埼玉県立歴史と民俗の博物館の回にて、その根本的な性質があきらかになった武蔵大國魂神社を今回はレポートします。

 

■武蔵大國魂神社・・・東京都府中市宮町3丁目1

 

関東の大河川荒川と多摩川によって挟まれた格好になっている武蔵野台地。

これは青梅を扇頂とする広大な扇状地でもあり、東京湾へ向かって極めてゆっくりと下ってゆく洪積台地でもあります。

 

そんな武蔵野台地の南、多摩川べりに武蔵大國魂神社は立地しています。

 

当然にも多摩川を遡上しこの地点から上陸し作り上げたコロニーの象徴です。

なぜにここから上陸したのか?

ここはちょうど多摩川の流れが南に向かって湾曲していて、北岸は上陸しやすい河原になっていたからでしょうね。

多摩川べりからやや内陸へ入った地点にあるのは、かつてこの川べりに北西から流れてきた小河川・残堀川(後に取り上げます)が合流し入り江・沼地を形成していたからではないでしょうか。誰も沼地に住もうとは思いませんから。

埼玉県立歴史と民俗の博物館のページをお読みいただけるとわかりますが、ここ多摩川沿いは荒川沿いに比べて開発が遅れ、上流にも武蔵野台地にもさしたる資源や稲作に向いた広大な土地(荒川流域のような)はありません。

ここに上陸した以上、北進するしかない訳です※1。ここはそのための橋頭保と言える基地だったのでしょう。

 

旧街道を地図上で見ると、武蔵大國魂神社が大きな交差点になっているのが分かります。武蔵大國魂神社の付近では完全に東西南北に垂直に交差していますので人工的に設計されたものだとわかります。

赤色の北へと伸びる道路は後の時代に東山道武蔵道と呼ばれるもので、まっすぐに延びていることから古代幹道の一つでしょう。10km程度北上したところで不明瞭に消えて、さらに北方で断線した痕跡が見つかっています。

この道は一気に群馬まで通したのじゃなく、武蔵大国魂神社の勢力の拡大に従って北進したと思います。

現在発掘されている東山道武蔵道は東村山八坂神社 付近まで辿れるようです。

 

この道が空掘川と直交する地点に東村山八坂神社があります。陸路と河川の両方が利用可能な重要拠点だったことが分かります。
それを考えれば東村山八坂神社の祭神が妙に多種多彩(ずっと南方の三島神社まで)なのは、武蔵大国魂神社から東山道武蔵道を北上してたどり着いたため、と想像できます。
つまり東村山八坂神社から西へ空掘川沿いは武蔵大国魂神社勢力が支配していた、と考えられます。狭山丘陵南麓に氷川系が見られないハズです。

 

さて武蔵大国魂神社の話に戻りましょう。

青色は旧甲州街道です。これは多摩川沿いを移動する陸路として今でも生きていますね。

黄色は武蔵大國魂神社から真南に多摩川へアクセスする道をつないでみました。これほど大きい神社なら川沿いに鳥居でもありそうなものですが、無いのです。

 

これは想像ですが、ある民族が川辺・海辺に辿り着き上陸してコロニーを作ったら、通常は上陸地点に記念の鳥居を建てると思います。

これは入植した人々が同一部族であり、そのアイデンティティを象徴する重要なトーテムだと思います。

 

武蔵大国魂神社の場合、そうはなっていません。

それは上陸した目的が「部族の生存・生活圏の確保」ではなく、一種の「任務」だったから、と想像します。

この点、香取神宮や鹿島神宮と異なっています。

 

さておおざっぱに俯瞰できたところで武蔵大国魂神社を見てみましょう。

 

これは武蔵大國魂神社の鳥居前の旧甲州街道・西方をみた写真です。やたらまっすぐなので、古代に計画的に作られた道路だとわかります。現代ではこんなまっすぐな道路は土地買収上の理由で建設できません。

 

北向きの鳥居です。(カメラは南を向いています)

これは「俺達ぁこれからまっすぐ北へ侵攻するゾ!」という意思の表れだと思いますね。

たまたま酉の市の日に来たもので、やたら人が多いですが気にしないでください。

 

境内の配置はこのようになっています。では参道を進んでいきます。

 

まずは参道左手に

 

 

 

宮之売神社、天細女です。

天細女=伊勢外宮様なので、通常なら稲荷神社となりそうなものですがこういった格好は珍しいです。理由は分かりません。

単なる思いつきですが、ここ宮之売神社祭神は天細女じゃなくクシナダ姫なんじゃないのかな?

元寇の影響で半島由来の祭神が隠されてしまう事が方々でありましたが、クシナダ姫の父・金山彦もイン氏なのでクシナダ姫を出さずに天細女を置いている、のかな?と…

 天細女=伊勢外宮様の両親はスサノオと神大市姫(大山祇の長女、大国主の姉)です。スサノオの影響を表した千木、鰹木なのでしょうか。

 

千木は内削、鰹木は4本で祭神と合っています。体裁が氷川系になっていると思います。

 

その隣には

土俵があります。

土俵を設けてある神社は武蔵野台地では珍しいです。九州の香りを感じます。

 

忠魂碑。

かつて国民国家の主権を信じて散っていった人々。

 

中央の提灯に「大鷲祭」とあるのが分かりますか?

酉の市は鷲の祭りなのだと思います。鷲と言えば鷲宮、小さい鷲宮がこの近所にありますので別途ご紹介します。

 

さらに進みます。この向こうが拝殿です。

 

拝殿(見えねぇ…)

 

「神社六所宮」とあります。

6つの神様を集めた総社です。

 

拝殿屋根、菊の御紋、近畿大和朝廷の印。

 

本殿の屋根、千木は内削(女神)、鰹木は八本(女神)

すると主祭神は天照ですか?

 

本殿を裏から。完全に氷川系だと思うんだけどなぁ。

百嶋神社考古学では、武蔵大國魂神社の祭神は大国主ということになっています。見る限りでは大国主の影はないですねぇ。

 

さて、境内には宝物殿があったので入ってみました。

内部は撮影禁止ですので、テキスト&自作資料にてレポートします。

 

一階は武蔵大國魂神社の有名なくらやみ祭で出す神輿が展示してあります。

拝殿神額にもあった通り、6か所(六神)の神輿が展示してありました。

一宮:小野大神、小野神社(東京都多摩市一之宮)

二宮:小河大神、二之宮神社(東京都秋川市二之宮)

三宮:氷川大神、氷川神社

四宮:秩父大神、秩父神社(埼玉県秩父市馬場町)

五宮:金佐奈大神、金鑚神社(埼玉県児玉郡神川村二之宮)

六宮:杉山大神、杉山神社(神奈川県横浜市西八朔)

 

それらの中央にもう一つの神輿が展示してありました。これが本殿の祭神らしいのですが

御霊宮:御霊大神、大國魂神社

祭神は伏せられていますね。本殿の千木、鰹木から見て天照のことなのかな??

 

近辺の小さい神社の分布を調べた資料が展示してありましたので、GoogleMapに出してみました。

黄色の文字がそれで、種類ごとに文字を代えてあります。

レ:御霊宮(本殿の祭神)

5:五宮(金鑚神社)、六宮(杉山神社)

ホ:御本社

3:三宮(氷川神社)

2:二宮(小河大神)

先:御先払(くらやみ祭の神輿に先んじて触れ回る場所)

 

それぞれに分布に個性があるのですが、全体を見ると南は多摩川、北は空堀川あたりの範囲に収まっています。

つまり武蔵大國魂神社の連合勢力は空堀川を越えられなかった=(空堀川沿いの)勢力に北上を止められていた、と考えられます。

面白いことに

武蔵国勢力の北上作戦にほとんどかかわっていないのが二宮の小河大神勢力です。

オレは関係ないも~ん、って感じですね。

小河神社の本拠は多摩川の南側にあり、多摩川の北側にはあまり進出しなかったということですか?

 

また、当然ではありますが

三宮の氷川勢力も北上に関わっていません。

武蔵大國魂神社の勢力の一員だけど、北方・空堀川沿いの氷川勢力と対立してないように見えます。

分布は多摩川下流を占めたという点がかなりなミソで、これは武蔵大國魂神社&武蔵国府~多摩川河口(川崎)の舟運を握っていた、ということではないでしょうか。うまい展開ですね。

敵の懐に入り急所を押さえる…心憎い采配です。

 

さらに別の展示資料では武蔵大國魂神社周辺の発掘により分かった状況が示してありました。

茶色部分は多摩川の沖積平野です。(上図の左半分は不明です)

武蔵大國魂神社は台地のヘリに立地していることが分かります。

そこは河岸段丘となって多摩川沿いより1段高い台地になっています。普通なら多摩川に向かって鳥居を作るものですが、そうはなっていません。

 

772年に武蔵国は東海道に所属が変わりますが、それまでは東山道の1国だったということになっています。その頃、ここから群馬へとつながっていた幹線道路が東山道武蔵路です。

 

つまり、この周辺が開発され武蔵大國魂神社が建てられた頃はここは東山道の一部であったので、ここは東山道の南の辺境に過ぎず、近畿大和政権にとって中心は飽くまで群馬方面だったのです。

 

では次回は武蔵大國魂神社境内の摂社・末社、併設されている府中市立ふるさと府中歴史館の様子をレポします。

 

※1事実、国分寺・国分尼寺や街道は北へと伸びています。