よく結婚の相手は赤い糸で繋がっているとかいいますが、ほんとうはどうなんでしょうね。
下記リンクは、五井先生の結婚に関するお話です。
人間の運命は、その人の過去の想念の集積で80%は決まっていますが、20%は選択の余地があります。
運命を変えるには習慣の想いの軌道の外に想いを置かなければなりません。
そこに覚者の手助け、本人の努力精進の意義があります。
参考まで
よく結婚の相手は赤い糸で繋がっているとかいいますが、ほんとうはどうなんでしょうね。
下記リンクは、五井先生の結婚に関するお話です。
人間の運命は、その人の過去の想念の集積で80%は決まっていますが、20%は選択の余地があります。
運命を変えるには習慣の想いの軌道の外に想いを置かなければなりません。
そこに覚者の手助け、本人の努力精進の意義があります。
参考まで
「それは、その人が信じている世界に行きます。もしその人がある宗教の教祖を信じていて、その教祖が霊界の中位にいれば霊界の中位までゆきます・・」
五井先生はそう答えられました。
ということは、和尚を信じる人は和尚と同じ霊位のところまでゆき、ラーマ・クリシュナを信じる人はその世界へ、パラマハンサ・ヨガナンダを信じる人はその世界へ。ラヒリ・マハサヤを信じる人はその世界へ。
法然を信じる人はその世界へ。
馬祖を信じる人はその世界へ。
玄沙師備を信じる人は、光明一元の世界へ。道元を信じる人はその世界へ。
だからイエス・キリストは『汝の信仰、汝を癒せり』とおっしゃられたのでしょう。
なんと人間には自由が赦されているんだろう。
信じることの偉大さは計り知れない。
もし逆に信じたら、これは悲惨な人生が待っている。
いま拘置所にいるある教祖を信じる人はその世界へ、ヒトラーを信奉している人はその世界へ。
人間は自分が信じている自分になるんですね。
「人間は肉体であり、死んだら終わり」と思っている人は、当然そういう世界にいくので、何千年も眠ったまま、あるいは迷いの世界へ、という形になります。
自分が何を信じているか、しっかり自分で分かっていることが人生のキーポイントだと思います。
「人間が死ぬということは自然で、なんでもないことですが、恐怖心を持って、この波動界に恐怖の波を振りまいて死ぬことが一番の問題である。その想いが蓄積され、それが黒雲になって地球を覆ってしまい、人類の神性の顕現を遅らせるのである」という内容のことを五井先生はおっしゃっている。
年間8000万位の人があちらに移行する計算になるので、その黒雲は大変なものになります。
性に関しても同じだと思う。性は生命の原理法則であり、自然なものである。
そこに罪悪感、やましさ、倒錯した感情想念を抱き、男女が交わることで、この波動界に黒雲が生じ、それが高い魂の誕生を妨げている。
人間は生きているうちに、死に対する感謝を常に養い、死を迎えるときはお祝いの気持ちで往生できるようにしたいものである。また、男女の交わりの際にも、感謝と歓びを持って、お祝いと祈りの気持ちで交わりたいものである。それでこそ地球を進化させる魂を誕生させることが出来るとおもう。
それは純化であり、人類に対する奉仕なのだ。
瞬間瞬間、すべての人に平等に全体に奉仕できる機会を与えてくださっている守護の神霊に感謝である。
どうも過去からの宗教の影響で、難しいことをしないと霊性が開発されないという意識、流れが人間の中にあるように想います。
その解毒剤として宗教の単純化、簡素化、それが私の天命の一つと感じていますので、それに関する五井先生のお話をアップしました。参考になれば幸いです
世界人類が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
素晴らしい五井先生のお話です。
人間は、神々の愛によって生かされています。
原子も電子も素粒子も人間には作れません。
その創造力、知恵、質量、波動は神からきています。
しかし肉体人間には、それが実感としてわかりません。
それで、自分の想いにがんじがらめになって、大半が、自分で自分の不幸を作り出してゆきます。そういう人類に対して、神々が五井先生の身体を借りて大説教しています。とても気合が入ります。御活用ください。
世界人類が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
祈るということは行為ではない
昔、ヴィパサナと祈りをなんとか一つにしようと、また呼吸と祈りを連動させようと盛んに研究していた時期があった。
呼吸を意識できれば、その気づきがあらゆる細胞まで浸透する。
そこに宇宙神につながる祈りを連動させれば、この心身が宇宙神の光明体となるだろう、という理論の元やりはじめた。
5年近く実践していたと思う。
すると、ある日、深ーいところから祈りが洪水のように出てきたのだ。
ものすごい勢いなので、とまらない。
叫びたくなる。
そして顔の前で合掌すると「神様ありがとうございます」という言葉が自然に出てくる。
泣けてなけてしかたない。
感謝がでてでてしかたない。
もうどうしようもない。
合掌がとまらない。
親が私を見て「気が狂った」と思ったらしい。
でもとてもさわやか、はれやか。
きちがいでない。
そこで思った。
祈るのではない。
ズ~と昔から太古の昔から祈り続けていたのだ。
阿僧祇劫以前から祈りっぱなしの自分なのだ。
唯物論者も無神論者も祈りそのものなのだ。
ただそれに気がつかない。
意識できない。
それだけなのだ。
祈りを邪魔しないこと。
祈っている自分を再発見すること。
再び思い出すこと。
そのために祈り言葉を繰り返すのだ。
だから、祈るのではない。
祈っていることを思い出すこと。
それが世界平和の祈り
私はだいたいいつも念仏のように「神さまありがとうございます」とやっているんですけど、何でこんなに感動するのか、いつも不思議に思うのです。
この祈りを祈ると、心の奥で、なにか鳴り出すのです。
すると胸がいっぱいになって、最後には泣けてくるわけです。本当に感動すると、もう言葉では表せないのです。音楽と同じです。自分でも不思議、昔からそうでしたから昔から不思議に思っていたのでした。
そしてこの祈りを追求してゆくと、「この命を神様のお好きなようにお使いください」と自然にリズムがつながっています。
これは形態形成場にある高級神霊波動が共鳴してくるために、自然に思ってしまっているのだと思います。
全託への道が感謝のなかから自然に用意されているのを発見したのでした。
感謝はすばらしいなー\(~o~)/