久留米地名研究会・古川清久氏にご案内いただいての神社巡りも今回が最終回です。

古川氏には、見ず知らずの私を受け入れてくださり、また数々の教唆を下さり感謝しかありません。

この場を借りて感謝を申し上げます。

 

■石貫神社・・・宮崎県西都市

 

九州東海岸

 

何だか奇妙な台地の南を流れる一ッ瀬川沿い

 

一ッ瀬川はかつてはもっと広い流域を持っていたと思われ、国道219号線近くまで水際だったと思われます。その河岸段丘上に石貫神社はあります。

特筆すべきは、石貫神社のすぐ西側が台地になっておりその台地面上に西都原古墳群という多数の古墳があるという点です。

つまりはここが何らかの重要拠点になっていたとの物証であるわけです。地図上から考察するに山中を越えて西の人吉盆地とつながり、東の大阪平野へと海路でつながる重要な港であった、と想像できるわけです。

そんな港湾都市であった当地を開拓・支配した時代の痕跡を石貫神社に探ることになります。

 

何とも殺風景な…

 

 

ちょっと変わった額ですね。雑というか…

 

 

ちょっと祭神は分かりませんねぇ。

 

拝殿

 

百嶋神社考古学では、コノハナサクヤ姫は大山祇の娘とされていますので、この表記は正しいものと考えます。

一般的にはどうなのかは知りませんがね。

 

 

神額は…隼人っぽくないですねぇ。

どうも隼人ぽさがこの神社には感じられないのです。8世紀に入って南九州の隼人・熊襲が奈良政権によって侵略された結果、この神社から隼人ぽさが消されたのか? それとも…判定材料がありません。

 

拝殿正面から奥

 

本殿は千木が外削ぎ、鰹木は五本。

 

これも祭神は分かりません。

境内の小さい祠の祭神が分かればまだなんとか推理できそうなものの…

 

現状ある中で考えるに、石貫神社の「石」がトルコ系匈奴の持ち込んだ石地名と関連あると考えることが出来そうです。

それは百嶋系譜の中で大山祇のラインをさかのぼると金海伽耶の金越智へとつながっており、この人物は遠く中央アジアのタシクルガン(石頭城)由来の人物とされています。このルートで列島に入り込んだ人々が各地の地名に「石」を残しているのです。

石貫神社の「石」もその一つと考えれば、大山祇とその娘のコノハナサクヤ姫が原初の祭神として祀られているのかもしれませんね。

 

さて、そうであればここ石貫神社の背後の大地に築かれている西都原古墳群が大山祇と直接関連あっても不思議ではありません。

では石貫神社背後の長~い石段を登って西都原古墳群へと進みます。

結構長い階段ですので、古墳群がしっかり水害をこうむらない高台に築かれたことが分かります。

 

この階段を登り切ってすぐ右手に大山祇の古墳とされるものがあるということで行ってみましたが、なにせ土地勘が無いものでここでいいのかな??

多分ここだと思うんだけど…

 

未調査ですので大山祇の墓という物証はありません。

 

上記青×が大山祇古墳です。

これを見ると、大山祇古墳は石貫神社のある方に近いです。私の登った長い石段のそばですので、大山祇古墳は台地のへりに位置し東側の沖積平野(生活エリア)を直接見下ろす格好になっています。ですので、ここ西都原古墳群の最初に築かれた古墳だったように感じます。

Wikipediaによれば西都原古墳群は4世紀初頭から7世紀前半の築造だそうです。大山祇は2世紀の後半に生まれた人なので、ここの最も古い古墳が4世紀初頭だとすると大山祇の古墳ではない、となります。(大山祇は弥生時代の人ですので)

ですが、石貫の地名は大山祇の血統に合っていますし、この古墳に大山祇が葬られていないとすると大山祇、コノハナサクヤ姫の子孫である可能性が高いと考えます。

つまり大山祇の子孫が古墳時代にこの地をがっちり支配し、ルーツである大山祇を石貫神社に祀ったと考えるのが自然だと思いました。

 

では大山祇のどの子孫がここ西都原古墳群を築いたのか?

 

この地には伝承があって、大山祇の娘・コノハナサクヤ姫を嫁にほしいと言った鬼の要望を大山祇が蹴ったという内容なのです。

鬼は当地の有力者なのでしょう。

百嶋神社考古学においては、コノハナサクヤ姫は一時ニニギと結ばれた後に分かれ、豊玉彦と結ばれて、名を前玉姫と変え、ここより西方約70kmの鹿児島県溝辺町の前玉(さきたま)神社に祀られている…としています。

これより後の事は百嶋系譜にも記載がありません。

 

埼玉県には埼玉古墳群がありそのそばにある前玉(さきたま)神社の祭神が前玉姫、前玉彦となっています。

前玉神社のHPによれば「前玉神社は延喜式に載る古社で、幸魂神社ともいいます。700年代の古代において当神社よりつけられた【前玉郡】は後に【埼玉郡】へと漢字が変化し、現在の埼玉県へとつながります」とのことです。

 

鹿児島県溝辺町の前玉神社から埼玉県の前玉神社へと祭神が移動したのではないかと考えています。祭神が移動したとは具体的には、前玉姫を奉ずる人々が鹿児島県から埼玉県へ移動したのではないか、ということです。

前玉姫の名前で移動しているということは、当然豊玉彦の傘下にあるのだろうと推測するわけです。

 

ところが、ここ西都原では前玉姫の名前ではなく、大山祇の娘・コノハナサクヤ姫として祀られていた…ということは豊玉彦とは無関係だろうと想像しました(少なくともここ西都原では)。

ここ石貫神社では、トルコ系匈奴の大山祇を奉斎しているわけですからコノハナサクヤ姫改め前玉姫が東へ旅立った後でも、大山祇の血統を連綿と伝えるトルコ系匈奴一族が大きな西都原古墳を展開するほどこの地で栄えた、ということではないでしょうか。