やりたくないことはやらない。
即、やめる。
そういうことってよく見聞きしたりしますが、
その通りだと思う反面、
それだけでいいのかな?
そこだけ都合よく解釈してない?
そのように感じたことを書いてみます。
ようこそ!
対話空間「旅するコーチング」へ
ライフコーチの
小国里恵@京都(おぐにりえ)です
自分を知る/自分を活かす/自分と生きる
あなたも、これからの人生
自分自身とともに歩んでいきませんか。
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たしかに、
やりたくないことは
やりたくないですよね。
私だっていやです。
でも、そのあなたが「やりたくない!」と
思っていることって
本当に
「やりたくないことだけ」で
できてるんでしょうか?
つまり、あなたの
そのやりたくないことの「先」には何があるのか?
いったん立ち止まって
その「先」に目を向けてみても
良いのではないか…と思ったんです。
それをやってみた先にも
そのまた先にも
何も見えてこない…
喜びもない…
誰も(もちろん自分も)幸せにしない…
ただただ我慢がある…
それならやめた方がいいですよね。
でも、自分がそれをすることで「その先」に
ほんの少しでも
何かのキッカケになったり
事態が好転したり
少し光が見えたり
そしてそうなることに
「自分が幸せを感じる」のであれば
もはや、それは
「やりたくないこと」ではなく
単に「やるのがめんどくさい」とか、
今は「取り組む時間がない」とか、
そういうことではないでしょうか。
そこから逃れたいがために
「やりたくないことはやめる」に
頼っているというか
言い訳に使うというか。
つまり簡単に「やめる」案件ではない、
そういう場合もあるなということ。
身内の話しで恐縮ですが
もう何年も何年も前に、父が
こんなことを言っていました。
「好きなことのために、
嫌なこともやってきた」と。
なかなか印象に残りました。
単なる嫌なこと、
やりたくないことなら
おそらくやらない選択だったのだと思います。
でもそれをやることは
いったい「何のため」なのか。
「点」ではなく
「線」や「面」で考えた時に
それをやるかやらないかが判断できるのかなと。
「やりたくないことはやめる」
実際やめてみたら
「あー、これは本当に必要なかった」と
思うこともたくさんあると思います。
なので、
このことそのものには異論はないのです。
でも、自分に都合よく
その言い回しを使ってるだけ…
そういうことないですか?
一部分だけを切り取って
全体を決めつけてませんか?
自戒をこめて書いてみました。
巷で言われているから…とか
誰かにそう言われたから…とかではなく
「わたしがどうするのか?」
ですよね。
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