東川を西に向かって遡っていきますと、北野天神社に行き当たります。

 

■北野天神社・・・埼玉県所沢市小手指元町3丁目28−44

 

 

東川は狭山丘陵の北側へと伸びています。

 

市街地と農地の境のような場所で、2つの川に挟まれて小高くなった立地です。

 

鳥居は西向きです。

 

境内に入っていきますと

 

左手に

 

石宮と水天宮

「石」とくればこれか??

 

そのすぐそばには…?

 

??

 

さらに左へ進みますと

小手指神社と。

 

その先には2つのお社が

 

稲荷(豊受)、八雲(スサノオ)

 

鳥居からまっすぐ進む道の先には

右の石碑には浅間神社(コノハナサクヤ姫)とありますが、残りの2つは不明です。

 

秀吉の小田原攻めに参戦した前田利家が神社を再建しこの梅を植えた、と。

前田利家が菅原道真の子孫だと書いてあります。

 

藁でできた馬。梅紋は菅原道真。

掲示板の資料によりますと、この周辺には場北、馬先、馬場といった馬の飼育に関連する地名があります。武蔵野台地では馬を育てることが盛んでした。

ここ北野天神社の上流(西方)に出雲祝神社がありましたが、そこでも菅原道真に関する伝承がありましたねぇ。

 

こちらは

 

?? 結局誰を祀っているのかな?

 

お次は

 

建空神社??

 

Wikipediaによれば

「多治比文子は菅原道真の乳母で、道真の死後「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けた。そこで文子は自宅に小さな祠を建てた。これが天神信仰発祥、北野天満宮の前身とも伝えられている」

はた神とも書かれ、養蚕、秦氏との関連があるのかもしれません。

狭山丘陵北側のこの辺りは畑作しかできない土地ですので、かつて商品作物として桑(養蚕)は貴重な収入源だったのでしょう。

 

ではやっと拝殿です。

正面に椿紋があり菅原道真で間違いありません。

 

本殿。千木も鰹木も菅原道真に一致しています。

でも、なんか氷川神社のニュアンスを感じるんだよねぇ~。

 

実は鳥居(南向き)がもう一か所ありまして

 

祭神が書いてありました。

ニギハヤヒ、ヤチボコ、菅原道真となっています。

拝殿、本殿からは菅原道真しか見えなかったのですが、菅原道真とは全く時代の異なるニギハヤヒとヤチボコが主祭神として書かれています。ニギハヤヒとヤチボコは本殿の中に隠されているのかもしれません。

百嶋神社考古学ではニギハヤヒ=山幸=香取大神=猿田彦、ヤチボコ=大国主とされています。

香取大神は千葉の利根川南岸にある香取神宮で、ここ武蔵野台地の西の外れにまでは勢力が及んでいません。なぜここにニギハヤヒが祀られているんだろう??

大国主は、奈良政権が多摩川沿いに作った自作自演テーマパーク・武蔵大國魂神社の象徴です。ここに大国主が祀られているということは奈良政権の武蔵野台地支部である武蔵野国府の影響が及んでいることを示しています。

ただ、この中に鹿島大神、大山祇、崇神など藤原系統の神々が入っていないことから、平安京政権の主流派とは違う勢力だったんだろうな、とは想像します。それが菅原道真系の勢力ということでしょうか。

 

合祀されている神々を見てみましょう。

宗良親王は南北朝時代の人物で、一時活躍するが南朝崩壊とともに落ちぶれてゆく悲劇の貴公子ですな。

小手指明神は誰の事なのか不明です。

天穂日は豊玉彦で、関東開拓をやった武夷鳥(鷲宮神社)の実の父です。ここのさらに西にある出雲祝神社にも祀られています。

応神は九州でそれまでの高良大社から宇佐神宮へと権威を移動した人物です。言ってみれば九州王朝の権威を潰して近畿政権の礎を築いた人物です。

ヤマトタケルは関東制圧(侵略)のストーリーが有名です。

倉稲魂は稲荷です。

 

この書き方では神々の中で誰がオリジナルのここの神様なのか、はっきりしませんねぇ。

武夷鳥は本当に関東開拓をやった人物ですが、象徴として父・豊玉彦(=天穂日)を立てています。他の神々は時代が新しいですね。ニギハヤヒ、ヤチボコ(=大国主)はもちろん古いのですが、世代が古くて関東開発(侵略)に直接かかわったとは思えません。

そういった状況から考えるに(武夷鳥を陰に隠した)豊玉彦(=天穂日)が当初の主祭神だったんじゃないかな? 拝殿、本殿の造りが氷川系、出雲大社系なのが傍証となると思います。また、武夷鳥は菅原道真の祖先とされていますので、菅原道真信仰を前面に押し出しておいて実は武夷鳥&豊玉彦が真の祭神なんだよ、というのが正しいんじゃないのかな?

 

やがて奈良政権出先機関である武蔵国府の侵略が府中からここ狭山丘陵にまで及ぶに至って、ヤチボコ(=大国主)を主祭神として祭り上げた、と想像しました。