祈るということは行為ではない
昔、ヴィパサナと祈りをなんとか一つにしようと、また呼吸と祈りを連動させようと盛んに研究していた時期があった。
呼吸を意識できれば、その気づきがあらゆる細胞まで浸透する。
そこに宇宙神につながる祈りを連動させれば、この心身が宇宙神の光明体となるだろう、という理論の元やりはじめた。
5年近く実践していたと思う。
すると、ある日、深ーいところから祈りが洪水のように出てきたのだ。
ものすごい勢いなので、とまらない。
叫びたくなる。
そして顔の前で合掌すると「神様ありがとうございます」という言葉が自然に出てくる。
泣けてなけてしかたない。
感謝がでてでてしかたない。
もうどうしようもない。
合掌がとまらない。
親が私を見て「気が狂った」と思ったらしい。
でもとてもさわやか、はれやか。
きちがいでない。
そこで思った。
祈るのではない。
ズ~と昔から太古の昔から祈り続けていたのだ。
阿僧祇劫以前から祈りっぱなしの自分なのだ。
唯物論者も無神論者も祈りそのものなのだ。
ただそれに気がつかない。
意識できない。
それだけなのだ。
祈りを邪魔しないこと。
祈っている自分を再発見すること。
再び思い出すこと。
そのために祈り言葉を繰り返すのだ。
だから、祈るのではない。
祈っていることを思い出すこと。
それが世界平和の祈り