今回は最高にタフですよ~。
■新田神社・・・鹿児島県薩摩川内市宮内町1935−2
東シナ海へと流れ込む川内川の流域。薩摩川内平野(?)のほぼ中央。
かつては外海から少しさかのぼっただけで安全な薩摩川内へと入れる良港だったのですね。
私が最初に久留米地名研究会・古川清久氏の事を知ったのは、地名研究からでした。
それは釜蓋・エイノオという地名についての研究でした。尖った崎や川の合流点のように、陸地が水面へ向かって鋭利に尖っている地形について、九州において釜蓋・エイノオなどという地名が多いという話です。
釜蓋はそのまんまで、釜の蓋の取手。エイノオ(の尾)もそのまんまで、海に棲息するエイのシッポ。
海の岬や川の合流点は釜の蓋の取手、エイのシッポのように細くとがっていますのでそのような呼び方をしたのだろう、という内容でした。
ここもそのようなネーミングにふさわしい川の合流地点となっています。マップを拡大すると川の合流点に「江崎樋管」という表記が見えます。樋管は増水時の放流路の事で、江崎が古い固有名詞だと思われます。この「江」がエイの事だと思いました。
これがその合流点。横から見るとエイのシッポのように尖っているでしょ?
そして可愛山陵の振り仮名に「えのみささぎ」と振ってあります。つまり「可愛」を「えの」と発音するんだ!ではなく、言葉を使う民族によって表記も発音も異なるんだけどいつしか同じものとの認識になった、ということです。
(詳しくは久留米地名研究会・古川清久氏の解説をご覧ください。)
ここは元々「えの」と呼ばれる土地で、その由来は川の合流点がエイのシッポのように尖っているから「えいのお」と呼ばれ、それが「えの」という発音の固有名詞化したのでしょう。
これは飽くまで中国語が公用化する以前の縄文発音とでもいうべき時代の話です。※1
弥生時代になり大陸から大量の中国人が押し寄せ、交易によって彼らが主役になると言葉も彼らの言葉が主役になります。(これは戦後やたらとカタカナ英語モドキが広がったのと似てます)
中国人は漢字を使い、ここの土地を表現します。川の合流点だから「川合」と。交易で船荷を積み下ろしする場所の目印としてぴったりのネーミングです。
縄文人と中国人の同居が進むとお互いに「えの」=「川合」という認識が生まれ、それが「川合はえのと読む」と刷り込まれました。
やがて川合を可愛と書き換えても「えの」という発音は残った…というストーリーだと想像しました。
では新田神社へ。
川内川からまっすぐ伸びた参道の果てに鳥居があります。
鳥居をくぐると勅使橋のようなアーチ橋が川を跨いでいます。
近代的な(つまり明治以降に指定を受けたんだろう)勅使橋というのがミソだと思います。
橋の上から。
階段左に西門守神社、祭神は櫛磐間戸。
右に東門守神社、祭神は豊磐間戸。
途中に3社
右から高良神社、祭神は天細女って???
中央神社、祭神は大山祇。中央というネーミングが???
早風神社、祭神は級長津彦、級長津姫。
ここ薩摩川内は上記の地図で見た通り航海と密接な関係がありそうです。帆船が風待ちをしたことも多かったのではないでしょうか。早風というネーミングは帆船航海と関連しているように思います。
さらに登っていきますと
拝殿。
主祭神はニニギ。
祭神は天照、天忍穂耳。
珍しく系図(?)も書いてありますが。
天照(伊勢)ー天忍穂耳(英彦山神宮)ーニニギ(新田神社)ー彦火々出見(鹿児島神宮)ーウガヤフキアエズ(鵜戸神宮)ー神武(宮崎神宮、橿原神宮)
これは百嶋系譜で考えると家系として成立していません。
奥の本殿。千木は外削ぎ。
菊の御紋、五七桐紋か?
ここは本殿に近づけないようになっています。こういった作りの神社はたまにあります。本殿の祭神に余人を近づけさせないという意図を感じます。祭神とはその地域の原初のヒーローなのである意味親しみ深いものだから、参拝する人を隔絶したりしないと思います。
うがった見方をすれば、ここのように本殿に近づけさせないようにしているのは、本殿の祭神が地元の人々を支配している異民族という印象を受けます。
「土民どもは勝手に近づくんじゃねぇッ!」て感じですかねぇ。
これは、ここ薩摩川内で行われる川内大綱引の写真ですね。
白鉢巻と赤鉢巻が綱引きで対抗します。鉢巻きには丸に十字紋(島津家)があるのですが、写真の手に持っている太鼓(?)には、左が丸に梅花(菅原道真一族)、右が花橘(橘一族)。
これは面白いですね。両者とも中央の藤原から排斥された一族で、その両者がここ薩摩の地で勢力を保っていた、ということではないでしょうか。
拝殿内部
拝殿裏手から本殿へと伸びる通路。本殿手前がアーチ橋になっています。
本殿周辺へは近づけないようになっていました。隔絶しているということは地元の信仰とは別種、ということなのかな?
本殿の千木は外削ぎ(男神)。
これはすぐそばの興玉神社、祭神は猿田彦。
こちらは二十四社、おそらく祭神が24なのでしょうねぇ。祭神名が御伴神となっていまして具体名は不明です。
これが分かると面白い展開なのですが…
その後ろにも小さな祠がありますが不明です。
これも境内のお社ですが祭神は不明です。
これはGoogleMap上で確認できた可愛(えの)山陵への道です。
登っていきますと
これが山陵の正面。
宮内庁による表示。ニニギの可愛(えの)山陵、と。
宮内庁が指定しているということがミソで、おそらくは…あ~~~!書けねぇ!!
(察してください…)
柵の奥はこのような状況です。古墳ってさ、見たってなんも分からんのよ…
さてさてこの神社の分析に入りたいところですが、ここ新田神社は事情が複雑です。どういうことかというと、これまで当ブログをお読みいただいた方にはなんとなく伝わっているかと思いますが、神社や祭神はどういうものなのかを考えれば分かりやすいと思います。
まず大前提として「人類が日本列島で発生したものではない以上、すべての時代において列島に生きる人間は100%外来性」です。※1
現代のように高速・大量交通のなかった過去、木造船に乗って(おそらく)血縁関係にある集団で列島にやってきたと想像します。「それはお前の想像でしかないだろう?」その通りです。ですが、人間の生きるリアリティに準拠し考察すると、それしかないと思います。
巷には根拠の全くない妙なファンタジー話(アクセスカウント収入目当て、アフィリエイト収入目当て)が溢れていますが、確認しようのない神々の話だからと言って勝手に作っていいわけではありません。(もっとも、空想話だという前提でやるならご自由ですが)
というのが真実を追求する基本的な態度だと認識しています。人間は100%利己的・恣意的な行動しかしませんので、歴史上の真実なるものも後世のどなた様かのご都合により簡単に隠され変えられてきただろう、ということは子供でも想像できると思います。
話を新田神社へ戻します。ここも御多分に漏れずそういった「大人の事情」によって右へ左へふらついてきた、ように感じられます。
今回こんな話を書いているのは、やはり明治維新によって神社が大きく変容したんだなぁと感じたからです。
Wikipediaにもある通り、ここ新田神社は「明治7年に明治天皇の裁可を経て可愛山陵が邇邇芸(ニニギ)尊陵の指定を受け宮内省直轄となった」際に祭神が入れ替えられた公算があります。特に明治政府は薩長政府ですので、ここ薩摩にある新田神社は強く改変されているかもしれません。(特に天孫降臨廻り)
ですが、本当のこの地元の氏子さんたちの努力で本来の神様も捨てられずに何らかの形で残されていると考えます。
そういった事情を頭の隅に置いておいて、いつも通り百嶋系譜にあてはめてみましょう。
主祭神、ニニギ。続いて祭神は天照、天忍穂耳。これらを赤□。
(掲示板にあった天照以降の系譜(?)は一旦無視します)
パッと見、ニニギと天照がいかにも明治時代(薩摩)の後付けっぽいですねぇ。
天忍穂耳は全国の水辺を支配した鹿島大神(=海幸彦)であり、草部吉見神社の主祭神・ヒコヤイミミであり、名族・藤原家の祖神です。
ここ新田神社は明らかに港湾都市の立地なので天忍穂耳がいても不思議はありませんが、千葉県と違って周辺地域が鹿島神社だらけになっていませんのでここの祭神に天忍穂耳が大きく祭り上げられていることに若干の不自然さは感じます。
つまりニニギ、天照、天忍穂耳はいかにも明治期の後付けっぽく感じるので一旦外して考えます。
以下が祭神分析の本番となります。
(境内摂社・末社については取材漏れもありますので、Wikipediaより抜粋します)
摂社
四所宮(若宮四所宮、若宮殿):彦火火出見尊・豊玉姫尊・鵜葺草葺不合尊・玉依姫尊
以上青□▲
この若宮とは鵜葺草葺不合のことを言っているのでしょうね。下の系図を見るとこの4人は家族であり、大幡主系(豊玉彦)であることが分かります。(また、鵜葺草葺不合尊と玉依姫尊の息子・安曇磯良は海に生きた人物ですのでここ新田神社の立地にふさわしい家系です)
なのでここ新田神社は元来大幡主系(豊玉彦)だといえるのではないでしょうか?
(逆に言えば、この4神が大幡主系じゃなく天忍穂耳系だったら今頃本殿に納まっていたんじゃないかな?)
武内宮:彦太忍信命(孝元天皇の皇子で武内宿禰の祖父とありますが違います。孝元天皇の義父で武内宿禰の祖父です)
赤□(下の系図をご覧ください)
この彦太忍信の出自はよく分かりませんが、系図から見るに九州王朝正統・高良玉垂(=底筒男=開化)の外戚に当たる人物で大きな権力を持っていたと想像します。ひょっとしてここ新田神社のかつての主祭神だったのでは?と想像してしまいますね。
武内宮というネーミングは武内宿禰を連想させるのですが、武内宿禰自身は祀られていません。武内宿禰を消す代わりに武内宮という名前だけ辛うじて残した、かも?※2
もしそうなら、ここ新田神社の元々の主祭神は武内宿禰、あるいは武内宿禰の祖父・彦太忍信ってことになります。
もしそうなら、スッキリするんだけど…
1枚目の系図を見ると、彦太忍信の妃・葛城高千那姫は豊玉彦の娘なので、(古代は女系中心という話に従えば)彦太忍信~武内宿禰は豊玉彦系と言えますね。(赤半透明部分)
彦太忍信は豊玉彦の助力がほしかったから葛城高千那姫を妃としたのではないのかな? ここでもマスオですね。四所宮の四神(青□▲)はスポンサーサイドで、現場プロデューサーが彦太忍信だった、と。
末社
二十四社:天児屋命、太玉命(=豊玉彦)、天鈿女命、石凝姥命(不明)、玉祖命(不明)をはじめとする24柱緑□
ここも祭神がもっと分かれば面白かったのになぁ…
天児屋根は阿蘇外輪山の東・草部吉見神社の主祭神・ヒコヤイミミで、天忍穂耳であり、藤原の祖とされ、全国の海岸部を支配した新世代海洋王です。ヒコヤイミミは方々で種蒔き♥しており、その方面の楽しい解説は草部吉見神社をご覧くださいっ!
太玉命(=豊玉彦)はここに入ってたのね。名誉職って感じですか。
天鈿女は(天岩屋戸のストーリーにおいて裸踊りしたと貶められていますが)伊勢外宮様であり猿田彦の妃であります。
二十四社にまとめられているのは協力者といった感じなのでしょうか。
興玉神社:猿田彦命。若宮四所宮、武内社に次いで尊重され、大王社(太玉社)とも赤□
この表現だと猿田彦はかなり彦太忍信を助けて、ここ新田神社の地域を開発(侵略)したのでしょう。彦太忍信が現場プロデューサーなら猿田彦は現場ディレクターってとこですね。
と、ここまで見ると新田神社の真の祭神は彦太忍信、猿田彦と考えざるを得ませんね。
続いて中腹にあった3社を見ましょう。
高良神社:天鈿女命。高良社、猴等神社とも
天鈿女(=辛国息長大姫)の3代後が高良玉垂(=底筒男)だからこのネーミング、ということしか思いつきません。でもここ新田神社には他に高良玉垂の痕跡が無いんだよねぇ。
中央神社:大山祇神。中王社とも。神亀山の地主神
地主神ということは、彦太忍信・猿田彦以前の支配者が大山祇だった、ということなのかな。
早風神社:級長津彦命(=国龍=ヒコヤイ=海幸彦)。
ヒコヤイさん、いったいどういう関わり方してるんだか…
以上グレー□
以下の祭神は参照としてあげました。系譜には反映しません。
東門守神社:豊磐間戸神(不明)。石段向かって右側、殿門守護の神で、往古は東善神王と
西門守神社:櫛磐間戸神(不明)。石段向かって左側、殿門守護の神で、往古は西善神王と
保食神社:保食神(=伊勢外宮)。田の神と同一視(=大幡主、大山祇)。どう解釈するか難しい…一旦置いときます。
廃絶した境内末社
彼岸社:波切不動明王(不明)
荒神社:素戔嗚尊
スサノオも初期開発メンバーの一員だった、と。ここも一旦置いときます。
境外末社
大己貴神社:大己貴神。汰宮(すべりのみや)とも称す。往古は薩摩総社の役割を果たしたとされているので当地の初期の開発(侵略)は大国主によると想定できるでしょう。
九樓神社(くろうじんじゃ):甕速日神。隣接する守公神社とともに「九樓守公神社」とも
守公神社(しゅこうじんじゃ):樋速日神(不明)。薩摩国総社と伝わる神社で、隣接する九樓神社とともに「九樓守公神社」とも。
樋速日に甕速日…何か関係あるんだろうなぁ、としか言えない。
武内神社:彦太忍信命。かつての宮内麓(郷士の居住地)に鎮座
大将軍神社:武甕槌神(=鹿島大神)。五代町に鎮座。室町後期の創建と伝わり、大将軍宮とも称される。
八尾神社(やつのおじんじゃ):八岐大蛇(=ナガスネヒコ)・八咫鏡。小倉町に鎮座。八王明神とも称される。鏡山神社(祭神・八咫鏡)を合祀
船間島神社:御伴神(十郎大夫)。海神宮とも称される。祭神の十郎大夫は御伴神の1柱で、この地で病死した神であるといわれる。これはおもしろいですね。おそらくこの地へ漂着した古い世代の人物を表現しているのではないでしょうか。
廃絶した境外末社
鏡山神社:八咫鏡。邇邇杵尊が当地の国津神の抵抗にあった際に、八咫鏡を隠した場所。後に八尾神社に合祀。
今回の新田神社分析は以上となります。
一時はど~なるかと思ったけど、最終的には非常に面白かった!です。
時代の権力者の入れ替わりにより祭神が上げられたり下ろされたりする歴史の重層を見せられました。(もぅおなか一杯です…)
※1
近年、日本語は周辺言語と隔絶していて類似した言語が存在しない孤立した言語だ…などという話があります。
そんなわけはない。
言語文化は100%外来性で、日本語のルーツとなった言語は存在し全て海外からやってきています。理論的にそれ以外考えられないです。
(こういうと理論と現実は違う、などという声が出ます。有体に言うと理論と現実は相互補完関係にあり、違う違わないという話ではないです。優れた研究は理論と現実を相互補完的に高めたものに他なりません。しかし、理論と現実は違うというお方のほぼ100%はただの理論無視だと思います)
分かりやすくいうと、文字を持たない多種言語が縄文時代に列島に流入し、交流してある程度の共通発音語を形成していた。弥生時代になり中国人が大量に流入したため発音が影響を受け、初めて漢字による表記が流入することにより、新世紀にふさわしい新しい列島共有語が自然発生的に生み出された。それが原初列島語となり今日の日本語への出発点となったのだと思います。
今日残されている最古の弥生表現・万葉集はまさに縄文発音と中国漢字表記のミックスになっています。
ここでいう中国語も、全く異なる言語・文字を使う多種の大陸人が持ち込んだものなので、日本語の言語ルーツ解析はAIスパコンでも使わないと演繹できないだろうし、それができたとしてもその論文を読んで人間がちゃんと理解するのは無理なんじゃないのかな?
それより歴史の流れ、アウトラインを人間ベースで理解し、「あぁ、人間てこういうものなんだ」と知ることの方がよりよい人生を送るのに有益だと思いますよ。
私が百嶋神社考古学ベースで神社考察しているのは、そういう点で面白いからです。決して歴史マニアック趣味に進んでいるわけではありません。この面白さは広く一般に共感できると思うんだけどなぁ~。
※2
余談ですが、この彦太忍信と葛城高千那姫の間に山下影姫が生まれ、山下影姫と高良玉垂の間に竹内宿祢が生まれています。この葛城高千那姫は埼玉県の出雲祝神社・鷲宮神社で祀られていた武夷鳥(=兄多毛比)の姉であります。
父・豊玉彦に関東進出を命じられ、スサノオ・クシナダ姫一統のバックアップを受け埼玉県大宮周辺に橋頭保を築き氷川神社を広めた開拓者・武夷鳥(=兄多毛比)。その姉・葛城高千那姫が九州に残って九州王朝正統・高良玉垂の外戚に食い込もうとする動きの中に生きていた、ということですねぇ。