前回の山名八幡宮の裏山に山上碑・山上古墳がありますので見てみましょう。
■山上碑・山上古墳・・・群馬県高崎市山名町山神谷2104
関東平野の北西のすみ
群馬の西部
あたかも船のへさきが烏川と鏑川を切り分けているように見えます。
そのへさきの突端をアップにしました。
さらにアップ
鳥居マークは前回レポートした山名八幡宮、今回の山上碑・山上古墳は●です。
表面的にみると山名八幡宮の祭神に関係する人物のものかな?と考えそうですが関係はありません。
観光名所のようで整備されています。
石段の途中に墓所があり、墓碑銘を見ると石原姓、五三の桐
石が大山祇系かもしれません。
五三の桐は九州王朝系
登りきると古墳と
山上碑を格納した建物
中に入ることはできませんで、ガラス越しに山上碑を眺めます。
説明係の方が居られて少々話しました。
ガラス越しに実物を見れます。
これが碑文
これは山上碑文の解説で、くわしくは下の記事をお読みください。
エレガントに解決しています。
「高崎市文化財情報」サイトによりますと 以下赤字
山上碑は日本最古級の石碑(681)
放光寺の僧・長利が亡き母・黒売刀自を供養し、母と自分の系譜を記したもの。
長利は健守命の子孫・黒売刀自が赤城山南麓の豪族と推定される新川臣(桐生市・新川か)の子孫の大児臣(前橋市・大胡か)と結婚して生まれた子。
彼が勤めた放光寺は、「放光寺」の文字瓦が出土した前橋市総社町の山王廃寺だったと推定されている。
碑文にある三家(みやけ、屯倉)とは、6世紀~7世紀前半に各地の経済的・軍事的要地に置かれたヤマト政権の経営拠点。
佐野三家は高崎市南部の烏川両岸(佐野・山名地区一帯)にまたがって存在していたとみられ、健守命がその始祖。
碑に隣接する山上古墳は直径約15mの円墳で、精緻な切石積みの石室を持ち7世紀中頃の築造。
その築造時期は、山上碑よりも数十年古いため、もともと黒売刀自の父の墓として造られ、後に黒売刀自を追葬(帰葬)したものと考えられている。
碑文の現代訳
辛巳年10月3日に記す。
佐野三家(さののみやけ)をお定めになった健守命(たけもりのみこと)の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。これが、新川臣(にっかわのおみ)の子の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の子孫である大児臣(おおごのおみ)に嫁いで生まれた子である長利僧(ちょうりのほうし)が、母の為に記し定めた文である。放光寺の僧。
では山上碑の内容を考えます。
佐野屯倉というからには、中央に対して佐野の土地を寄進するという体で自分はその土地の管理人という肩書を得るということですね。※1
佐野はここ山上碑の北方3km、烏川北岸にあります。山の反対側にあるのがちょっと引っ掛かりますが。
その佐野コロニーの管理人・健守の末裔が黒売刀自
そして新川臣、新川は山上碑から遠く北東30km、利根川の東側、関東平野の反対側の山すそにあります。
その新川臣の子孫・大児臣
(古代によくあったという通い婚でしょうか?にしてもちょっと遠い)
この大児臣はこの新川のそばに住んでいたのでしょうか。
山上碑の西南西3km鏑川南岸に多胡碑(群馬県高崎市吉井町池1095)があります。
大児と多胡、関連あるのかな?
よく見ると新川の西10kmに大胡神社、大胡城、大胡町が見えます。ここが大児臣の本拠地かな?
多胡と大胡が同じとして、それぞれの地名の密度から考えて大胡から多胡へ名称が伝播したと考えました。
そこから想像するに、
大児臣が本拠地の大胡から30km以上移動して※2烏川沿岸の佐野まで通い婚した、のかもしれません。
何のために?
山上碑を建てた長利は佐野の母・黒売刀自、大胡の父・大児臣、両者の共通利益を代弁する立場だったでしょう。
その長利は放光寺に勤めていたという。
放光寺は前橋市総社町の山王廃寺で、佐野と大胡の中間地点です。
総社は利根川舟運の拠点・ロジスティックス基地であり、なおかつ古代からの幹線・東山道が交差する地点です。
リバーパワーとランドパワーの超重要交差点です!
ここを抑えた者は古代群馬を支配できるでしょう。※3
長利はそれに直接かかわる立場にあったのかもしれませんね。
その役割を立派に果たしたからこそ、681年に誇らしく山上碑に父母を刻んだのではないでしょうか。
たまには古代史じゃなくても面白いですね。
ではちょっと古代史に関わりそうな観点で見てみましょうか。
今回は、その大元になったらしい大胡(群馬県前橋市河原浜町)はどこから来たの?
いつものように「日本姓氏語源辞典」で検索したところ以下のような結果となりました。
全国の1~9位の大胡姓の分布です。全国検索で、ですよ?
◆の大きさで人数の多さを表現してあります。
点線は江戸期以前の利根川の流れです。
東京湾から利根川を遡上し大胡に入植したのかな?
銚子にある最大のコロニーも気になりますね。でも孤立しているので江戸期以降に利根川を下ってきたのかもしれません。
いずれにしても大胡の人々が太平洋側から入り込んだと想像できます。
太平洋側に上陸したとすると、黒潮に乗って西からやってきたんだろうとも思えますね。
では「日本姓氏語源辞典」の10位を見てみますと…
広島・尾道!※4
そしてその西には呉(くれ)!
古代史フリークならピンッと来ますが、呉(ご)といえば呉の太白。
三国志の魏呉蜀じゃなく、呉越同舟の呉。
越王・句践に滅ぼされた呉の一族の一部が海路日本列島へ退避し、本当(崇神ではないという意味)の神武天皇へと連なる正統姫氏の系譜、と百嶋神社考古学は教えています。
やがて白村江敗戦により九州王朝は敗北し、ヤタガラス勢力が正統姫氏を守って逃がした先が広島の「呉」
この「呉」と大胡姓の「胡」は繋がりあるんじゃないの?と想像します。
つまり広島の呉からさらに東方・関東にまで移動したのが大胡なのかな。
彼らは自分たちの出自が正統姫氏に連なると知っていたからこそ、「大いなる胡(呉)」=「大胡」と名乗ったんじゃないのかな?
ま、すべては想像ですが。
※1なんとかかんとか維持してきた自分の利権を中央の誰かに寄進なんて、なんでそんなことするのかよく分かりませんでしたがこれは安全保障の一環なのですね。
例えば藤原の荘園になってしまえば、攻撃を受けたらそれは藤原への攻撃とみなされますから抑止の一助になりますね。
※2移動ルートは陸路東山道を利用したか、それとも川筋をたどって川船に乗ってやってきたか…
※3一番下の地図をよく見ていただきたいです。
地政学的には佐野と大胡の連携は確かに有効ですが、前橋市総社町をきれいにサンドイッチしているわけではありません。
この連携の主体は大胡サイドであるように見えます。
大胡からみれば前橋市総社町の真西の勢力を連携できればベストだったでしょう。
群馬に伝わる伝承で「榛名山の大蛇と赤城山のムカデが大喧嘩した」というものがあります。
榛名山と赤城山は利根川をはさんでおり、どちらの南にも古代東山道が東西に走っています。
まるで利根川を合わせ鏡にしてみているようで、榛名山と赤城山は利害がことごとくバッティングするような関係だった、とも想像できます。
大胡は明らかに赤城山サイドですので、利根川の対岸・榛名山麓の勢力とは連携がむつかしかったのでしょう。
だのでしかたなく大胡は榛名山から南に離れた佐野に打診して連携できた、のかな。
佐野を取り込むことで大胡は利根川・古代東山道利権を手にできた、と想像しました。
※4尾道といえば尾道三部作(大林信彦監督)!
超なつかしいなぁ!
でも大林監督といえば「異人たちとの夏」だよねっ!!
マジで涙が止まらなかったですよ!!
風間杜夫、片岡鶴太郎、秋吉久美子、素晴らしすぎて「映画」を越えてました…
「邦画は邦画にして、映画にあらず」とよく言っているのですが、
「異人たちとの夏」に比肩しうる映画はまぁ少ないですよ!




















