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tablaboyの道日記

祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように

この世は把われることばっかりで、命がまっすぐ理想通りに動くことができない状況に覆われています。

その中で命を活き活きと生かすには、どうしても消えてゆく姿ということがわからないと把われます。

社会の仕組みが全部把われるようにできていて、その中にどっぷり浸かって生きているのですから。

そこで祈りが必要になってきます。すべてが完成に至る過程で、そこに神様の力が働いていることを認識していることが、把われをなくすために重要なのです。幕末の偉人、西郷さんは、直感ですべては天がやってらっしゃるということを奥底で知っていて、天に運命を全託して、命を投げ出して、生死を超えて悠々と生きていらっしゃったのでした。

そういう胆力は、やはり天に対する信頼、「敬天愛人」という言葉がありますが、宇宙の摂理に対する信頼、神の愛であることに対する信頼から生まれるものだと思います。

 

 

 

「みんな救われている」より

 

 

決して責めない生き方

 いつも世界平和の祈りの中に入るようにしていると、人を責める想いがなくなります。人がどんなに悪く見えても、ああそれは業想念が消えてゆく姿だな、と自分を責める想いもなくなります。ああこれは消えてゆく姿だな、ということは瞬間的に判るんです。そうすると想いが出てきても、直ぐ消えます。

 この世に生きている間は、いろんな波があるから波がかかってきます。この世の中にいるんだから、かかってこない人はいないんです。かかってくるけれども、かかってくるむら雲にひっかかっちゃうか、把われないで離れるか、という違いがあるだけです。

 宗教の極意は何ものにも把われない、ということです。何ものにも把われないで空! といったって何にも思わないという人なんかいない。私はそういう練習をさんざんさせられたから、何も思わないけれど、普通の人にそんなことを言ったって無理でしょう。そしたらどうしたらいいかと言ったら、悪い想いのほうにくっつかないで、良い想いのほうにくっついたらいいでしょう。良い想いの最高のものは何かと言えば、世界平和の祈りです。だから繰り返すけれど、世界平和の祈りの中へ入ったほうがいい。

 ああ明日の米をどうしよう、明日のなんとか、と思うよりも、世界平和の祈りの中へ入っていれば、おのずから自然に動くのです。普通の人は、歩くんでも何をするんでも、自分でやっているように思うんですね。実は自分の肉体は勝手に動いているわけじゃないんです。この肉体が動くまでには、心臓を動かしている力が働き、肺臓を動かしている力が働き、胃腸を動かしている力が働き、足を動かす力が働き、すべての力が働き、総合の力となって動いているんです。

それを自分が動いている、と思っているんだね。これが大間違いよ。

自分の肉体がどうして勝手に動けますもんですか。

動かすものは内部の生命力でして、いのちの力が動かす。

いのちの力というのは、どこから出ているかというと、神様から出ている。神様から出てくる力が動かしているんだから、たとえば間違ったようなことをしても、ああそれは神様が消えてゆく姿としてさせたんだ、ということになって、神様に感謝をすれば、二度と再びそういう間違ったことはしなくなります。

 すべての行ないが神様から来て、いいことだったら神様がそのまま出たんだし、悪いことだったらそれは消えてゆく姿なんだし、両方、神様の力にしなきやダメね。すべて神のみ心の現われです。

 

  人はみな神の光りのひとすじと

   知りて生きなば明るきものを

 

 で、みんなすべて神様から出ているものだ、というように思うことなんです。そういう想いというのは練習だから、数多くやっているうちに、知らないうちに出来ます。だから練習はよけいやったほうがいい。よけいにやって固くならないことです。

 この世を生きてゆく最上の方法は、固くならない、いきばらないこと、ふんわりと、明るく大らかに、のびのびといのちを生かしてゆくことです。それには、神様がすべてを知っていらっしゃる、神様のいのちが自分に生きて、自分は神様の光の一筋として生きているんだな、といつも思うことです。

 神様がやってくださるんだから、失敗したら失敗したでいい、失敗をくよくよ悔まないで、これで業想念が消えていったんだな、神様、どうか私の天命を完うせしめ給え、世界人類が平和でありますように、と祈って生きてゆくこと。また失敗したら失敗したで、ああこれは消えてゆく姿なんだ、神様有難うございます、もう二度と失敗いたしません、世界人類が平和でありますように、と祈りにきりかえてゆく。そうすると失敗がなくなってくる。把われがなくなってくる。

 把われをなくす方法は、いちいち自分の想いを掘りかえし、探って分析しない。これでいいのかしら悪いかしらと、いちいち自己批判し、思慮分別して把われていたら、明るくなりません。大らかになりませんよ、把われがなくなると大らかに、生き生きして、明るくなるんです。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

「神様は愛なんだから、困ったときに呼べばからなず救ってくださる。人間が困るようなことはしない」と信仰深い人は自然に思うのですが、この世には災害にあって亡くなる人、交通事故で亡くなる人、犯罪にあって亡くなる人がいっぱいいて、テレビやネットでいつも見聞きし、自分も過去世においてそういう経験をさんざんしているので、やはり神様を呼ぶより、恐怖、心配、不安のほうが先に想いを占めてしまう、というのが普通の人間の心理だと思います。

でも、ここからが宗教の世界なのです。いざというときに、想いの切り替え、「神様、守護霊さん、守護神さん、五井先生」とか本当に心の底から呼べば、波長の法則で、奇跡と呼ばれていることがいくらでも起こりうるのです。もし亡くなっても霊界に行ってから奇跡的な救済が待っています。私自身も自動車事故でかすり傷一つしなかったこと、咄嗟のひらめきで事故を免れたことなど、いろいろ経験があります。

朝、仕事で家を出るとき、

「守護霊様、守護神様、行ってきます。留守をよろしくお願いします。世界人類が平和でありますように」

仕事をするとき、

「守護霊様、守護神様、いい仕事ができますように、ミスがありませんように、世界人類が平和でありますように」

というように、常に守護の神霊にぴったりと波長を合わせ、入り込んでいる練習が大事だと思います。

政治家やお医者さんなど、直接、多くの人の命にかかわる仕事をしている人は、特に祈り心で職務に当たっていただきたいと思います。

とにかく「祈りは絶対に聞かれる」と信じてまっすぐ祈り続けましょう。

 

 

 

「みんな救われている」より

 

守護霊守護神がお掃除してくれている

皆さん神の子です、と言われても、神様につながっているのですよ、と言われても、どうもなかなかそう思えないんですね。神様は愛だから、あなた方を決して不幸にしないんですよ、と言われても、何か不幸になるような気がするのですね。

 それは何故かというと、前の世、過去世において、いろんな恐怖を味わってきている。

たとえば火事で焼けて死んだ人がいるとする。生まれ変わってくるととても火事が恐かったり、地震でつぶされた人であったりすると、生まれ変わってくると、地震がとてもこわかったりする。恐怖の想いというものは、前の世、前の世から積まれている。だから、豪傑であっても、馬に蹴とばされて死んだことがあったりすると、馬がこわかったりする場合もある。そういう恐怖の想い、業想念が溜まっていて、神の子である光を邪魔している。それで神様の子である、ということがなかなか思えないんです。

神の子だ、光の子だと思うと、なんだか自分が悪いような気がしちゃうのね。そういう人は無理無理、神の子と思わなくてもいい。

そういう人は守護霊守護神の中に入っちゃうんですね。それで守護霊守護神に助けられて生きる。守護霊守護神がいつでも自分を見てくれているんだから、いつも守護霊さん守護神さん有難うございます、と感謝してさえいれば、いつでも助けてくださるんだと思うことが大事ですね。守護霊守護神も目に見えないから思えない、と思う人は”五井先生”と思いなさいよ。そうすると五井先生が必ず助けます。現われますよ。夢の中に現われるかもしれない。目に見えるように現われるかも知れない。どういう形で現われるか、それはその人その人によって違うけれども、呼んでいれば必ず現われます。危ない時、その人の危急存亡の時には必ず現われますよ。

 この間、飯田橋の会の時、熊沢さんが体験談をなさった。熊沢さんは南朝の天皇の後裔ですが、お母さんが急に具合が悪くなった。一生懸命、五井先生と呼んだら、それも一家中で呼んだら、五井先生の霊体がそのまま熊沢さんにうつって、お母さんを助けた。

一旦死んでしまったお母さんを助けた。

しかも”市川の五井が助ける”と名乗って現われた場合もある。(『新しい朝』〈体験記集I》参照)

 そういうふうに現われなくても、夢で現われて助けてくれるかもしれない。パッとなんだか感じて助けてくれるかもしれない。パッと光が見えて助けてくれるかもしれない。あるいはハッと思わず立ち止まって、自動車にひかれないということもある。

そのように呼んでさえいれば必ず助かります。

だから守護霊さん守護神さんと呼べない人は、五井先生って呼んだらいい。世界平和の祈りをなさりたい方は世界平和の祈りをなさったらいい。守護霊さん守護神さん有難うございます。

それが一番ピーンとくれば、それがいい。

五井先生! が一番ピーンとくれば五井先生がいい。

神様! ってただ神様を呼ぶのが一番ピーンとくれば、それでもいい。どれでも一番ピーンとくる、一番自分の心が納得する想い方をしたらいいですね。どういうふうに思おうと、いつでも神様は守護霊守護神の姿として、あなた方のうしろから守っている。そしてあなた方は神様の分霊なんです。その分霊の光を出そうと思って、守護霊さん守護神さんがうしろから一生懸命、寝ても覚めても業想念をお掃除してくれているんです、。

 

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

守護霊様、守護神様、ありがとうございます。

一人一人の想いがこの世界を創っているのですから、今何を思っているか、何にエネルギーを注いでいるか、がとても重要なのです。

政治は同じことの繰り返しで、既得権益、個人や団体の自己保身という想念の中をぐるぐる回っていて、誰が見ても、「だめだこりゃ」とドリフターズのきめ文句が浮かんできます。

「世界人類が平和でありますように」と祈ること、祈ろうとすること、あらゆる事物に感謝すること・・

そういう意識は、神界の完成している姿をダイレクトに、時空を超越して、地球の波動界に導き入れることができます。

実に実にすばらしい立派な偉大な仕事なのです。

それを瞬時絶え間なく自覚して祈りつづけてゆきましょう。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

 

 

「生命光り輝け」より

 

   日本はどうすればよいか

 現在の段階として、日本人はこの二つの世界の間にあってどうすればよいか。本当の平和を地球上に実現させるにはどういう生き方をしなければならないかを、真剣に考えなければなりません。

私たちは、あくまで宗教的な生き方を主にしてゆきたい、と思うのです。行動として、こうした問題にタッチできるのは選挙によることだけで、他に具体的な行動はできません。

ですから、私たちは、神さまに一度この問題を返上してしまって、改めて神さまの智慧でこの大問題を解決してもらうようにすることが、一番賢い方法だと思うのです。それはどうするかというと、私がいつもいっているように、私たちの背後には、守護霊、守護神があり、私たちのうちには直霊がいて、常に私たちの天命を完うさせるように光を放っているのですから、私たちの肉体頭脳の種々の想念や考えをひとまず捨てて、それらの神霊に日本の平和、世界人類の平和を全託してしまうのです。                                                  

  常に守護霊さん、守護神さん、と祈るような気持で、どうぞ日本が平和でありますように、とひたむきに祈るのです。その時は、不安の想念が減少しています。人類の不安、恐怖、疑惑等の小我(業)が常に、神々が人類救済のために放射している光を妨げているのですから、祈りによって、それだけそれらの業が減少している人類世界ヘの光の放射(救いの波)が有効になってくるのです。

       

     祈らねば平和はこない

  このように、皆さんの祈りは天に受けられ、地上に今度は光となってかえってくるのです。この祈りを常に真剣にしている人々は、自然に光に充満され、光を内に蓄積して、光を地上界に放射してゆくことになるのです。光の放射能、すベてを生かし、輝かせる放射能をふりまき、ふりまきするわけなのです。ですから皆さん方は愛なる神さまの光を受けて、光を外に輝かしてゆくものとなればよいわけです。        この世界平和の祈りは、どんな人はだってできることなのですよ。

 七十、八十の老人でも、小学生でもできるのです。祈りなんか、と馬鹿にしてはいけません。この祈りは、神さまの祈りなのです。人類を救い、世界を救う重大な力なのです。

この祈りがなければ世界は絶対に平和になりません。この光の放射が人類の思想を変えてゆくのです。地球や、宇宙全体の運行をも変えてゆくのです。この世界大平和の真摯な祈りだけが、力の平和と思

想戦の二つに打ち勝つ唯一の方法なのです。

口に出して言わなくとも、心の中で "世界が平和でありますように"と守護霊守護神につながって強く、大きく叫ぶのです。

  いくら個人の平和、個人の利益、自由のみを願っても、世界の平和、人類の平和なくしては、それら一切の平和に成立ちません。原爆が一発頭上に落ちれば、自己の平和など一瞬時して消滅してしまうものです。はかない消えてしまうような、そんな自分だけの平和は本当の平和ではないのです。

ですからまず第一に世界の平和、人類の平和を祈らなければなりません。世界の人々の真の平和の祈願は光となって、世界各国の指導者の脳裡に感応して、戦争や地球人類の破壊を何べんも防いでいるのです。共産主義者たちの叫び唱える平和な、自分たちの主義、主張に賛成する人のだけのものであって、資本家はいらない、あんな奴等はやっつけろ、と彼らに反対する者は倒してしまえというのです。

相手をやっつける平和、人を倒す平和は本当の平和ではないのです。それは業であって、神、光ではないのです。

    

  貴方の祈りこそ世界を救う

自分一人で祈ったって、力がない私なんかが祈ったって仕様がない、と思うことはないのです。真の世界平和を願っている人たち、団体は他にたくさんいます。世界平和を祈っているのは一人ではないのですよ。多くの人々が、そのために生命を燃やしているのです。その祈りが光となり、神さまの働きとなって平和を妨げるあらゆる力を消しているのです。

  力のない自分なんか、と思ってはいけません。自分が祈るのではないのです。守護霊、守護神が祈られるのです。

 これは世界を創り、世界を司る神さまの大悲願なのです。

ですから神界に通じて、世界を光で満たすのです。どんな人でもできる大きな仕事なのです。平和を実現させる大きな力です

尼港事件として知られる大虐殺事件


真の信仰のあり方、死に際しての心のあり方、日々の精進について書かれてあります。

この事件では、日本人731人を含む多くの住民が拷問、猟奇的殺人、レイプと、想像を絶する残虐さで、虫けらのように殺されたのでした。

その中には女性、妊婦、生まれたばかりの子供もいました。

その到底耐え難い状況の中で、日本人のおばあさんは信仰の中に安心立命し、人々のために無心で尽くしていたのでした。

本当に神仏の愛を心から信じ、祈りつづけていないと、とてもとても到達できる境地ではないですが、人間はどんな状況でも高い心でいられる、というすばらしいお手本だと思います。

何度読んでも涙がでて感動しますので、よんでみてくださいませ。

 

 

「運命を恐れるな」より


“大正九年三月、シべリアのニコライエフスクで、パルチザンの手で、石田領事はじめ日本人七百余名がだしぬけに牢獄にぶちこまれ、二ヶ月半ほどして何の理由もなしに惨殺されたことがありました。この七百余名の中にはたくさんの女や子どももいましたし、生まれたばかりの乳呑み児を抱えた女の人も何人かおり、その痛ましい光景は、とても想像も及ばないほどだったと思われます。

ところがその中に一人のおばあさんがおり、ときどき、
「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」
と唱えていましたが、他の人びとと違って、少しも恐れることもなく、平然として病人や子供の世話をしたり、悲しんでいる女の人たちを慰めたりしていました。これにはパルチザンも驚き、獄長と牧師が銃殺前に彼女を呼んで、
「どういう信仰をもっているか」と尋ねたそうです。

おばあさんは、
「仏さまの大きな慈悲に抱かれているという信仰です。私たちには何の恐れも、心配もありません。私たちの心はいつも平和で明るいのです」
といって、平然として銃口の前に立ったというのです。

これこそ、真実の妙好人そのものでありまして、普段からの深い信仰心の現れでありましょう。過去世からの因縁性の相違も勿論ありましようが、常に神仏のみ心に入りこんでいる祈り心こそ、生死を超越した、神我一体の境地にいつの間にか、その人を導いているのであります。
宗教者として人々の先頭に立っているわけでもない老婆のこういう姿は、より深い感銘を周囲の人々に与えるのであります。

宗教指導者として世に立っている人たちは、よくよく精進して、この老婆に恥じない心境に常に立っていなければいけないと思います。

いうは易く行うは難しなので、日々の精進こそ大事なのであります。
では次にカトリックの神父さんの話を致しましょう。
 
カトリック神父の立派な最期
ポーランドのマキシミリアン・コルべ神父は、一九四一年の二月に修道院から連れ去られて、ついで有名なアウシュヴィッツの強制収容所に移され、非常な虐待と迫害を受けました。

そして七月の末に、コルべ神父が収容されていた第一四号獄舎から一人の男が消えてたことから、その罰として同獄舎の十名が地下の餓死監房に送られることになりました。指名された者の中から、「家内と子供にもう一度会いたい」と叫んだその一人の身代わりに、コルべ神父は挺身して死の獄に赴いたのです。

神父と共に獄についた人びとからは、他の獄のように怒号や呪詛の叫びが聞えず、祈りと歌の声がもり上がり、死の獄が熱烈な聖堂と変わってしまっていたことは、ナチスの手先の者どもに深い印象を与えたといわれています。

しかしその声も日に日に弱くなり、聖母被昇天祭の前日には、はっきりした意識をもっていたものは神父だけとなり、最後の始末に来た獄吏に自ら腕をさしのべて、死の注射を受けたのです。

その清掃に入ったものの伝えるところによると、神父は壁によりかかり、目を大きく見開き、晴れやかな神々しい顔をして、一点を見つめていたということです。”

 

すばらしきかな

かがやかしきかな

愛のために命をささげし者

 

地球上からすべての残虐な行為、悪い想いがなくなりますように

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

無知ほど損でおそろしいものはありません。

無知ゆえに、この世に不幸、災難、病、苦悩があるといっても過言ではありません。

 

何に対しての無知か?

 

自分を知らない・・・

人間というものを知らない・・・

自分が神の分け命であることを知らない・・・

今の想いが未来を創っていることを知らない・・・

過去の想いが今の状況を作り出したことを知らない・・・

目に見える世界しか知らない・・・

守護の神霊が守っていることを知らない・・・

自分が創造主であることを知らない・・・

意識が主人公であることを知らない・・・

すべては現れて消えてゆくことを知らない・・・

知識として知っていても、行えなければ、それは知っていることにはならない・・・

 

 

「運命を恐れるな」より

 

運命改善の方法

人間は、釈尊や老子のいうように、肉体人間観ではもう今日以上の進化はしないのです。そこで釈尊の空や、老子の無為にいたる道を私は日常茶飯事の祈りの生活のなかから多くの人々 に体得できるように働きかけているのです。

未来に起こるであろう不幸災難を予測して、恐れや不安をもつのは、はじめのほうで申し上げた通り、肉体人間だけを自分だと思っている迷信によるのと、運命改善の方法を全く知らない無知によるのです。へんな宗教のおどかしや、宗教にまつわる様々な常識はずれの事柄を、まともに信じて悩んでいる迷信も、物質世界だけに人間が生きていると思っている想いも、ともに真理の世界からみれば迷信なのです。

姓名学をはじめ様々な運命学がありまして、かなりの適中率を示していますが、これは、運命が過去世からの想念行為によってできあがっているものであることを証明している、ということに他ならないのです。こうした運命を改善するのは、肉体的な自己を捨てきって、神霊の世界の自分にならなければならないのです。

みなさんはきっと、なんてむずかしいことをいう、われわれにとてもできっこない、とおっしゃるでしょう。それはそうでしょうが、肉体の自分自身でそれをやりとげようとしても、とても無理なことです。そこに祈りの重要性があるのです。祈りがなければ、とても運命改善はできないのです。

そこで私は、消えてゆく姿で世界平和の祈りを説いているのです。

消えてゆく姿というのは、この世に現われているすべての事件事柄は、過去世の因縁因果として現われてきたもので、そうした事件事柄はそういう事柄の要素を含んでいて、その人あるいはその集団の運命として現われてきたわけで、その過去世の因縁は、その果をはたして消えてゆくことになるのです。 そういう真理を知らない人は、その事件事柄が自己や自己の集団にとって不利益であったり、不都合であったり、悲惨なことであったりすると、いつまでもその事件事柄に想いを把われていて、せっかく過去世の因縁を果たして消え去ろうとする、因縁波動を再び、運命の渦の中に押しこんでしまうのです。

それでは、いつまでたってもその個人もその集団も、運命を改善するわけにはいかないのです。私の消えてゆく姿の教えは、ここのところで重要な役目を果たすのであります。

そのままいつまでも、事件事柄に把われていたのでは、どうにもならない運命を、それはすべて過去世の因縁の消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に入れきってしまった時に、その人あるいはその集団の運命は、過去世の因縁をはなれた神のみ心そのものを現わし得る本心そのものの人、集団として、生活してゆくことができるようになるのです。 なぜかと申しますと、事件事柄を現在だけのものとして苦悩する想念は、この世の肉体世界、三界(肉休界、幽界、霊界の下層)を超越することができず、いつまでも三界を経巡っていることになり、運命の波から消え去ってゆかないのです。要は、消えてゆく姿として祈りとともに、神さまのみ心の中で消し去ってもらうことが必要なので、そうすれば、現われた過去世の因縁は、そこで神の光明の世界平和の祈りのなかで消え去り、その人あるいはその集団の運命は、神の光明で満たされるのであります。

 

親まかせの幼児のような生き方を

世界平和を祈っている時、その人はすでに肉休身の人間ではなく、神界に昇っている人なのであります。人間はなんども申しますように、神の分生命なのです。実際は何をしなくとも神さまにそのまま通じている生命なのです。それを素直に通じさせなくしたのが、人間の業想念、つまり神と全然別個の小知才覚で、この世の運行をはかろうとしたからなのです。

そこで、その小智才覚の意識を、神意識に還元させるために、祈りがあるというふうに考えてもよいのです。なんにしても、人間は神様のみ心によって、生かされつづけているのだから、明るく和やかに、その日、その日を感謝して生活してゆけばよいのですから、あまり物事を複雑にむずかしく考えず、幼な児のような親まかせの生き方をすることが大事なのです。

人間の親は、先ほどから申しておりますように、神さまなのです。

古代のあらゆる聖者の根本の教えは、すべて人間の業想念を消滅して、神仏と一体化する方法を教えているので、私は現代における最もやさしい方法として、消えてゆく姿で世界平和の祈りを提唱しているわけなのであります。

私たちは体にテープレコーダーをつけて生活しているのと同じなのです。私たちの一つの想いも、一つの言葉も、一挙手一投足もみな記録されているのであります。もし、その記録されたものが自己の運命と現われては不幸であると思うならば、その録音はよいと思う録音にかえなければなりません。

そこでたゆみなき世界平和の祈りの大光明を録音し、今までの不幸災難の原因である業想念を消し去り、断ち切ってしまうのです。

みなさんはこのことを信じて、どうぞ日々の実行にうつしてみて下さい。必ず運命を恐れる気持がなくなります。運命を改善することができるのです。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

この宇宙はすべて波動、波の世界です。

どこの波に波長を合わせるか、全部自分で選択することができます。大いなる自由が与えられています。

ただし、その選択したことの結果は自分で受け取ります。 

単純な法則、原理・・・

そのことを理解していれば、その波であることを応用していくらでも幸せに、いくらでも愛深く、いくらでも強く、いくらでもやさしく、いくらでも輝きにみちた人間になれます。いくらでも世界を平和にすることができます。

 

 

「いい時にいまれた」より

 

  真理の言葉は光

 コトバは即ち神なりき、と言って、言葉というのは神であり、そのまま光なのです。真理の言葉は光なのですよ。

ところが「バカヤロー」という言葉は業想念の言葉。

「あのヤロー憎らしい、死んじまえ」

これも業想念の言葉。

世界人類が平和でありますように、と言う時には、平和を願う想いがある。人類の平和を願う広い広い大愛、いわゆる人類愛の言葉です。

愛の言葉は即ち光なのです。

世界人類が平和でありますように、という時には、言葉は即ち光になって、神のみ心になって、宇宙に流れるのですよ。

人間の想いは波なのです。人間はみなこう形に現われているけれども、みんなの心は波が寄っているのです。それで憎しみの多い人は憎しみの多い波を持っている。そうすると、憎しみの多い波が、ここにぶつかってきて、お互いが憎み合うのです。あるいは妬み深いものがあるとする。

妬みの想いをもってぶつかる。同じ波は同じところを流れているから、ぶつかる。同じところを流れているから、また同じグループになるわけです。

 皆さんは世界平和の祈りをするためにここに集まってきている。祈りの統一をするために集まっている。

世界平和の祈りというのは、高い高い高度なそして微妙な人類愛の想いの中に、すでに皆さんは入っている。

世界平和の祈りをしよう、と思っている時には、世界平和の祈りという、高い高い人類の希望、大愛の光の中に入っているわけです。

そういう波に皆さんは合うわけです。

 お互いに体がはなれていても、皆さんは世界平和の祈りという祈り言葉によって、一つに結ばれて光の輪になっている。その光はどこから来ているかというと、救世の大光明の中から来ている。

皆さんが二人寄り三人寄り、五人寄り十人寄って世界平和の祈りをしている時には、光になって、救世の大光明の中に吸い込まれてゆくわけです。そうすると、その人たちの体は神様の光と化している。

変わってしまっているわけです。世界平和の祈りをしている時には、その人たちは神の子の姿をそのまま現わしている、ということになるのです。一人が祈り、二人が祈り、十人が百人が祈り、千人がやり万人がやり、十万人がやる。そうすると、祈っている周囲は光に輝いてゆくのです。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

五井先生の真髄は、「全託」・・・

神(宇宙創造者、守護神、大生命、大叡智)の愛であることを信じて、素直にまかせる、命を、運命をゆだねる・・・

 

簡単なようでとても難しいのです。

これは過去世からの修行がものをいうので、信じるということ自体がハードルが高い人には越えられないのです。

そこで禅のような、神というのもを一切排除した、自我の奥底を探求してゆく宗教の道もあるわけなのです。

 

どちらが良いか、悪いかは、その人の霊系統、魂の形、過去世の修行の段階などによると思いますが、一般的に「全託」、信の道は大乗で、大勢が同時に進める道となっていて、浄土宗の日本の開祖、法然上人のおかげでさらに易行となり、大乗の道が広く開かれて、その易行道を引き継がれたのが五井先生というわけです。

 

五井先生曰く

浄土門的法華経即神道=五井先生の教え(消えてゆく姿で世界平和の祈り)

 

 

「いい時に生まれた」より

 

 私の一番こうなった根本は、素直にまかせたということです神様に生かされている、神様有難うございます。神様有難うございます、とスーッとまかせた。アッサリとね。まかせてから理屈を言ってはダメなんですよ。まかせたけれど、どうだこうだと条件や理屈がつく。

 松雲閣(新田道場)に初めて来た時、私は何もなかった。金はない。ないのにお嫁さんが来ちゃった。

来いと言ったら来た。今の家内が(笑)。ところが泊まる所がないんです。家がないのにお嫁さんをもらった。のん気ですね。来るほうも来るほうだし、もらうほうももらうほうでした。

着替えも何にもない。よく来たものと思う。今でも頭が上がらない(笑)。そうしましたら午後十一時半頃、相談に人がみえた。“借りると約束した人が来ない、どうしましょうか”、と言うんです。

それなら私が借りましょう。借りるといったって、その時まだ金はないんです。いくらですか、と聞くと二万円ぐらい。ちょうど家内が二万円を持っていた。そこでその晩から泊まる家が出来た。

 お金もない、住む家もないのに、スーッとまかしていたら、家が出てきた。そういうものなんですよ。

まかせて死んだら死んだで霊界のいい所へ行きますから、それもまたいい。生きていれば生きているで、それでいい。食べても食べなくても、死んでも生きてもどっちでもいいんです。

こんなのん気なことはありませんよ。のん気になったほうがいいですよ。お金でも着るものでも、すべて天から来るのに、自分で作るような気がするんですね。天から来る力でもって自分が動くのです。

天から来なくなったら人間は生きていられない。心臓が止まったらどうしようもない。心臓を動かしているのは自分じゃないのです。天から力が入ってくるんですから、まかせるもまかせないもないんですよ。私の経験としては、すべてをまかせたということでこうなった、ということです。

 

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

人間の世界は想いがすべてのすべてですから、この想いを光に同化させる、守護の神霊に同調させることが、自己保存の本能、感情想念の世界から抜け出す一番いい方法だと思います。それがそのまま世界平和への道につながり、無限の光明世界を紡ぎだしてゆきます。

 

 

「生命光り輝け」より

 

 

守護霊さんのカ

 いかに妄念がおそってこようと、さわりが来ようと、また病気になろうと、守護霊さんにほんとうにつながっていれば、瞬間的にフッと消せるのです。ただその時、恐れてはいけない。これで業が消えてゆくんだな、浄まってゆくんだな、と守護霊さんに感謝していることです。

病気になるのも、災害の現われるのも、これで業が消えてゆく、消えてゆくのだ、これだけ自分が浄まったのだ、浄まるために業が出てくるのだ、どんな苦しみも、どんなつらさも、すべて消えてゆくのだ、と思って、ひたすら守護霊さんにすがっていることです。悪想念の集合、業は守護霊につながることにより大分減少します。

 守護霊が背負って消してくれるのです。

  神さまの世界は、守護霊、守護天使の働きがなければ成立せず、現象の人間界もすでに滅亡しています。そのお働きをよくよく想い、感謝することです。日本の平和を想い、人類の平和、世界の平和を想う祈りは、守護神霊団に真直ぐつながり、それが光となって日本、世界人類を覆い、水爆も戦争もとめるのです。そして必ず世界を平和にさせるのです。

  つねに我は神と二人である、と想うことです。どんな荒涼たる原野を歩いていよりと、漠々たる砂漠を旅しようとも、自分は一人ではない、神さま守護霊さんと二人である。神さまと伴にあるのだ、と想うことです。神さまにつねに守られ、生かされている自分をじっとみつめること、想うことです。

  輪廻し、煙のように消える業想念をつかむことなく、ただ光明のみを掴む、神さまの光のみを見つめつづけることです。

これが光明思想であり、自分を救い、世界人類を救うことになるのです。

 

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

人間がなかなか悟れないのは、守護の神霊の仕事を肉体の自分がやろうとして、押しつぶされてしまっている、というのが大きな要因ではないか、と思います。

 

肉体の人間にはたくさんのサポート役の存在があるので、そのサポートを積極的に受け入れる、感謝する、ゆだねる、という素直な心持ちがとても大事だと思います。 

 

それは、「介護」によく似ていると思います。自分だけの力で、介護制度や社会福祉や他人に一切頼らずに、痴呆や病床の親の介護をするとすれば、仕事をやめ、すべての時間を親のために使わなければなりませんし、十分な資力がなければ生活保護ということになります。 

 

守護の神霊のサポートを無視する、拒否する、頼りにしない、ということは、「力尽きる」ということで、実に愚かな態度といえるでしょう。

守護霊さん、守護神さんはすべてをわかっていて、肉体の人間を全力でサポートしていてくれるのですから、そのサポートを十分に受け入れ、感謝し、肉体生活に活かすことが、賢い生き方だと思います。

そういうお話です。

 

 

 

「自由解脱への道」より

 

運命を修正してくれるもの

 そこで守護霊さん守護神さんがついている。前にやった悪いことが、たとえば一万なら一万の悪いことをしても、その人が「守護霊さん、守護神さん」と思って、守護霊守護神のほうへぶつかって入ってゆくと、このグルグル回っている業想念の潜在意識まできて、そこをくぐって守護霊、守護神の中へ入っちゃうんです。そうすると、業想念の三界をこえてしまって、神さまの世界へ自分の想いが入っているんです。グルグル回っているものも、ちょっとふれるぐらいで、たとえば一万も千万も借りがあっても、それが百か十かで済んでしまうもんです。それを運命の修正というんです。

 運命の修正、要するに運命を直してくれるのは誰かというと、守護霊であり、守護神であり、五井先生なのです。自分の努力というのは勿論ありますよ。だけど、自分自身が意気ばって、自分の短気を直そうとか、意気ばって自分の淋しさを直そうとか、意気ばって悲しみを打破しようとかいうのは、長くつづきません。調子のいい時は出来ますよ。「なにを!」と云って出来るけれども、調子の悪い時はどうにもならないです。調子のいいとか悪いとかいうものは度外視して、調子がいい悪いなんて問題じゃなくて、消えてゆく姿なんだ、守護霊さん守護神さん有難うございます、世界人類が平和でありますように、あるいは「五井先生!」と云ってしまうと、想いがいつでも三界をこえてゆくんです。

 いつも業想念をこえていかなきゃならない。三界というのをこえていかなきゃならないんです。

三界というのは、迷いのある世界のことをいいます。いうなれば肉体界、幽界、霊界の低いところを三界というんですが、それをこえる練習をいつもしている。それが消えてゆく姿なんです。

そうすると空になっちゃうんですね。仏教学者がむずかしい言葉で説くような空が、消えてゆく姿をやると簡単に出来てくるんですよ。知らない間に自分で出来てくるんです。

 そうすると、自分でやったことも、神さまがやってくれたことも一つになって、スッと動ける。

たとえば、歩いてAさんの所へ行こうとフッと思う。ところがBさんの所にも行かなきゃならない。

Aさんの所とBさんの所とどっちを先に行ったらいいか、なんて思って、Aさんの所へ行くとBさんが来てたりして、パッといっぺんに用が足せるようなことが随分ある。

あるいは、義理としてAのほうへ行かなきゃならない。しかし心がどうしてもAじゃなくて、Bのほうへ行きたいと思う。それでBの所へ行くと、Bへ行ったほうがいいことがあったり、Bの家へAが来てたりして、両方いっぺんに用が足せるとか、そういうことはたくさんあるんです。

そういうのはみんな守護霊さんがしてくれるんです。

 この肉体の頭ではそれは出来やしません。何がやっているかというと、うしろにいる目の利く人、遠くが見える人、未来のことが全部見えている守護霊、守護神がみんなやってくれるんです。

だから肉体の人間というのは、どんな偉そうなことを云ったって、今、現在の一瞬のこときりわからないんです。一分先、一秒先のこともわからないんですよ。「一晩あけりゃ朝になって、朝になったら飯を食うだろう」と思うだけです。だけど飯は食えないかも知れないし、わかりゃしないんです。

 そのように、人間の肉体の頭では一秒先、一分先のことも、先のことは何にもわからないんです。暗中模索しているわけです。なんにもわからないけど、わかったような気がして生きているんです。

守護霊守護神は、ところがちゃんとわかっている。霊というのは先のことなどみんなわかっている。

だから霊にまかせるんですね。というのは、守護霊守護神にまかせてゆくと、自分の業、自分の悪いくせもみんなどんどん消してくれる。どんどん消してくれるのは守護霊守護神です。それを他力というんです。それを浄土真宗では 「阿弥陀さまにまかせろ、南無阿弥陀仏」というんですね。

 

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

五井先生は、当たり前のように宇宙天使と交際し、宇宙子波動生命物理学の知恵を降ろし、どういうように平和運動しようかお話合いをし、というお付き合いをしておられたので、向こうの文明世界をよく知っておられました。そして、神界にあるもう完成している地球もご存知でしたので、後は時間の問題だということです。

 

肉体人間側の想いが邪魔しなければ、最短時間で神界の完成図を写し出すことができるので、だから「空」になることが一番大事だとおっしゃっておられました。

今のこの地球の在り方は、あまりにも程度が低く、スピードが遅く、もどかしくて、不自由で、馬鹿みたいで、地球の歴史を霊的に観て、「馬鹿の歴史」とおっしゃっていました。

 

すさまじい戦争の数、殺し合いの数・・・

戦争につぐ戦争、戦争しては相手を殺し、奴隷にし、搾取し・・・

そして同じことをされる番が自分に回ってくる・・・

英語でいうと 「idiot」といいますか・・・

すさまじい愚かさ・・・

 

しかしこの地球を光り輝く星にする天命を持っているので、命がけでカルマの消滅と祈りの宣布にと働かれていたのでした。

 

五井先生の霊覚では、星々の文明の内容、程度もわかっておられたようなので、宇宙天使とほうんとうに兄弟のように親しく交わっておられたと伺っています。

 

やがて宇宙子波動生命物理学が現実世界に応用されるようになると、宇宙天使がたと同じように、自由自在に命を働かせることができるようになるでしょう。それまでひたすら祈り続けましょう。

 

 

 

 

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth