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tablaboyの道日記

祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように

昨日、ロンドンで大きな火災があり、多数の方が亡くなりました。

心よりご冥福をお祈りいたします。

亡くなった方々の霊界での天命が完うされますように、みなさんでお祈りいたしましょう。

これは、マンションを管理しているほうの愛の欠乏が大きな原因であり、もっと掘り下げれば、過去世からの因縁生の消滅ということだと思います。

 

五井先生の教えは、「守護霊、守護神教」とご自身でおっしゃっておられましたが、この守護霊、守護神の働きを感じ取って感謝している人が意外と少ないのです。

人間という存在は、この魂の親である守護の神霊の援助がなければ、一瞬も生きてゆけない存在なのです。最近、つくづくそう感じています。

また霊界に移行した際にも、すべて面倒見てくれるわけですから、常に感謝して意識を通わせていることがとても大切です。

 

 

「神と人間」より 

 

神は愛である。愛であるから、守護神を我らにつかわし、守護霊を任じて、人間世界の悪因縁を消滅し去ろうとしているのである。

  守護霊を信じ、守護神を想い、神に感謝しなければ、いくら因縁の転回や、心の法則を知ったところで、人間は永久に救われない

  こちらが知っても知らなくとも、守護霊はただ、黙って人間を守っていてくれる。

  夢などはその顕著なるものである。

  夢は何故見るか、この問題は世界の学者が種々と研究をつづけているのだが、いまだに、はっきりとわかっていない。

  夢とは人間の業因縁の消滅する姿である、と私はいう。

  想念は必ず現われる。この法則は動かしがたい法則である。この法則のままに、想うことがそのままこの肉体界に現われたら、この人生は、もっともっと以前に滅びていたに違いない。

  何故ならば、肉体の人の心を奥底まで解剖すれば、愛は情に流れて執着となり、恨みは恨みを重ね、悲しみは悲しみ追い、闘争心は常に戦火を絶やさず、情慾の業火は至る所に燃えひろがり、殺傷事件は眼に触れるあらゆる個所に展開されていることは明らかである。

  この想念の感情を、肉体脳髄の念の休止している間に、巧みに夢として肉体世界と離して、描き出してしまうのが守護霊の偉大なる一つの仕事なのである。

現れれば消えるのが想念の性格であるので、夢として描き出されてしまえば、その想念は消えてしまう。肉体世界に現われた場合は、その現れが、また頭脳にキャッチされて、再び同じ想念を幽体に記録してしまうが(それでも現われれば幾分づつか、消えてゆくのである。)

夢の場合はその想念が巧みに戯画化されていて、いったいなんの想念であるか判然としないので、醒めた後で、いくら肉体頭脳で思ってみても、その夢に現われた想念は再び幽体に記録されることはない。

  その想念は夢によって一度断ち切られるので、業因縁がそれだけ消えたことになる。

  たまたまはっきり憶えている夢もあるが、守護霊が予知的に、その人に示す夢(霊夢)以外は、その夢の画が、やはり、その想念の内容を察知できぬように描いてあって、判然としない。

  フロイドという精神分析学者は、この夢をすべて性慾(リビドー)の現れと解釈していて、夢に現われる物質、風景、氏名等によって、それぞれの内容を解剖しているが、私の述べていることとはまるで異なる解釈で、人間の救いには、あまり役立たぬものと思う。              

  判然としない夢は、そのまま判然とさせる必要はないので、ただ、簡単に、自分の悪想念が肉体の悪い運命となって現われるのを、守護霊がその夢と現わして消して下さったのだ、と感謝すればよいのである。

  このことを知ることは大きな救いになると思う。

  この守護霊の働きは、真に感謝しなければならぬものである。

 守護霊は、幽界、霊界、肉体界と三界を通して働ける者なので、幽界において、できつつある運命、すでにできあがって、時間の経過につれて自然に肉体界(現界)の運命として現われようとする悪想念の結果(因縁)をあらゆる手段をもって、その人間の運命として現われぬように修正してゆく。

  この守護霊の働きを、知っている人、感じている人は実に少なくて、肉体人間の大半が、この影の働きを知らないのである。守護霊はその肉体人間が、守護霊の守護の力を知ろうと知るまいと、それは問わず、ただひたすら、運命の修正に全力を挙げているのである。いわゆる菩薩行なのである。

  いったいどういう風に守護霊が運命を修正してゆくかというと、種々の方法がある。

  例えば、転覆した汽車に乗るベきを、忘れ物をして乗り遅れたため、生命の危機を逃れた。という場合、物を忘れた、この忘れ物に守護霊の働きがあるので、守護霊の念が、その人の肉体頭脳に働きかけ、その人の頭の回転を瞬問的に阻止して物を忘れさせるのである。

また他の人を使って、自分の守護する人間を助ける場合もある。

  例えば、ある人が、何か急に友人を尋ねたくなり、別段に用事もないのに、急用でもあるような気持で、その友人Aを尋ねると、友人A一家は、事業に失敗して、まさに一家心中の手前であった。驚いたある人は早速この友人Aのために一肌脱いでやることになった。

  この場合、Aの守護霊は、Aを助けるため、Aと波長の合う友人のある人に、念を送り、Aの家へ引き寄せたのである。この友人なら、Aを救ってくれる、ということを、守護霊は、はっきり知っているのである。

 この二つの例のようなことが、常に人間世界の生活の上に起っているのである。

  守護霊はその被守護体の睡っている時から醒めている時、休んでいる時、いついかなる時間にも、この人間を守りつづけているのである。そして、この人間の発する悪想念の蓄積を浄めるため、たゆまざる努力をつづけているのである。もっとも、肉体界(現界)の救いとしては、この人間にでき得るかぎりの努力を、経験をさせつつ、いざという時に助けるのである。

 ここで、大いに考えねばならぬことは、守護霊にとって一番働きやすい、肉体人間の状態は、常に守護霊の方に心を向けていてくれることである。

 守護霊の存在のいかに重大であるかを知って、常に守護霊に感謝を捧げている子孫ほど守りやすい肉体はないのである。

 もっとも守護霊の生前の氏名など知る必要はない。

守護霊が懸命に、浄めの念を肉体に送っても、その肉体の心が全然他をむいていて、一向に守護霊のほうに心を向けなければ、やりにくくて仕方がない。

  やっと睡りの世界に肉体が入った時、無心になった肉体脳髄から、悪想念の蓄積(その時々の因縁)を夢として消すことより仕方がない。

  そこでこうした人を守るためには、先程の二例のように、他の人に送念して、他の人から注意や、助太刀をしてもらうことにする。この時の相手は、必ず過去世において、守護霊同志、または、肉体人間同志が、因縁浅からぬ者でなければ駄目なのである。

 しかし時には、その被守護体の人間が、あまりにも業因縁が深く、迷(無明)で分霊の光をほとんど覆ってしまっている場合には、いかに守護霊が全力を挙げて浄めたり、奔走したりしても、通じない。仕方がないので、守護霊は、守護神に救援を願うのである。

  すると守護神はこの願いを聞き入れて、大いなる神の光を、その肉体人間に放射する。 

この光は業因縁を通して、分霊に通じ、分霊の光の力が増してくる。この時、なんとなくこの肉体人間の心(脳髄)に宗教への関心が湧いてくる。

この場合、たんにご利益信心的な心であるかも知れない。それでもよいのである。

この人間にとっては、その気持の起ったことが、一歩も二歩もの進歩なのである。

 その時、守護霊は、その機会を逃がさず、その人間に適当する宗教に、その人間を導くのである。また、ある場合は、守護神の光によって、一挙に幽界に転出してしまうことがある。

 いいかえれば、急死してしまうことがある。それは、そのほうが、この人間の進歩に都合が良いからである。

  以上のように守護霊は肉体人間と一つになって、人間を善導しているのである。

 人間が、自己の運命を改善し、幸福になりたいとするならば、ただ、守護霊に自己の運命を委せればよい。守護霊さん、ありがとうございます、守護神さん、ありがとうございます、と常に感謝していればよい。この心が神への全託なのであり、守護霊の活躍を充分にさせる一番よい方法なのである。

  この心でいれば、その人の行動はおのずから、調和した整ったものになり、生活は楽しく楽になるに決まっているのである。何故ならば、守護霊、守護神、と真っ直ぐつながり

、そのつながりによって、その光によって、業生の因縁因果の過巻からいつの間にか離脱でき、分霊本来の力が直霊(神)につながり、肉体をもったままで、人間神の子の実感を真に体得できるのである

 守護霊を知らず、守護神を知らず、ただいたずらに、精神統一法をしたり、座禅を 組んだりした場合、その精神統一で、やや空になった肉体に、幽界の魂塊が威応してくる場合がある。

こうした場合、守護霊により、自然法爾に整った、生活態度、いわゆる明るい楽しい雰囲気とは違って何か、非常識な、他人に不快を感じさせるような雰囲気を持つ人間になる。(このことについては次章で改めて述べることとする)

  私は、座禅したり、静座したりして、心を空にする行法を採らない。

 空観する場合は、良き師匠がいなければ危険である。

 

私は、ただ、素直に、守護霊、守護神に感謝してその人、その人の生活の業に励んだほうが楽に、自然に、神につながり、悟れる、と信じている。

いかなる困難な事態がその人の前に起ころうとも、守護霊の守りを信じ得る人は、必ずその事態は光明に転ずるのである。

 

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

「責めてはいけません」より

 

 好き嫌いということ

 結婚は人生の重要なポイントです。自分の好みに従って、好きな人にお嫁に行ったり好きな人を貰ったりすることにきめた方がいいか。好きでも嫌いでもないけれど、上司の人が決めたから仕方なくなく涙をこぼしてでもいった方がいいか、その結果は後にならなければわからないでしょうね。

 実をいうと、好きというのに二つありまして、魂的にもうピタッと吸いつけられて好きになる場合と、いわゆる顔形、あるいは声に出る言葉とか態度、そういうもので好きになる場合もある。

 それから、なんとなく、たゞなんとなくなんとなく、一目見た時好きになったのよ(笑)というようなものもあるし、いろいろあるんですよ。いろいろあるけれども、人間の好き嫌いというもの程当てにならないものはないのです。よくあるんですよ、恋愛でもって、誰が止めても止まらなくて、もう天下にこの人程いい人はないというんで、いった人がありましてね。大分あるんですよ、そういう人が。

一年位して、泣きの涙で私のところにくるんです。だから私が“あなた確か恋愛結婚なんでしょ。好きで好きでしかたなくていった”というと――ええそうです。けれどもう嫌いでたまりません(笑)

   どうして一年の間にそんなに変化があるんでしょうね。

 それは好きということが、本当のものではなかった。魂が好きっていうんじゃなくて、形の世界の、丸顔だったから好きだったとか、四角いから好きだ、四角くて好きだかどうか知らないけれど、そういうんでね。目がきれいだとか鼻が高いとか、それだけで好きになってしまうのですね。好き嫌いというのは本当にわかりません。

 ですから一番問題なのは、自分の心を澄まして、心がすっきり澄んだところでね、見てそれで好きなら、それは間違いないんだけれど、大体好きか嫌いか決める時には澄んだ気持じゃなくて、のぼせてるんです。(笑)冷静な気持で恋愛するなんていうのはないからね。(笑)

 そこで一番大事なのは、自分のこの頭の中の好き嫌いというものと、それから魂いわゆる私がいっている守護霊守護神が好き嫌いというものとが合体して、自分も好きであり、守護霊守護神も好きであるという、そういう形の処へいったり、もらったりすればいいわけなんですね。

 

 素直さが必要

 ところがそれが自分ではわからないんです。わからないからどうしたらいいかというと、素直な気持ということですね。素直に素直に運命に従ってゆく、という形。現われて来たものはみんな自分にとって必要なものなんだ、どんな悪そうに現われても、それはやがては自分の為になるものなんだ、というような素直さですよね。そういう素直さがやっぱり必要なんじゃないですか。恋愛の場合でも、恋愛してしまってからじゃ間に合わないと思うんですよ。

手遅れだと思うんです。

 恋愛してしまうと、はたからなんといったってもう好きだからしようがないんですね。

 それで今頃はなお二十になれば自由なんですから。二十になると、親がどういったって私はいくわ、といえば、家を出てもしかたがないでしょ。だからそういう風に社会がもうなってしまっているから、恋愛しないうちが大事なんですね。

 今質問したような人は、もう子供さんがあるから、今度は子供さんのためにきいているわけなんですがね、そういうわけで、自分が好きにならないうちに、要するに子供のうちから、素直に天に従う、天の心に従うというような生活を、知らないうちに身につけておくことが、一番結婚の勝利者だと思うんです。そうすると、自然に直感力でもって、いい人わるい人、自分の魂に合う人合わない人というのがわかるんです。魂にピタッと合う、魂的な恋愛が出来るわけなんです。誰か親が決めてくれたり、知った人が決めてくれるよりも、魂的な恋愛なら、それが一番いいと思うんです。

 

 好き嫌いというのは当てにならぬ

 けれどもそのためには、どうしても自分の心が、自分の我欲というこの頭の中だけの想念で、好き嫌いと決めるようなそういう習慣がついている間は、恋愛は危険だと思います。この頭だけの好き嫌いというのは、本当にあてになりません。

 若い人には、もうくれぐれもいっておきますがね、顔形が好きだとかあの人は好いたらしいとかいうこと程、おゝよそあてにならないものはありません。恋愛ばかりではありません。

 交際の場合でもそうですよ。四十五十の大人が、昨日まで、あの人はとても立派な人で、私のために非常にいいし、誰にでも親切で、とてもいい人です、ってほめた人がですよ。

 今度翌月になって  “あの人どうした。元気ですか”  ときくと  “ええあんな人、あんないやな奴はないんですよ。あんな自分勝手でどこが好きだったんだか、サッパリわからない”(笑)

 私はよくそういうのをきかされるんです。だから、人をけなすことも勿論いけないけれども、やたらに人を賞めるもんじゃありませんよ。人をほめておくとね、今度けなす時困っちゃう。(笑)だから、私はなるたけ人をあまりほめもしなけりゃ、けなしもしないことにしてるんです。

 人間というのは豹変するんですよ。因縁が合ってる場合、要するに前生の借りかなんかありましてね、一所懸命片方がこの人に尽してくれるわけです。借りを払ってしまうと、もう当り前になってしまう。当りまえの心で見ると、急にこの人がいやになったりする場合があるんです。     

あちらがいやになるとこっちもいやになってくる。そうすると今迄ばかに尽してくれた人が、今度月が変ったら尽くさなくなってしまってね、自分に疎遠にしますから。そうするとこっちが“今迄あんなに私にちやほやしていたのに、なんでちやほやしないんだ”、という風に腹がたってくる。そうするとお互いがうまくなくなってくるわけなんですね。

 そういうのを因縁性の交際というんです。

 それで、結婚の場合も因縁性の結婚ではだめなんです。そこで私はよく、うちの娘の縁談をって、きかれるのです。そうすると二つも三つもこうあるわけなんですね。

 私が、あの人はこういう処がいいけど、ここの処が悪い、とかいうわけです。

 で二人ともいいけれど、まあどっちでも自分の好きな方を選びなさい、って、いい場合にはそういう風にいうんですよ。そうすると向うの人は質問するんです。

 “先生、結婚というものは生れた時からきまっていると思います。決っているのに、どうして先生はこの人だといわないか”とこういうんですよ。

ところが決っている縁談というのは、大旨、悪い場合が多いんですね。

 

 夫と妻の磨き合い

 この世の中というものは、魂を磨きながら神様のみ心を現わしてゆくわけです。

 要するに過去世の業を消しながら、だんだん神様のみ心を現わして、地上天国を創ってゆくわけなんです。だから因縁が消えてゆく姿というものがあるんですよ。因縁を果していかなければならない、業を果していかなければならないものが、どうしても出てくるわけなんですね。        

 それで果していった後で、本心が開いて本当の世界が出てくるわけなんです。だから結婚の場合でも、一番心を磨いてくれるものが、妻であり夫なんですよ。あんまりいい結婚をしてしまいますと、夫は妻をいたわりつ、妻は夫を慕いつつ(笑)という風にね、あんまり仲がいいと、もう二十で結婚しました。四十廻って五十になって、ますますよくなって、六十七十になってなおいい、なんてそういう結婚だとね(笑)心が磨かれないんです。

 あんまりよすぎて、ホカホカしちゃって。(笑)

 魂を磨くためには、刀でもそうですよ。日本刀を磨く時に、灼熱の火で焼いて、柔かくしてトントンうつでしょ。そして最後に綿かなんかでやるんでしょうけれど、初めは焼いたり叩いたりするんですね。そうして鍛えられるんです。それと同じように、人間もあんまりホカホカホカと、はじめから生れた時幸福で、結婚生活も幸福で幸福でしかたがなくてね、死ぬまで、ということになると、魂は鍛えられないんですよ。

 そういうことを守護霊守護神さんは知っているのです。知っているので、守護霊守護神さんほど肉体人間側から守護霊守護神さんを思わない場合、守護霊守護神は仕方がないので、その場合に消えてゆく姿を実演させるわけなんです。

  それで大体前生の因縁的に結ばれるものは、魂的には近いのだけれども、因縁で相擦れあうようなものを選ぶのですね。それで結婚させるわけです。

   擦りあわせておいて、一番身近かですからね。妻と夫と、親と子と、親子、夫妻というのは離れられないですよ。それはいつでもいつでも一緒で擦りあうわけです。いやだと思っても、どうしても見なけりゃならない。口をきき、顔を見なければならない。そこでどうしても擦れあい磨かれて、嫌でも応でも磨かれて、人間というものがわかってくるわけなんですよ。

 

 守護霊守護神がピッタリと合う人を

 そこで、種々と経験して、あゝ愛というのは、要するに自分だけのことを思うんじゃなくて、相手のことを思わなければならない、とかいろんなことがわかってくるのです。擦れあって、だんだんだんだん立派になってくるのであって、一番立派になるための擦り合い、いわゆる砥石のようなものに妻や夫が一番いいわけなんです。あるいは親子ね。つまり夫婦というものは、大体において百組の内の九十何組というのが、大体あんまり(笑)仲よくないんですよ。

   私つらつら観じてみるのにね。(笑)

 それで大体我慢したりしてやってゆく、我慢するために忍耐しなければならない、忍耐するのも 辛い、何とかならないかというんで宗教の門を叩いたりなんかする場合が多いんです。     本当は合わない、いわゆる魂が擦れ合う人をわざと選んじゃったりして、そういう風に使ってしまっているわけなんです。そこで私か霊覚でみた場合に、あき」の人はこのまゝいってしまえば、必ず六〇点ぐらいな結婚をしてしまって、擦れたり擦れ合ったり、出ようと思ったりひっこんだり、いろいろとやりながら一生を送るんじゃないかと思うでしょ。

 そうすると私は一遍あった縁談をこわしちゃう、ああそれはだめですってね。

 一遍決っている縁談でもこわしちゃって、ご破算にして、さあ今度新しく選んでいくのですよ。新しく選んで一番魂のよく合う、波の人を選ぶわけです。だからああこの人も合うな、この人もこっちの面で合うな、百%合うということは殆んどないんですからね。

 九〇%か八五%か、それでこの人もこうだ、こっちの人もこうだ、それでどっちを選ぼうかと、こういう風になってくるわけなんです。そのように説明してあげるんですよ。

 自分の好き嫌いというものを超えて、魂の合う、いわゆる守護霊守護神が好んだ、分霊の自分の本心が合うという人を選はなければならない。だからやっぱりのぼせ上ったんじゃだめです。のぼせないで確かめる。それが打算でソロバンづくで、あの人は東大を出て、月給が今二万三千円とっている、家柄がどうとか…だからいいとこういう風にいったり、親が偉いからいいと、そういう客観的な条件だけで人を選んだら危いんですよ。

  客観的な条件じゃなくて、やっぱりその人の人物というものがいいか悪いか、冷静にみて、自分の心と合うか合わないかということを、見なければだめですね。たゞボヤーッと顔が美しい汚いとか、学歴がいいとか、お金があるとか、というんではこわいですね。

 

 縁談ほどむずかしいものはない

 相談されて一番私は困るのは、学歴もいい、家柄もいい、男振りもいいという人がいるわけですね。そういうのをもってくる。お母さんはこれはもう先生がいいというに決っている、と思って娘のために持ってくるわけ。娘さんにしたって、家柄も学歴もいい、顔も美男だとしたら、これはもうこたえられないからね。(笑) いいと思ってくるでしょ。

  そうすると私がみると悪い場合もあるんですよ。困っちゃうんです。いい、といってやりたくてしようがないのだけれども、これは普通からみればいいのだろうし、お母さんももらいたいんだしね、娘もいきたいんだしね、いいといってやろうかなあ、と思うのだけれども、やっぱりだめな場合があるのです。それは結婚すれば駄目になってしまう、というそういう縁があるんです。

 そうすると私は涙をのんでね、さあね、といいながら、止しましょ、というんですよ。 

 そうすると先生を一遍でうらんじゃうんです。(笑)先生はなんでも悪い悪いっていう、なんてね。私は恨まれるけれども、やっぱりいけないものはいけないと断わらなければならない。

一番いやですよ。形が整ってて悪い縁談というのは、それはその人が他の人をもらえばいいわけだけれど、その人とは合わない。要するにいい人といい人とでも合わないのがあるのですね。どこからみてもいい立派な男性と、立派な女性であっても、結婚すればだめな場合があるのです。不幸になってしまう場合がある。そういうのは普通の人にはわからないんですよ。

 どこが不幸になるかというと、波長があわないのですよ、同じいい人であっても。

 例えば色の場合でも、紫と赤とすれば、これは両方が生きない。紫の中に赤が入っているからね。生きないわけです。片方が死んじゃうわけです。そういうようなのがある。

 いい色であればある程、いい人であればある程、その長所が強いし、その長所と長所がぶつかるんじゃなくて、短所もあるわけなんです。誰だってね。そうすると短所と短所がぶつかると余計にうまくなくなるんですね。そこで片方がとてもすばらしい男性であっても、片方が素晴しくない女性であっても、合う場合もあれば、あんなぐうたらのオヤジの所へよくあのいい奥さんがつとめてるな、と思ってもね、それで結構当人達は満足している。はたからみてやきもきするのは馬鹿馬鹿しい。そういうのもあるでしょ。一人を個人的に見れば、百点あるいは九五点の人であっても、相性としてみれば悪い場合もあるのですね。そういうところがとてもむずかしいのですよ。だから縁談ほどむずかしいものはない。

 

 これから結婚する人へ

 これから結婚する人は、守護霊守護神さんにお願い致します、私共の天命が完うされますように、といつも頼んでいて、頼んだ上において、今度は経験した人の参考的な意見などをきくといいのです。

 そして自分の好みと、先生なら先生にきくのが一番いいんだね、先生のいいというのと、親などのいいというのと、この三者揃うような縁談をやっぱり選んだらいいでしょうね。

 この頭の中の、好き嫌いというのはおおよそあてになりませんね。

 だから一番初めに頭の中の善い悪いというもの、好き嫌いというのを一遍捨てる練習を、常にしておかないと駄目でしょうね。捨てる練習をして、素直な気持で、スーと進んでゆくべきなんですよ

 昔の結婚で、いわゆる見合結婚がありましたね。相手を自分が知らないで、家と家とが結びついて結婚した。しかし昔はそれでもまあよかったわけ。それでも家と家とが結婚しても、嫁しては夫に従いですか、一遍いったら絶対に帰って来てはならないんですからね。帰って来られないようになっていたから、それで我慢し忍耐してやっていた。しかし今はそういうわけにはいかない。

 今はもう自分の自由ですからね。我慢に我慢して嫁いだままでいるってことは、殆んど考えられないことでしょ。だからやっぱり出やすくなっているわけです。出やすくなっているから、いいことを幸いに安直にいって帰って来たんじゃ、なお困るんですよ。

 そこで、やっぱり自分の心というものを澄まして、きれいな心にして、透明に、要するに相手が直感的にわかるような心にならなきゃいけないんですよね。そのためにはやっぱりこの統一会は必要なのです。統一会がどうして必要かというと、統一会は自分の我というもの我欲というもの、自分の趣味趣向というものを、一遍浄化するのです。趣味趣向があっていけないというんじゃないですよ。

 自分が好き嫌いがあっていけないという意味ではないのです。好き嫌いというもの、趣味趣向というものが、浄化されて浄まってくると、正しいものになってくるわけです。人を傷つけたり、自分を傷つけたりするような、趣味趣向というのがなくなってくるわけですね。

 いわゆる競馬競輪をやったり、ばくちをやったりするのが趣味だっていったって、そりゃあんまりいい趣味ではないですね。そういう趣味がだんだんなくなってくると同じように、まあお酒をのんでも、晩酌で少しやる位いならいいけれども、それが妻をぶんなぐったり、子供を怒鳴りつけたりするようなお酒になったら、お酒は困りますよ。

 少し飲めば血の循環がよくなっていいかも知れないけれども、過ぎては及ばないでしょ。

 そういうように趣味であっても趣向であっても、それが浄化されてくると適当になってくるわけですよ。それと同じように縁談の場合ね、妻を選ぶのでも夫を選ぶのでも、心がスッキリ澄んでいると、自分で選んだ人が神が選んだ人と同じなものになってくるのです。だからチョコチョコ好きになっちゃだめだ、とこういうわけなんですよ。

 

人間の尊厳性を高く求めよう

この頃の女の人や男の人は、昔だったら、好いたり好かれたりしてもね、あゝ好きだなあと思っても、なかなか近よらないですよね。手紙出すことも控えちゃうし、話しかけることもしないで、そのまゝ通ってスーと他の処へいってしまうわけです。それは一長一短で、それで悪い場合もあるのだけれども、今の人達は俗の言葉でいえば、惚れっぽ過ぎますよ。男の人と女の人がすぐ好きになったり嫌いになったりする、本当に安直に好きだとか嫌いだとかになり過ぎている。それは自由のはき違いなのですよ。

 もっと自分というものを高く維持しなければだめです。自分の尊厳性、人間の尊厳性というものを高く求めてなくてはね。安直に好きになったり嫌いになったりするというのは、自分を惨めにして自分を馬鹿にしているというのと同じなんです。そういうんじゃなくて、もっと自尊心をもって、本当に見定めなきゃいけないですよ。見定めるまで辛抱するぐらいな、辛抱強さがなければならな手あたりしだいに、側にいる人が皆好きになったり嫌いになったりする人がある、本当に若い時には。だから二十か二十二一の恋愛なんていう程、あてにならないものはないです。側にいて親しく交際う者が好きになるんですからね。近づく機会のある人が好きになってくる。それではだめなのです。

そこでやっぱり恋愛というよりは、親とか親戚とか先輩とかが薦めたもので、しかも自分がいいと思うものを選んだ方が、男の人にとっても女の人にとって1いいと、私は思うのですよ。というわけで恋愛講義になっちゃった今日は。

 

 五井先生や長老導師の先生に結婚のご相談をされた方はたくさんおられると思いますが、結婚ほど難しいものはない、と先生方も悩まれていたと思います。

永安先生のところにもかなり恋愛、結婚の相談に来られていましたが、なかなか理想的な出会い、恋愛、結婚はないと感じています。ほとんどが磨きあうための結婚だと思います。

魂から見た恋愛、結婚に詳しく書かれていますので参考にしてください。

また、肉体の人間は利害、小智才覚で動きます。

女性は「経済力があって、ハンサムで、性格がよくて、将来性があって・・・」と、そういう男性を望み・・・

男性は「気立てがよくて、優しくて、家庭的で、包容力があって、スタイルがよくて、かわいくて、・・・」、それに近い人で・・・と思っていると思います。

しかし、その相手が自分に魅力を感じてくれて、お付き合いしてくれればいいですが・・・・

また、そういう理想的な伴侶では自分が磨かれません。

常に守護の神霊に天命の完うを祈り、そこから直観にしたがって総合的に判断し、流れに乗って進むのが一番だと思います。

肉体人間ですから、相手も自分もお互い、欠点も不完全なところも、経験のたりないところもいろいろあります。まあ、それを大きく受け入れ、消えてゆく姿と理解し、自分の鏡となってくれたことに感謝することで調和の姿が現れてくると思います。

 

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

 

 

戦争が始まる気配がありますが、その気配を消す方法があります。

それが祈りなのですが、確信をもって盤石の信念で前進する必要があります。デモに参加しなくても、抗議活動しなくても、国連で演説しなくても、寝ていても世界に平和の光を送ることができ、戦争を止めることができます。

「こんなやさしいことができないやつはどうかしている」と五井先生は言っておられました。

しかも自分も徳を積めるのですから、こんなありがたい話はありません。

 

 

 

「光明の生活者」より

 

寝ていても出来る、起きていても出来る、ご飯を食べていても出来る、何をしていても出来る宗教なんです。祈りなんです。こういうのを本当の宗教というんですね、それを私は教えている。

 

祈りは光明心

 

  先生がそういうんだからいいや、世界平和の祈りをやりましょう、世界人類が平和でありますように、と子供もやってます。お母さんが世界人類をやれっていうから、なんだかわからなくてもやっているけれども、世界人類が平和でありますように、という祈りの中には、心の中には光明心がある。平和っていうのは光なんだから調和の心がある。

だから自然に 

″世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私達の天命が完うされますように

守護霊さん守護神さん有難うございます" 

といっていると、いっているだけで、思っているだけで光明化してくるんです。

  それはなぜかというと、祈りの言葉はすべて光明心から発しているんです。悪い人は世界人類が平和で、とはいわないんです。世界人類が平和でありますようにと思うことはもう良い心なんです。

そしてその祈りというのはどこからきたかというと神さまから来た。神さまが私を通してこれをやれと、これをやればお前さんの周囲が必ず光明化するんだよ、お前たちは光り輝くんだよ、その周囲がみんな良くなるんだ。それが重ってゆけば世界が良くなるんだよ。戦争しようとする想いもスーっと光で消されて消えてしまう。自分だけが儲けようと思う心も消えてゆく。だから一人でも多く、一国でも多く世界平和の祈りをすれば、世界は本当に平和になるんだ、だからやりなさい、というふうに神さまがいっているわけです。

 
 
世界人類が平和でありますように
May peace prevail on earth
 

 

現在、北朝鮮問題、シリア問題、ともう世界戦争直前のような世界情勢で、個人の運命も人類の運命も、とても楽観できない状況にあります。毎日、寝ても覚めても祈りと感謝を中心にした日常生活に徹しておりますが、まだまだ大多数の人が祈りの中に入っていないのが現状です。

 

五井先生は、次のようにおっしゃっておられました。

「みなさんは目に見える世界しかわからないので呑気にすごしているのだけれど、私のように目に見えない世界がわかる者は、いてもたってもいられない・・そういう世界なんですよ。戦争の波も天変地変の波もいっぱい地球に満ちている。祈りがないとこの世界はからなず滅びます・・・」

 

そこで、戦争と平和に関する五井先生のご法話を紹介させていただきます。一人でも多くの人が祈りの中に入って光を放射することが戦争の最大の抑止力であり、紛争解決法だと確信しています。

そしてその先には、人類の黄金時代、霊文明の幕開けとなる宇宙子波動生命物理学の誕生がすぐそこに控えています。

 

 

 

「愛すること」より

 

祈りの生活

          平和の根源はどこにあるか

世界平和は誰だって想っている。どこの教団でも世界平和を祈っている。よくこういう言葉をきくのですが、このことについて、種々と書いてみたいと思います。

  世界の平和を想うのは、狂人以外の誰しもが想うのであります。世界が平和であればよい。戦争や天変地変がないように、とは誰でも想うのです。そして行動的な人たちには軍備をもっては平和  にならぬ、軍備を撤廃しろ、自衛隊もなくせ、と丸腰平和論を唱えている人たちや、アメリカと手を切れ、アメリカと結んでいる以上は、日本も戦争に巻きこまれる、という人がいます。日本を平和にするためにも、世界を平和にするためにも、まず自国が強い軍備をして、他国にあなどられなくならねば駄目だ、軍備が弱ければ、共産国はすぐそこにつけこんでくる、そういう例がいくつもある、という人。親ソ派、親中国派、親米派、ナショナリスト、というように、種々行動しているのであります。

  ところが平和の根源というのは、そういう現象の動きの中には、もう無くなっているのです。

 なぜ無いかと申しますと、この現象界の想念行為の世界には、真実の平和とか調和とかいうものは、個人の想念行為の中にも各種の集団の中にも、社会国家の中にも、世界人類の中にも、すでに失われているからなのであります。

  すべては自己本位、自集団本位、自国本位になっておりまして、そうした利己心の汚れた想いで、真実の平和や調和の心を黒く染めてしまっているのです。中には汚れの少ない人々もあるのですが、どんなに汚れの少ない人々が叫び行いましょうとも、その想念も行為もやはり、黒く汚れたこの三界(善悪混交、対立抗争の世界)の世界の動きでしかありません。                         

 汚れが少ないというだけで、どうして黒く染った想念行為の波を、白光に輝く平和の道に変えることができましょうか。こんなに黒く汚れた想念行為の波は、白光に輝く、清らかな強い光明を間断なく流しこまなくては、とても洗い浄められるものではありません。

現在騒がれている公害を浄めるためには、その街やその都市の空気をどのように動かしてみても、その河の水を操作してみても、致し方ないのです。公害を無くすには、公害になる原因を除去すると共に、その空気や河川を浄めるなんらかの手を打たねばなりません。

  地球人類の想いや行為の汚れも、公害と同じようなもので、汚れていない世界の光明を流し入れなければ、浄まることはないのです。

  人間が平和を想い、平和をつくる行為をするということはよいことですが、これが三界の黒い汚れの中だけでの想いであり行為であるならば、ただこれは三界を経巡っているだけで、黒い汚れをかき廻しているに過ぎないのです。どうしても一度は三界を超越した世界に昇り、その世界の清らかな光の波動を自己に流し入れる道をつけて、そこではじめて平和をつくる行為をする、ということにならねば効果はありませ。

 それが世界平和の祈りなのです。

  想いというのは、三界をぐるぐる廻っているだけで、神のみ心に入ってゆきませんが、祈りといううのは、想いを光輝いた汚れのない神のみ心の中で浄化していただき、神のみ光を、自己の中に流し入れる方法です。

 ただ平和を想うのは汚れの中に心をひたしたままで、平和を想うのでありまして、世界平和の祈りをするのとでは、大きな相違があるのです。祈るということは、常に神との交流をしているということで、常に神の子である本心を開いているということなのであります。

 ですから、ただ平和を想っている、というぼつんとした横の想いでは効果はないので、真に平和を想うなら、一歩踏みこんで、神の心とつながって、平和を実現していただく道を開く、という実際効果のある方法まで進んでゆかねばなりません。

 

永遠の平和を築くための宗教者の役割

  現在の世界情勢をみつめて、よくよく考えてみて下さい。米国もソ道でも中共でも、そして日本自体でも、どこの国が一体他国の利益のために働いていますか。みな自国の立場、自国の利害得失のために、政治政策を行っているのです。米国の日本に対する経済圧迫にしても、ニクソンの訪中にしても、自国の利害のためには、日本の利害など問題にならぬ、という現われ方です。今日まで種々と日本の復興のために米国が尽してくれたことは確かであり、日本としては非常な恩を受けているわけです。しかし、これを意地悪く考えれば、米国が日本に尽してくれた行為は、その根本は米国の利害得失に結びついてなされていた、ということになる、ということもいえるのです。だからといって、日本が今日迄の米国の恩義にそむいていいというわけにはまいりません。

日本がもし米国の立場に立っていたら、やはり米国と同じような心で相手国に接したかも知れません。純粋な愛他の精神というのは、国家対国家では、まるで不可能なことのようです。

  この三界の仕界では、お互いに利害得失をはさみながら、その場その時々で、助けたり助けられたり、やっつけたり、やっつけられたりしているわけで、まして国家となると、自国の利害得失を主にすることが甚だしいことになるのです。

  ですから、この三界つまり、現われの世界だけを全存在としての政治政策をとっていたのでは、いつまでたっても、戦争の危機は無くなりません。中ソが離れ、米中が結ばれようと、米ソが結ばれようと、それはその場その時々の利害関係によるのでありまして、いついかなる時に利害が相反し、また離反して、戦争状態になるかわからないのです。こんなことは誰方にでもおわかりになることで、永遠の平和を築くことにはなりません。永遠の平和を築くためには、どうしても、今日の世界観、宇宙観を根底から変えなくてはなりません。それを変えさせるのが宗教者の役目なのであります。ただ平和を想うとか、あの政策が駄目だ、あのやり方はいけない、というような現象的な問題に対してだけの批判や攻撃では、真の平和世界を築くことはできません。

こういう現象面だけを見ていると、どうやったって、世界の平和などくることはない、その場その時々をうまくやってゆくより仕方がない、ということになってしまうのです。

 それで諦めてしまう人は、それでしようがありませんが、私どものように、絶対に世界は真実の平和世界になり得る、という確信をもっている者は、真実の世界平和を築き上げ得る方向に、どんな困難や忍耐があろうとも、歩みつづけてゆくことになります。

  どうしてそんな確信をもっているかと申しますと、この肉体世界の根元になっている神霊の世界では、すでに完全平和な世界ができあがっているからなのであります。神霊の世界でできていることは、必ずこの世界にうつり出てくる、ということになりますので、平和になると私はいうのです。

しかし、この神霊の世界と肉体の世界との間に幽界という階層がありますが、この世界には、肉体人間の様々の欲望の想いの波が蓄積されていまして、その様相を具体的に観ますと、戦争とか天変地変とかいう状態ができあがっているのです。

 

         幽界の浄め

  この幽界の様相をそのままにして置いて、この肉体界の出来事にだけ執着して、ああじゃあいけない、こうしなければ、あの国はいかぬ、この国はいかぬ、この主義だ、あの主義だといって争いあったり、責め合ったりしていてもなんにもならぬので、時がくれば、幽界で起っていることが、そのまま肉体世界にも起ってくるのであります。

 先程から、平和を想うだけではいけないというのは、このことをいっているので、幽界にできあがっている、戦争や天変地変をまず浄めさらなければどうにもならないのです。それをやるのが私ども宗教者の大きな役目なのでありまして、宗教家がそうした本職をないがしろにして、政治や事業に口出しをしたり、この世の現われの出来事だけを直そうとして、懸命になっているのは、本末転倒した在り方だと私はいうのです。この幽界の清めは、神霊の世界の光明を流し入れて清めるより方法がありません。それをするのが、祈りなのであります。

 そして世界平和の祈りは、この地球界を平和にしようとして専門的に働いておられる救世の大光明の働きを、最も容易にするために、神界の指示によって、できあがった祈り言なのです。ですから、世界平和の祈りをするところに、救世の神々の光明が流れ入って、幽界を浄め肉体界を浄めて下さるのです。

 

 

 

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

北朝鮮とアメリカが平和でありますように

ロシアとアメリカが平和でありますように

中国と韓国が平和でありますように

シリアとイランが平和でありますように

すべての人々の天命が完うされますように

May peace prevail on earth

 

 

 

 

 

五井先生の側近、一番身近なお弟子さんの高橋さんのご本です。

 

 

側近で一番身近に五井先生の一挙手一投足を見て、一言一句を聞いてきた高橋さんだからこそ書ける文章です。

 

五井先生の偉大さはもうはかりしれないのです。

 

何が素晴らしいかというと、愛のために、人類の幸せのために自分をすべて投げ出した、命をささげ切った、自我欲望を神にすべてお返しした・・・

 

見返りなど微塵も求める想いがないのです・・・

 

どんなに苦しい時も不平不満がないのです・・・

 

いらいらすることも、機嫌が悪くなることもないのです・・・

 

神とぴたりと一つなのです・・・

 

24時間365日神様なのです・・・

 

これがめちゃくちゃ偉いのです。

 

ここまでの完成度・・・

 

現在地球に70億人にて、数人あるいはもっと少ないかもしれません・・・

 

できなのです。

 

自我を捨てることが・・・

 

感情想念を超えることが・・・

 

自我を捨てきるれるだけの魂の段階があると思います

 

肉体人間として、すべての体験をし、あらゆる過ちを犯し、しかもすべてを清算し終わっていること・・

 

人間としてのすべての体験をして、もう何もほしいものがない・・

 

それは枯れ葉が枝からはらりと落ちるように、神の世界に帰る・・・

 

それが無為自然な全託・・・

 

五井先生は自然にそれができたのでした・・・

 

過去世から積み重ねで自然にそうなったのでした・・・

 

そういうことがわかるご本です。

 

感動します・・・

 

五井先生をよく知りたいという方には、必読のご本です。

 

 

世界人類が平和でありますように

 

 

 

とてもすばらしい記事ですので、読んでみてください。

世界はますます混沌として、滅びそうな状況ですが、それに反比例してどんどん地球の波動が高くなり、浄化が進み、いよいよ宇宙子波動生命物理学が世に出るのが近くなってきている感じがします。

 

世界人類が平和でありますように

私達の天命が完うされますように


この世界平和の祈りの一番と特徴は、個人が救われ、光明を得る道と、世界が平和になる道が、単純な方法で誰にでも同時に成道できる、ということだと思います。

それでないと、とても間に合わない状況に地球があります。

祈って神様の中に入ることが、そのまま地球に光を振りまいて、人類のカルマを消滅させ、新しい科学が誕生できる土壌を作り上げる。

それが、”世界人類が平和でありますように”という祈りで成就できる。

この単純明快さがとてもとても素晴らしいのです。
五井先生は予言というものをとても嫌っておられましたが、
 
1.世界はかならず平和になる。それも最小限の犠牲で平和になる。
2.宇宙子波動生命物理学が完成し、あらゆる武器を使えなくし、人間の想念を科学的な装置で浄化させる。
3、霊界テレビのようなものができ,、神霊の世界に移行した家族と自由に話をすることができるようになる。
4.守護霊、守護神、宇宙天使方の物質化がなされ対面できる。
 
上記は予言されておりました。
 
 
 
「みんな救われている」より
 

あなたが今、貧しい中で苦しんでいる。そういう生活も過去世の神を離れた想いが、そこに現われて消えてゆく姿なんだ。貧乏だ、不幸だという想いが頭へ出てきたら、その想いのままでいいから、“守護霊さん守護神さん有難うございます。世界人類が平和でありますように”……というふうに、世界平和の祈りの中にその想いを持ってっちゃう。そうすると貧乏に把われる想いがなくなる。怒りっぽい性質なら、カーッときたらそのまま“世界人類が平和でありますように”というふうに思いなさい。

そうすると怒りっぽい性質もだんだんなくなる。そういう習慣をつけておきますと、そんなこと出来ない、と言って思っているうちに、やっているうちに出来るようになってくる。

 そうすると怒りの想いが出てきても、それが処理できるようになる。世界平和の中に転換しちゃうのですよ。怒りの想いを掴まないことになる。恨みの想いが出てくる。世界人類が平和でありますようにへと祈りのほうに持っていってしまうと、祈りは光、本心の光だから、神様の光だから、その中に入って消えてしまう。恐怖が出てくる。こわいこわい、とどうにもならなくなってくる。そういう時に、“世界人類が平和でありますように”と、祈りの中に持ってってしまう。こわい時には、“世界平和”じゃ間に合わない時がある。

そうしたら世界平和の祈りを提唱している五井先生がここにいますから、五井先生!っと思っちゃえばいい。想いつづけると、短い時間でその恐怖が消えてゆきます。

 

消えてゆく姿は無理のない教え

 私の教えているものは、すべてやさしく想いをなくさせるのです。この世を暗くしている想い、自分のいのちの輝きを遮っている想い、あるいは人類に障っている想い、そういう想いは何かというと、自分を守りたい、人より自分が偉くなりたい、得をしようという想い、個人の場合も国の場合も同じです。

そういう想いを一先ず神様にお返しして、神様のほうから、自分の天命が完うできるように、日本なら日本の天命が完うできるように、そうしたい、というのが私の念願です。

 そうすると個人の祈りでありながら、日本の祈りであり、世界の祈りになってくるのですよ。

そういうのを祈りという。家内安全、商売繁盛をやっているのは、ただ単なる個人の我欲でしょ。

だからそんなものは長く続かない。それで不安がなくならない。観音様や成田山へおまいりしたって、ちょっと自分の意識をごまかすだけで、不安はなくならない。地震がぐらぐらと来ればワーッと飛び出したくなっちゃう。大水が来れば逃げ出したくなっちゃう。そういうのは我欲の念力だからね。

 神様がいつも守ってくれて、自分は神様の中にいるという想い、いつも世界平和の祈りをやっている想い、いつも世界平和の祈りをやっていると、光がこっちに入ってきて、自分の本心が開いているから、それだけ恐怖の想いも消える。

 
世界人類が平和でありますように
May peace prevail on eartyh

 

  ここまで「私を呼びなさい!」と保証している聖者を私は知らないのです。

それじゃ自立できないよ、というくらい「困ったら五井先生!と呼びなさい」とおっしゃってくださいます。普通、宗教の教祖と呼ばれる人たちは、自分の責任を回避しようと、「私の教えを実行していないからだよ」という風に逃れる人が多いと思いますが、五井先生という方は神(五大神、五つの直霊)の化身であられたので、言葉の責任を全部とれる権能をお持ちであったと思います。それでないと「私を呼びなさい!」ということは、霊的な感受性のお持ちの方はわかると思いますが、自殺行為なのです。

ご縁のある方は遠慮なく五井先生をお呼びしましょう。

 

 

「光明の生活者」より

 

    私はどこへでも現われる

  私は理屈なんて云っちゃいないんだ。やさしいことばかりいっていて、ポンポンと浄めているうちに、みんな仲良くなってくる。だから皆さんは、私に会える間はかまわず私に浄めてもらい、もし会えなくなれば世界人類の平和だけ祈っていればいいのです。

私にもし会えなくて、肉体がみんなに会えなくなる時には、チャンと現われます。

  この間、ある女性が昔、知り合いだった神道系の行者さんのところへ、何か用があって尋ねていった。そしたらそこにもう一人いて、何か行をやっていた。あなたは霊媒の素質がある、霊媒になりなさい、というんですって。その人は嫌だゝといっていたんですが、無理無理坐らされた。合掌しろといったから合掌した。途端に手がピューッと上っちゃったんです。

当人はどうなることかと思った。ところが眼が開けられなくてどうにもしようがないんです。神がかりになってくる時は、どうにもしようがない。眼をつぶっちゃって、手が上っちゃってどうにもならなくなった。そしてエーイゝと気合が出てくるんですね。神道の行者が、サァお懸りになった、と思ったわけね。その人は五井先生五井先生と念じていたんですが、神懸りになった。

行者は「お懸りになったのはどなた様でございますか」ときいたんです。

これは審神するときの常識なのです。そしたら自分は云おうと思わないのに「五井昌久」というんだって(笑) あゝそうでございますか、どちらにお住いですか、ときいたら「神界の最上級」と云ったんです(笑) では色はどんな色ですか。「金色」と自分が勝手にいうんですって。

今はどちらにお住いですか。「どこにでもいる、どこにでも現われる」私の声そのままになって「さあなんでもお聞き下さい、なんでも教えてあげますから」とこういうんですって。

行者さんが「〇○さんの息子は一寸家を出ているんですが、今どこにいましょうか」ときいたわけ。そしたら「どこにいるか、それは聞かなくてもいい。知らせる必要もない。

この子は今、一生懸命働いているから、今に立派になって帰ってくるから心配するな」と答えたんです。それで話は終ったわけ。

 

      神霊がぎっしりつまっている

 そのように五井先生が現われちゃったんです。本当かウソか。本当なんです。

変なものが寄って来ては困るんで、こちらから行って助太刀したんです。五井先生が本当にいったか、霊団の一人がいったか、それは別です。私の霊団にはたくさんいるんです。

お前一寸行ってやれ、ハイよござんす、とバッといってくれるんです。

ピラミットのようにこの霊団の中には上から下までズーっと揃っているんです。この役は誰々という風にね。今日の助っ人は、大したことないからお前行け、まだ守護霊の中に入りたての新参者が行って助太刀してくる。あれは一寸手強いからこの辺が行ってくれ、ハィと行くわけよね。すぐ飛んでいってちゃんと現われてくるのです。そして一役を果してくるんです。

  この婦人の場合もへんな霊媒にされては困るから、バッと防いでくれたのです。そんなところへは行きなさんな、と私にいわれたけれどね。そういうわけで、いざとなると五井先生は幾人にもなって、どこへでも現われるんです。

だから五井先生と呼べば必ず防いでくれます。絶体絶命でも防ぐことを私は保証しますよ。本当に真剣に呼ばなければダメですよ。どんな呼び方でもいい、便所の中で呼んだって行きます(笑)。

中村あいさんの坊やみたいに、うんちがつまつちゃって、便所の中で、五井先生五井先生、ポクのうんち出して下さい、と祈ったら、うんちが出たというんで喜んで私のところに来ましたけどさ(笑) このくらい無邪気ならどこでも呼ぶでしょうね。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

五井先生の言葉は、宝の山のようなもので、あとはどれだけこちらがその言葉を「宝」と認識し、心の中で光らせるか、にかかっています。光らせれば、潜在意識が光に満ち、周囲(接する人、縁者、霊系統の魂の家族)を自然に照らしていると思います。”本心”という詩では、とても格調高く、奥深い、般若心経の世界を光り輝く言葉で謳いあげられています。

 

 

 

「素直な心」より

 

 

 詩「本心」を読もう

  親鸞がいる間はよかったけれど、親鸞が死んでしまうと、浄土真宗なんていうのはおかしくなって、ただ死骸に念仏をあげているだけ、ということになっちゃうんですね。私の母親のお葬式の時に坊さんが来て、お経をあげているんだけども、お経じゃなくて、時間をとるために節ばかり伸ばしてるようなんですよ。それが絶世の美声ならいい気持になって声をきいているけれども、声も悪いのに、節ばっかり伸ばしている。節はうまかったです。節ばっかり練習したってね、それなら歌をうたったはうがいいです。

ただそうやればお葬式のような気がすると思っているんです。

お葬式なんていうものは、もっと華やかでなければだめですよ。

そこヘゆくと祝詞はいいですよ。朗々として、変な節をつけないで堂々としています。経文というのは長々と読むものじゃないです。

人間はこうすれば生きていけるんだ、あの世ヘいけばこうなんだ、ということを知らせてやるのがお経なんです。

だから、白光なら白光を読んであげたら一番いいんです。

 “本心”という詩があるでしょう。“ひびき”という私の本に出ています。あれを経文がわりに仏壇にあげてやってごらんなさい。

 みんな浄まっちゃうから。

  人間というものは肉体ではないんだ、本心そのものなのだ、本心とは神そのものなのだ、仏そのものなのだ、お前たちが勝手に迷って、勝手に悪い悪いと思っているから悪いんで、悪いという想いをはなせばいいんだ、何も悪いものを追いかけていって捕まえることはない、というのがあの詩です。

 

 

本心

 

地球の未来を輝かすために

人類が是非共知らなければならぬ事がある

それは御身たちの真実が

御身たちの本心が

肉体生活にまつわる欲望と恐怖と

そして悲哀と憎悪と云う

黒い翼に蔽われていると云う事である

それよりも亦一層深くしらなければならない事は

御身たちの本心は

御身たちの真実は

宇宙を動かしている大いなる智慧

無比絶対なるエネルギーの源泉に

その基を置いていると云う事である

御身たちの本心は常に神と一つであり

御身たちの真実は神から発する光であり

そして御身たちは嘗ては本心そのものであったという事である

 

欲望 恐怖 悲哀 憎悪

そうした業生の想念は

御身たちが神の光の世界から

肉体と云う形の世界に自己限定したときから起こったもの

現れては消え去る大海の泡沫

夢幻が画く一夜の劇

 

人間が争っているのではない

人間たちが迷っているのではない

争っている想いが

迷っている想いが

今 消え去ろうとして人類の前を 通り過ぎてゆくところなのだ

 

御身たちは只黙って

御身たちの本心が神と座を一つにしている事を想っているがよい

光り耀く神と本心とをみつめつづけるがよい

心を落ちつけ 想いを静め

只只神の大光明を観じているがよい

そうしている時が一番

様々な業生の想いが消え去り易い時なのだ

御身たちよ

消え去る業生を止める事はない

夢幻の苦痛を想いかえす事はない

御身たちが止めさえしなければ

想い返しさへしなければ

業生は再び御身たちの下に戻ってくる事はない

御身たちは今

本心そのものである

神の大光明と一つの者である

地球世界を光一色で描き出すものである

 

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

人間は、形としては似ていますが、心の世界、意識の段階は限りなく深く存在し、そのどこにいるか、どれくらいの広がりを持っているか、個人個人で千差万別です。

五井先生が統一の段階、状態を描写してくださっています。

とても参考になります。

 

 

「想いが世界を創っている」より

 

人間の世界というのにはたくさん段階があります。一番上の、頂点の内奥の世界、奥の奥を探ってゆくと、本心の世界いわゆる直毘、直霊の世界があるわけです。

直霊の世界というのは大神様の世界と一つですから、唯一絶対なる神様が各直霊に分かれて、その直霊が分霊に分かれてここにくるわけなんですね。それで奥・奥・奥と統一してゆきますと、一番最後にゆくところが大神様の中、いわゆる直霊の中です。

大神様というのは「いのち」の元ですから、そこへ入っちゃったら、何も無くなっちゃうわけですけれども、その手前に直霊という働きの場所があるわけです。それは本心と言う。

その本心の中に入ってゆけば、本当の統一であるわけです。ところがふつうの宗教の統一の場合には、そういうところまで入らないで、幽界の波の中に入っていって、そこで止まっていて、幽界の生物の波がかかってきて、自分がわからなくなったり、霊がかりになったりいろいろするわけです。そういう世界があるのです。そういう世界を禅宗では魔境という。

魔の境といって危ないから、統一したりする時、見えたり聞こえたりすることは危ない、と禅宗なんかでは言うんです。

 いくら観音様が見えようと、仏様が見えようと、それは本ものではない、そういう世界じゃないんだと禅宗では言うわけですね。ところが人間の素質というものはいろいろありまして、いろんなものが見える素質の者もあれば、見えない素質の者もあるわけです。見える素質の者には、見まいとしたって見えてきたりするわけだし、感じてきたりするわけです。それをただダメだダメだと言われると、その人が悲観しちゃって、かえって変になったりするわけです。

 そこで私たちの統一会というのは、根本の一番根本の深い所を目指す、要するに無我というような、澄みきったもう何もない、自分さえもない無我の境地というのがあるんですよ。澄みきった境地というのがある。光り輝く世界よりももっと超えた、光も感じない何んにもない世界がある。そういう世界が全部広がっちゃった世界というのがあるんです。私たちの統一会はそういう世界にも行くわけなんです。

統一の段階としては、いろいろな段階があるから、直霊の大神様のみ心につながった世界、その線につながって登っていけばいいわけです。それがそうじゃなくて、横に入ってしまって、それで統一したと思う。自己満足しちゃって自己陶酔している。そういう自己陶酔の横の世界に入ってしまったのでは、いつまでたっても縦の大神様のところまでいかないんですよ。

 この会で統一していても、自分ではいい気持ちになったという境地があります。

始めはとてもいい気持ちでよかったんだけれども、だんだん慣れてきたら、いい気持ちということさえなくなっちゃった、何もなくなっちゃった、というような境地になることもある。それはいい気持ちという境地より悪いかというと、そうじゃない。やっぱり一つの段階でして、それからズーッと続けてゆくと、直感的にいろんなことが感じてきたりする。またその先をいって、今度は何も無くなっちゃって、ただ坐っているという境地、しかし悪い気持ちは勿論ない。しかし特別いい気持ちというんでもない。ただスーッとしているような、そういう世界がある。もっともっとゆくと、今度は光の世界があって、光り輝く世界に出たりする。いろんな光の世界にいったりする。もっとゆくと、今度は澄みきったそれこそ、純一無垢な、きれいな赤児の心のような、言葉ではきれいとか美しいとか、光り輝いていると言うんじゃなくて、澄みきったなんにもない、もう紙一枚のへだてもない、神と自分とが全く一つになったような、そういう世界があるんですよ。

 だからこれは言葉ではどうにも説明がなりませんけれども、言葉で言えばそういうわけなんです。だから自己陶酔みたいに、ただいい気持ちになったから「いい」と言うもんじゃないんですね。神様のみ心が行為に現われる それが今度は行ないに現われてくるわけです。統一の世界というものが、日常茶飯事の行ないに現われてまいりますと、その人のやっていることが神様のみ心に叶っている、いつどんなことをやっても、神様のみ心から離れない、ということになるわけですね。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth