さて柳瀬川を遡上して神社を巡ってまいりましたが、ここ狭山神社がその最上流地点となります。

 

■狭山神社・・・東京都西多摩郡瑞穂町箱根ケ崎1

 

ちょっと川筋が見づらいですが、関東平野の中央を下っているのが荒川。一番西を斜めに下っているのが多摩川。この2つに挟まれたエリアが武蔵の大地です。

柳瀬川と空堀川は荒川へ合流し、残堀川は武蔵野台地の真ん中を斜めに突っ切って多摩川に合流しています。

 

狭山神社は以前にも紹介した同名の神社がありましたがそれは狭山丘陵の東端で、今回紹介する狭山神社は狭山丘陵の西端です。

 

かつて残堀川は狭山丘陵から流れ出していました(点線)が、江戸時代末期に狭山池に接続し狭山池の排水を行いました。耕作地を得るためです。

 

排水する前は青半透明のエリアに広い池が広がっていたと思われます。

 

さて、そんな立地の狭山神社鳥居です。

 

くわしくて助かります。

祭神はイザナギ、イザナミ、事解男、箱根大神、コノハナサクヤ姫、大山祇、巌永姫。

巌永姫は珍しいです。

もう1軒の狭山神社と同様イザナギ、イザナミが祀られています。

事解男=金山彦で特にここにいて不思議はありません。

箱根大神は中世に勧請された神様。

コノハナサクヤ姫、大山祇、巌永姫は源頼朝が勧請したもの、とありますがどうなのかな?

 

猫の足あとサイトに詳しい記事がありましたので引用いたします。感謝! 以下赤字

 

1)新編武蔵風土記稿による狭山神社の由緒(箱根ヶ崎村)三社権現社
除地、一段二畝、御林山の頂にあり、村内の鎮守なり、本社六尺に四尺南向、上屋三間に四間半、祭神は木花咲耶姫命・大山祇命・吾田津姫命の三神なり、殿ヶ谷村阿津佐美天神の神主宮崎和泉の持なり。(新編武蔵風土記稿より)

 

2)「瑞穂町史」による狭山神社の由緒記録を失し創立年代等不明であるが、往昔は箱根権現とも三社大権現とも称していた。狭山丘陵の西端にある。箱根ヶ崎の鎮守として明治六年村社に列せられた。(「瑞穂町史」より)

 

3)「東京都神社名鑑」による狭山神社の由緒創建年代不詳。箱根大神は永承年間(一〇四六-五三)源義家の奥州征伐の折、筥の池(狭山池)へんに陣営、箱根権現の霊夢に感じ、当地に勧請、凱旋の時に奉賽したといわれる。木花咲耶姫命ほか二柱は源頼朝の関東五百社勧請の一社と思われる。主祭神の伊邪那岐・伊邪那美と泉津事解男命は、近古時代すでに奉斎されていたと思われる。それを証する古代瓦が発見されている。幕末に雷火、明治九年と十九年に類焼、その後、昭和二十六年拝・幣殿を完成した。(「東京都神社名鑑」より)

 

新編武蔵風土記稿は1800年代資料、瑞穂町史は昭和、東京都神社名鑑は成立不明ですが新しいものでしょう。

新編武蔵風土記稿でイザナミ、イザナギ、事解男が入ってないのが気になりますね。少なくとも新編武蔵風土記稿では「三社権現社」と書かれていますのでこの三社とは木花咲耶姫命・大山祇命・吾田津姫命の事を指すのでしょう。

つまり江戸期には木花咲耶姫命・大山祇命・吾田津姫命が祀られていて、それ以外の祭神は書かれていないので木花咲耶姫命・大山祇命・吾田津姫命がここ狭山神社の江戸期の祭神だったと考えていいのではないでしょうか。

瑞穂町史からは昭和期には箱根権現が入っていたことが分かりますが、新編武蔵風土記稿には「箱根ヶ崎村」との表記があるので、江戸期には箱根権現はここ狭山神社とは別のものとしてあったと推論できます。

さらに東京都神社名鑑によれば木花咲耶姫命・大山祇命・吾田津姫命は中世に入ったもので、イザナミ、イザナギ、事解男が元々の祭神だった、とあります。

イザナミ、イザナギ、事解男が江戸期に出ていないのは隠されていたのでしょうか? 不明です。

 

久留米地名研究会・古川清久氏にお伺いしましたところ吾田津姫ははっきりとは分からないが候補としては神大市姫(大山祇の長女、コノハナサクヤ姫の姉)の可能性が高いんじゃないか、とのことでした。

 

では百嶋系譜にあてはめてみましょう。

イザナギ、イザナミ、事解男を赤□

木花咲耶姫命・大山祇命・吾田津姫を青□

としました。

 

赤と青ははっきり別家系です。

素直に考えるなら、もともとの祭神はイザナギ、イザナミ、事解男(=金山彦)だったが隠された。

この3柱の中心はイザナミ、事解男の兄妹でしょう。つまりは殷氏です。

殷氏は半島経由でやってきた民族で、元寇の後に半島からやってきたという理由で隠されてしまったという経緯があったと久留米地名研究会・古川清久氏から伺ったことがあります。

隠された後に新たな祭神として源氏系の木花咲耶姫命・大山祇命・吾田津姫命、箱根大神が入れられたのではないでしょうか?

 

別の視点で考えると、大山祇は大国主の父、大国主は武蔵大國魂神社の主祭神です。武蔵大國魂神社の性格は埼玉県立歴史と民俗の博物館でお伝えしたとおり、一言でいえば近畿奈良政権が関東侵略のために府中に築いた武蔵国府に靡いた関東圏神社を総覧的に集めた総社です。そこの主祭神・大国主の父が大山祇なので、ここ狭山神社に対して近畿奈良政権の影響が及んでいたという痕跡、ととらえることもできましょう。

 

境内へと進みます。

 

厳島式鳥居をくぐって登ると

 

拝殿、神紋は菊の御紋。奈良政権サイドです。

 

 

本殿、千木は縦削(男神)

おやおや棟の方向が普通と違いますね、と思ったら覆殿か。内部に本殿のシルエットだけが見えます。

 

よく見えませんね。これ以上は何とも…

 

そして

境内に2社

 

左は金刀比羅、大国主です。

上で書きましたが、大山祇の息子・大国主がここに祀られていました。もう確定ですね。

 

右は高尾神社、祭神がよく分かりません。

武蔵野台地の西のはずれに高尾山があり、そこは修験道が盛んな場所でしたが…

 

こちらは機(はた)神社

 

セメントで作られたお社です。

 

中央にタクハタチヂ姫が祀られていました。

タクハタチヂ姫は草部吉見神社で登場した姫です。

簡単にまとめますと、高木大神の力を借りたかった草部吉見(=ヒコヤイミミ=鹿島大神=海幸)は高木大神の娘・タクハタチヂ姫に婿入りしマスオ化しました。

草部吉見は他でも同様に散々やらかしていて、相当うまくやったらしく鹿島大神として全国の海岸部を支配する海洋王に成り上がりました。

楯付く者もいない大立者となった草部吉見ですが、草部吉見神社での祭神の序列を見てみると1位がタクハタチヂ姫なのです。こうやって、お世話になっている姫君に一歩譲って立てているのがかわいいと申しますか、そういった一面を持っていたからこそ海洋王にまで上り詰めることが出来たのでしょうなぁ…

 

それはさておき、高木大神の娘たるタクハタチヂ姫がなんでこんなところに祀られているのか? 

当人気シリーズ(笑)柳瀬川を遡上する15支流・空掘川02 高木神社で申しました通り、高木大神の縁者がここ狭山丘陵にまで到達しているようですので、高木大神の娘・タクハタチヂ姫を祀る集団がここ狭山丘陵の西端にコロニーをつくっていても不思議はないわけです。

問題は「何が目的で?」というところです。それは次回の狭山が池にて推論します。

 

黄色□がタクハタチヂ姫)

高木大神、タクハタチヂ姫ともに2世紀(弥生時代末期)の人物です。

関東平野の中心・荒川周辺が氷川族の監理の元にどんどん発展している時代に、荒川にアクセスできる小河川・柳瀬川上流になぜ高木系がポツンといるのか??

訳が分かりません。

一つヒントになるとしたら、多摩川沿岸に1つだけある阿蘇神社です。阿蘇神社は関東にはこれ以外にほとんどありません。

阿蘇神社の祭神を見てみると阿蘇の草部吉見神社とよく似ています。当然タクハタチヂ姫も祀られています。

その影響がここ狭山神社にも及んでいる可能性はあると思います。

この阿蘇神社もいずれ取材します。

 

傍には稲荷神社もありました。

 

狭山神社のレポートは以上となります。

話は変わりますが、この狭山神社の近くに狭山が池がありまして、これに関するレポートもお届けしたく次回に回します。

お楽しみに!