霞川を遡上し霞川が途絶えたのですが、さらに周辺をさかのぼりつつ調査します。
ついに阿蘇系神社が登場です!
■虎柏(とらかしわ)神社・・・東京都青梅市根ヶ布1丁目316
霞川流域から北側の山中へ少し入った辺り
この周辺、妙に寺が多いんだよね。
入口を探して探して、裏口から入っていきました。
延喜式内社だった。
1500年代に勝沼城主・三田氏が再興し、浅野長政が正殿に諏訪、東相殿に虎柏神、西相殿に疫神と定めた。
江戸期には諏訪明神社と呼ばれた。
明治期に虎柏神社へ戻し、正殿に虎柏、東相殿に諏訪とした。
ということでした。履歴を記してあって助かります。
拝殿
拝殿正面
賽銭箱に鷹の羽紋、阿蘇氏です!
手前が拝殿、奥が本殿
分かりづらいですが本殿と拝殿の鬼瓦にも鷹の羽紋、もう決定的でしょう。
では周辺を見ていきます。
拝殿に向かって右側に小さな祠? 柴刺、朝日の仮屋、と。
その隣には
藤原神社
鷹の羽紋を用いた阿蘇氏・ヒコヤイミミ=天児屋根=鹿島大神なので藤原氏の祖先神です。
こちらは拝殿に向かって左側、同じような感じで夕日の仮屋とその隣には稲荷
以下、猫の足あとサイトから抜粋します。以下青字
新編武蔵風土記稿・・・
根布村諏訪明神社
虎柏神社、高峯神社を相殿に祭る。吉田派の神職宮崎左近持。
社伝に延喜式内社・虎柏神社とされ祭神は進雄尊(スサノオ?)ある。
やがて諏訪明神と呼ばれるようになり三神鎮座の由来も失われた。現在は小曾木郷の總社。柏江郷佐須村にも虎柏社(別當虎柏山日光院安楽寺)あり。
東京都神社名鑑・・・
創建年代不詳。崇神天皇のころ神地を給わったと伝えられ、延喜式内の旧社。昔は諏訪宮とよばれた。(天慶三年九四〇源経基諏訪上下大神を勧請した)
文応元年(一二六〇)再建、永正年間(一五〇四-二一)勝沼城主三田氏の信仰厚く社殿の改築を行なった。
現社殿は正徳三年(一七一三)再建のものである。
維新のさい旧名に復し、根ヶ布地区の鎮守であり、古くは小曾木郷の総社であった。朱印状は三石である。
青梅市史・・・
旧霞地区の根ヶ布に鎮座。祭神は大年御祖神、惶根神、建南方命、事代主命(東相殿)、頚佐之男命(西相殿)。
創建は崇神天皇のころ神地を給わり、古くは諏訪宮とも称した延書式内の旧社。天慶三年(九四〇)、源経基が諏訪上下大神を勧請したと伝える。
文応元年(一二六〇)に再建し、永正年間(一五〇四~一五二〇)、勝沼城主三田氏の信仰厚く、社殿の建築を行った。現在の本殿は正徳三年(一七一三)に再建したものである。
明治維新のとき社名を旧名に改め、明治六年に郷社に列格した。社宝の縁起板によると、往古、武蔵国小曾木郷の総社であった。
おとの入り神事は都無形民俗文化財に指定されている。
履歴をまとめますと
1)崇神期に創建?
2)延喜式神名帳(927)に記載あり、祭神はスサノオ
3)940に諏訪を勧請し諏訪宮となる。
4)明治期に虎柏の旧名に戻した。
現在の祭神は大年御祖(おおとしみおや)神、惶根神、建南方命、事代主命(東相殿)、頚佐之男命(西相殿)
大年御祖神=草部吉見(阿蘇氏、鷹の羽紋と一致)
惶根(かしこね)=埴安姫
建南方=諏訪
事代主命=崇神(藤原)の外戚
頚佐之男=スサノオ
ここからは推論です。
2)に祭神はスサノオとあります。このころは関東は動乱期に入っていますので武家による信仰かもしれませんし、もっと古く群馬方面から入ったイスラエル系八坂神社としてのスサノオかもしれません。
惶根(かしこね)=埴安姫は群馬から鉱業関係で入ったものだと想像しました。※1
940に諏訪を勧請した際に建南方が当地に入ったと思うのですが、諏訪を信奉する中世武士団の動きによるものでしょうか…
そして大年御祖神。
これも想像ですが、明治期に虎柏に「戻した」とのことで、しかも上記の神社履歴の中に古い時代の虎柏が登場しません。「虎柏」の語源が不明ですが、相当古い時代の祭神をこの周辺の人々が憶えていて原初の祭神に戻した、と想像しました。
それが草部吉見だった、と。
ここ虎柏神社、阿蘇神社、奥氷川神社と、多摩川上流部に阿蘇系が集まっていますねぇ。
中世よりも古い時代に阿蘇系の移民があった、ということでしょう。
※1「惶根」にはこれまでわずかながら遭遇していまして、百島神社考古学では惶根=埴安姫とされています。ですが、惶根というこの表記の意味合いはよく分かりません…