以前から久留米地名研究会・古川清久氏から「行け!」と言われていた奥氷川神社へ行って参りました。

単線の青梅線に乗ってののんびりした列車の旅でした。

 

■奥氷川神社・・・東京都西多摩郡奥多摩町氷川185

 

関東の大河・多摩川は青梅から扇状地をつくりつつ武蔵野台地へと流れだしています。

 

青梅から更に山中へと多摩川を遡っていきます。

 

最初はご覧のとおり谷間が広いのですが

 

やがてこのような渓谷になります。(電車内から撮ったのでお見苦しい写真になってます…)

 

青梅線の終着駅・奥多摩で下車、歩いてすぐのところに奥氷川神社はあります。

ご覧のとおり、川の合流点です。

 

川の合流部にかかる橋から北を眺めると、山裾にセメント用石灰石を採掘している工場が見えます。

 

その橋のすぐそばに奥氷川神社はあります。

境内はそんなには広くないです。

 

 

拝殿の千木は外削(男神)、鰹木は5本(男神)

巨木が林立しています。

 

 

 

神紋は大幡主

 

本殿は覆われています。

 

本殿に千木、鰹木、神紋はなさそうです。

 

これも覆われた本殿

 

本殿の後ろに2つのお社がありました。

手前の方は何も手掛かりがありません。

 

小さい方は天満宮でした。

 

江戸期の新編武蔵風土記稿によると(以下赤字)

祭神は素戔嗚尊、稲田姫命。拝殿に大巳貴命・少彦名命を祀る。
小さい神明宮が本殿の後ろにある。(奥神殿)
小さい稲荷社、蛭子社、疱瘡神社が本社の東にある。

大巳貴命、少彦名命を祀る祠(攝社)がある。

 

素戔嗚尊、稲田姫命、大巳貴命、少彦名命の取り合わせは大宮氷川神社にもありました。

 

さらに奥多摩町史によると(以下青字)

祭神は速須佐之男命、櫛稲田姫命。相殿として建御名方命が祭られていた。
景行のころ、日本武尊が素戔嗚尊、大己貴命を祀ったのを起源とする。
貞観二年 簸川修理大輔土師行基が再興して社号を奥氷川大明神とする。
嘉応三年 相殿として建御名方命を祀る。
貞治三年 細川頼春の家人、村野武清、祭祀を起こしその裔相継ぎ奉仕して近代に及ぶ。
牟邪志(武蔵)最初の国造・出雲臣伊佐知直は当初多摩川下流に拠点をもち、その上流奥多摩氷川の愛宕山の地形を祖国出雲で祖神を祀る日御碕神社の神岳と見、ここへ祖神の氷川神を勧請したのが武蔵に数多い氷川神社の起源で、牟邪志、知々夫両国の合一によって本拠の国街を府中に移して氷川神を中氷川へ、さらに大宮へ移したのだろうといわれる。
出雲の日御碕神社は素戔嗚尊を祭り、ここには愛宕山と酷似した独立山があってこれを隠岳といい社伝によれば素戔嗚尊が熊成峰(韓国)で柏占をされてここへ天下られたといい、ここは禁足地になっているということです。
愛宕山麓の登計に手名槌神、足名槌神二柱を祭る阿羅波婆岐社(現在は愛宕神社へ合祀)があり、この二神は須佐之男命の妃神・櫛稲田姫命の父母神ですからこの神が須佐之男命を勧請された愛宕山の麓に把られていたということは愛宕山、即氷川神ということについて一つの傍証となりましょう。
御相殿諏訪明神の建御名方命は大国主命の国譲りに当って諏訪へ遷られて、多摩地区各地にも名杜があります。
中世の奥氷川神社の境内は今の奥多摩駅附近まで延びていてここを大木戸と呼び神主屋敷があったという伝承もあります。

 

貞観二年は860年なので、この行基は東大寺大仏を作った有名な行基(668~749)とは別人ですね。

建御名方は後から入った、と。

「牟邪志国造・出雲臣伊佐知直は当初多摩川下流に拠点」という部分、これは武蔵大國魂神社で演繹したように近畿大和朝廷の先兵・武蔵府中熊野神社古墳の主が7世紀前に多摩川流域に上陸し、どうも氷川勢力(鷲宮)がそれに協力した形跡がある点から考えて合致しています。

 

しかし、氷川神社の始まりが奥氷川で、その後武蔵野台地、大宮台地へと広がったというプロセスは逆だと思います。

そも、兄多毛比(=武夷鳥)が氷川族を引き連れ関東開拓をし鷲宮(わしみや)神社を建てたと考えられます。氷川神社が荒川沿岸に広がったのはその流れによると考えています。

ですので、まず氷川神社のメインストリームは荒川沿岸に広がり、一部多摩川にもいた氷川族(伊佐知直?)は近畿大和政権の武蔵野台地開拓(武蔵大國魂神社)に協力していた。その後氷川のアイコンとして多摩川最上流部のここに奥氷川神社を建てた、と想像します。

 

大変ありがたいことに後日、奥氷川神社について詳しい情報を総代会長・斎藤文一氏よりお教えいただいたので以下に共有いたします。以下緑字

西多摩神社明細誌(昭和58)によれば、奥氷川神社の主祭神はスサノオ、クシナダ姫、タケミナカタ。

景行52年、ヤマトタケル東征の折にスサノオ、オオナムチを祀ったのが起源。その後771年にクシナダ姫を合祀。860年に再興されて奥氷川大明神と称する。

境内・外社は以下の通り

両輪社・・・オオヒルメ、ツクヨミ

神明社・・・アマテラス

山祇(さんぎ)神社・・・大山祇

熊野神社・・・イザナミ、速玉男

稲荷神社・・・稲倉魂

杵築神社・・・オオナムチ

竜田神社・・・級長津彦、級長津姫

こんなことを書くととても失礼と取られても仕方ないのですが、”自称”の歴史についてはあまり信用しないことにしています。それは自らを正当化する意思に基づいて書かれているので、人間である以上”事実”を記述することは無理だと考えるからです。

ですがこの西多摩神社明細誌に書かれている由来についてはある種信じてもいいような気がしました。

 

ここ奥氷川神社は氷川神社群の中心・荒川流域から随分離れています。氷川族の本当の勢力範囲からかけ離れているのです。

つまりはある種の象徴(モニュメント)だろうと考えます。

西多摩神社明細誌によれば、原初の祭神はスサノオ、オオナムチです。ヤマトタケルがこの2神を祀ったのは分かる気がします。

問題はその後771年に後からクシナダ姫を合祀していることです。合祀した理由は分からないのですが、合祀することでスサノオ、クシナダ姫といういかにも氷川という祭神セットが完成し、その後860年になって「氷川」と命名された、という流れが見えてきます。

つまり700年代以降、武蔵野台地において近畿奈良政権の支配がある程度確立し、武蔵大國魂神社勢力の確立にも寄与した「多摩川下流域の氷川勢力」の一種の象徴としてここ奥氷川神社が作られた、と考えました。

 

771年、860年の出来事の経緯は不明です。ですが、重要なのは最初から「氷川」ではなかったということです。

では境内・外社の祭神を百嶋神社考古学の視点で見ていきましょう。

両輪社・・・オオヒルメ=天照、ツクヨミ=大山祇

神明社・・・アマテラス

山祇(さんぎ)神社・・・大山祇

熊野神社・・・イザナミ、速玉男=大幡主

稲荷神社・・・稲倉魂=伊勢外宮様(スサノオの娘)

杵築神社・・・オオナムチ=大国主(大山祇の息子)

竜田神社・・・級長津彦=天児屋根(=鹿島大神、海幸彦、ヒコヤイミミ)、級長津姫=イチキシマ姫

 

上記を見ていただければ傾向が見えてきます。

まず大山祇が多い。大山祇は狭山丘陵北麓でもよく見られたのですが、武蔵大國魂神社勢力のアイコンであると考えます。(大国主の父ですので)

竜田神社については久留米地名研究会・古川清久氏の優れたレポートがあります。簡単に紹介しますと…以下青字

級長津彦はシナヅヒコで、遠い昔に中国大陸中原に侵入した漢人に追われ東南アジア→南シナ海→九州と移動した現日本人の祖先の一派です。シナからやってきたからシナヅヒコ、ということです。

九州にたどり着いた彼らは阿蘇山に拠点を作りました。それが立田阿蘇三宮神社です。立田阿蘇三宮神社は阿蘇山外輪山の西側、外輪山が一か所だけ欠けている巨大な立野渓谷が下流に作った扇状地にあります。(ここは阿蘇外輪山内部に入り込むのに重要な拠点だと思います)※1

立田阿蘇三宮神社の主祭神は国龍神(=天児屋根=鹿島大神=海幸彦=ヒコヤイミミ)です。

 

つまりここ奥氷川神社の竜田神社の級長津彦は阿蘇直系であり、級長津姫は大幡主の孫・イチキシマ姫であった、と。

その点から、ここ奥氷川神社が「氷川」を名乗る前、つまり原初に近い時点の主祭神は級長津彦、級長津姫であり、多氏(阿蘇直系)と大幡主系の強力カップリングがなぜか多摩川上流部のこんな狭い谷あいに祀られていた、と想像しました。※2

 

なぜこんな多摩川上流部に? という疑問は残りますが…

 

長くなったので想像した歴史の流れをまとめますと、

1)まず竜田神社として級長津彦、級長津姫が祀られていた。

2)その後、ヤマトタケルが持ち込んだという体でスサノオ、オオナムチが主祭神として祀られた。

3)さらにその後、多摩川下流域・武蔵野台地に近畿奈良政権の影響が浸透した8世紀にクシナダ姫が追加で祀られた。

4)それに基づき、9世紀に「氷川」となった。

現在、奥氷川・中氷川・大宮氷川が三氷川という扱われ方をしていますが、これはどう見てもおかしくて、ここ奥氷川神社が「氷川」となった時点での権威づけ・観光(?)のために三氷川と言い始めたんじゃないかな、と想像します。

 

 

※1国龍(たつ)神、立(たつ)田、立(たつ)野、これら「たつ」は同じものかもしれませんねぇ…

 

※2ここ奥氷川神社の下流、青梅から少々下った位置にあった阿蘇神社は、久留米地名研究会・古川清久氏より阿蘇氏末流であった藤原秀郷(俵藤太)が関係しているのではないかとご指摘いただきました。

ですが藤原秀郷は後世の人物です。阿蘇神社もここ奥氷川神社も設立当時(おそらく西暦700年よりも早い時代、武蔵大国玉神社が多摩川に上陸する以前)は阿蘇氏が入植しコロニーを建設した、と想像しました。

今回の奥氷川神社の竜田神社はその原初の痕跡だと考えます。