界にきていることを知らない人々などがおりまして、神の光をくらまして、神から遠く離れている人々の肉体に憑依したり、人は好いが、神の真理を知らぬ幽体の波動圏の広い人に憑依したりするのです。これもやはり、神のみ心のほうに常に想いをむけていさえすれば、なんでもなく済んでしまいます。

そこで、私は守護の神霊の存在を説き(拙著神と人間参照)常に世界平和の祈りをし、守護の神霊ヘの感謝をつづけていれば、憑依される恐れはない、と説いているのであります。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

人間は、最初から神から分かれて働きに来ている命なのだから、救われているし、悟っているし、完全円満だし、光そのものなんだけれども、闇の世界を開拓中なので、どうしても本当の姿を忘れるようになっているのです。それはこの宇宙の創造の仕組みとしてそうなので、肉体人間の責任ではありません。「神の分霊であることを忘れている」ことを責められてはたまりません。

本来は神そのもの、光そのものなのに、「そうじゃない。わたしはだめだ。過去に悪いことをいっぱいして救われる資格がない」と思い込んで、暗い世界に行こう、隠れようとしているのが、普通の人間になってしまった。

そうじゃなくて、本気で、深い信をもって神様を呼べば絶対に助けてくれるし、救ってくれるに決まっているのです。肉体的に救ってくれるか、あの世に行ってから救ってくれるかは向こうのほうで考えてくれています。

でも呼ばない人がとても多いのが現状なのです。

肉体人間の自分の知恵、力で解決しようと、自己の感情想念の渦の中であがいているのが現状なのです。

そして地球は滅びようとしています。

遠慮なく神様、守護霊様、守護神様を呼び、叡智と力をいただきましょう。

 

 

 

「自由解脱への道」より

 

死んだ後の世界は保証されている

 人間というのは、この身体がここにいますが、実は宇宙大にひろいんです。自分の中が宇宙なんです。

だから自分の心の中を奥へ奥へと入ってゆくと、宇宙一杯にひろがるんです。実感としてわからないだろうけれど。形がこういう束縛されている形ではないんです。

 この中は宇宙なんです。そして一人一人が菩薩さまなんです。本当は菩薩なのに、ああじゃない、こうじゃないという自分の想いが菩薩さまの本体を隠しちゃって、凡夫になっているんですよ。

 凡夫というのは、ああじゃないこうじゃないと思い惑う思慮分別というものが凡夫なのです。それがなかなか取れないんだ。

ところが初めっから悟っているんです。悟っていて菩薩さまなんです。如来さまの所にいるんです。だけれどそれがわからないでしょ。

村田正雄さんみたいに(村田さんは前生から私と一緒に修行している人ですが)今生では本当にはっきりわかってきたわけです。

(註2)「私の霊界通信」の著者。

 

 あなた方がたとえば死にますね。すると自分の世界がちゃんとあるんです。その世界で一番高い所が菩薩様の世界です。

如来様と一緒にいた世界で、神の子の世界ですね。そこに行けるんです。誰でも行けるんです。けれども普通は行けないんですよ。

自分の本当の姿なんだから、誰でも帰れるんです。けれど帰れない。どうして誰でも行けるのに、普通は行けないのか。何故か。それは自分はだめだ、と思っているからです。自分なんか自分なんか、なんかなんかと思っているからなかなか行かれない。

そこで私がここへ来て、「もうあなた方はそこ(神の子の世界)にいるんだから、世界平和の祈りをしていれば、業があるままでかまわないんだから、喜怒哀楽があるままでも世界平和の祈りさえしていれば、ちゃんと菩薩様の本体の所に帰れるんだよ」とやさしく教えているんですよ。

ですから、みんな世界平和の祈りと五井先生さえ思っていればいいんです。そうすれば死んだ世界では必ずいいところへ行きます。私が保証しますから。

 だからいつも言うでしょう。「保証しているんだから、もし死んで、行かなかったら、私のところへ化けて出なさいよ」と(笑)。

うちにはお年寄りがたくさんいるんだから、もし死んで“先生はそんなこと言ったけど、私は一生懸命世界平和の祈りをやったけど、いい所へ行かなかった”という人があったら、化けて出て来なさい。首絞めてもいい。なんでもいいから持ってらして下さい。

私はそれを引き受けているんだから。その代わり、世界平和の祈りをやってくれなきゃ困りますよ。五井先生を呼ばなきゃ知らないよ。

呼んだ場合に「ああ呼び方が少ないからいけない」なんて云わないです。ちょっとでも呼んだらいいです。必ず行きます。呼び方が少なかったから……なんていう言い訳は絶対にしません。

行くというのは当たり前なんで、向こうにいるんだから。本住の地はそこなんだから。行くも行かないもなく、いるんです。行くも行かないもないんです。余計な想いさえなければ、神さまがすっと現われてくる。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth