本郷のおばあちゃんブログ
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28日目)昔の写真


(今回は前回訪問から2ヶ月近くあいてしまいました。その間に、古いアルバムが見つかったとのこと。)

本郷のおばあちゃんブログ-段ボール写真

(この箱に下まで何冊も入っています。上から2番目「1930」と見えますが、これは1930年!、おばあちゃんの旦那さん、つまり私のおじいちゃんの『卯吉さん』が高校の頃の写真とか。このように1冊1冊がとても古い貴重な写真なので、1枚1枚聞いているうちに1/3も開かないうちに時間切れになってしまいました。ということで、今回はこれらのアルバムにあった写真のごく一部をご紹介します。)

本郷のおばあちゃんブログ-電車の窓から 本郷のおばあちゃんブログ-映画風

これは婦人会で旅行に行った時の写真ね。
(叔父さんより「おばあちゃんは若い時はきれいでとにかく目立ったよ。父兄参観のときは自慢だった。まわりのお母さん方と並んでも、パッと目を引くんだよね」)

本郷のおばあちゃんブログ-お見合い

これは結婚式の時の写真かしらね。それともお見合いで使った写真?よく撮れてるでしょう。

本郷のおばあちゃんブログ-集合写真 本郷のおばあちゃんブログ-戦地より

この写真は、出征した代次さんに送ってあげた写真。(左上の人を指差しながら後列を順番に指して)これが和久井のおばあさん。卯吉さんがとっても世話になった人。私もずいぶん一緒にいたけど、とってもいいおばあさんなのよ。これは美代子、私の一番下の妹。これが倉次さん。会社を預けてたら、いつのまにか自分の仕事ばっかりやって、のっとっちゃった人。その横のおばあさんは、トメさん。おばあちゃんのおふくろさん。

(トメさんは進さんも初めて顔を見たそうです。そして、前列に移って)この二人は卯吉さんの両親、代次さんときせさんね。抱えているのはおばあちゃんの長男の徹だろうね。そうしたら、おばあちゃんが抱っこしているのは、設子ね。設子は代次さんが出征してから生まれたので顔を見ていないから、こうして写真館でみんなで写真を撮って、軍にいる代次さんに送ってあげたのよ。

徹は木でできた機関車のおもちゃを持っているでしょう?徹はおもちゃが好きでね。代次さんときせさんがよく買ってきてくれたのよ。

こっちは、この左端のが卯吉さんね。出征してから、送ってきてくれた写真。

(このブログに過去に記載されてきたいろいろな人が、こうして顔を合わせて写真に写っているとなぜか不思議な気分です。)


本郷のおばあちゃんブログ-旅行2 本郷のおばあちゃんブログ-旅行1

こっちは十和田?こっちは八幡平?卯吉さんと旅行はよく行ったわね。荒信、荒川信用金庫がお得意さんを夫婦で招いて団体旅行をよく企画してくれて。比較的仲はよかったんじゃない?近所の人にもうらやましがられたから。

(叔父さんより「おばあちゃんはそういう旅行に行くときは必ず着替えとカセットテープを持っていってね。宴会になると着替えて踊りだすんだよ」)
日本舞踊を習っていたからね。阪東流っていう流派。ダンスも後にやり始めたし。

(過去の写真は今回はこんなところで。先週、私の父 徹(おばあちゃんの長男)のお友達が来てくれて写真を撮ったとのことで、それを近況写真として載せておきます)

本郷のおばあちゃんブログ-金魚坂にて
この人たちは徹の岩井学園の時のお友達でね。徹のお墓参りの後に寄ってくれたのよ。とってもいいお友達。岩井の時の思い出話とか、徹の話とかいろいろと話してくれたのよ。


27日目)岩井のこと


(僕が今回「インタビュー」した前週末、おばあちゃんはおじさんと共に、このブログにも何度か登場している岩井に行ってきたそうです。)

本郷のおばあちゃんブログ-岡田農園
この「岡田農園」にはもう何年も前から毎年このビワの時期に毎年行っていてね。岩井学園に行く途中、(房総半島の)富浦にあって、ここのビワはおいしいの。今年は天気に恵まれなくて出来があまり良くないらしくてね。良いビワはもう少ししか残ってなかった。ビワはこの時期に行かないと、6月末にはもうダメになっちゃう。(僕も1箱いただきました。一つ一つやわらかい紙の袋で包まれている高級品。果肉がしっかりしていて、とてもおいしかったです。)

岩井の駅の裏に冨山(とみさん)というちょっとした山があってね。そこが里見八犬伝の、伏姫がそこにこもっていたと言われているところなの。
本郷のおばあちゃんブログ-里見八犬伝


(叔父さんより「冨山の裏に神社があってね、そこまでは少し長い階段を上らないと行けなくて、去年はその階段を嫌がって下で写真だけ撮ったんだよね。でも今年は「今年は上がれるかしら」なんて言いながら、すっすっと上がって行っちゃった。ずいぶん体力がついたんじゃないかな」)
あら?そうだったかしら?毎年ここに行って、岡田農園に行って、そのあとに岩井学園の近くの海岸を散歩するのがコースになってるの。

本郷のおばあちゃんブログ-神社

岩井学園は子供たち(僕の父である徹、叔父さんの慎二さんと進さん)が3人とも、順番に1年ぐらいずつ通ってたから、面会で何回も行っていたのでとても特別な場所なのね。子供たちにとっても特別だったみたいで、この前の徹の一周忌に来てくれたお友達も、皆さん岩井の時のお友達だからね。

徹はもともと小学校の時に先生から聞いてきて、「僕、岩井へ行く。体の弱い人はそこで治してもらえるんだ。勉強も教えてくれるんだ」って、もう決めちゃってきたのね。岩井へは小4から行けるんだけど、徹は5年生から行ったんじゃなかったかしらね。

最初の面会は、入園して1か月してから。すぐに行っちゃうと帰りたがる子がいるからだって。ごちそう、お菓子なんかを持っていくと、園長の山下先生は海千山千のとっても粋な先生だったから、「せっかくお母様がいらっしゃったんだから、一緒に海岸へ行ってらっしゃい」なんて言ってくれるの。規則では、そういう食べ物の差し入れは禁止されているのね。寮母さんが迷惑してるって言ってた。でも、海岸に行って、他の人から見えないところで食べてらっしゃいっていう配慮だったのね。それで、海岸近くの松林で、持ってきたものを食べさせてあげてた。
でも、面会の日の次の日は、みんなお腹を壊したって。食べなれないものを食べちゃうから。学園の食事は、健康に気を使っていてホント疎食だったから。

そうやって面会に行く時は、5月と、あと7~8月にも。もっと小さかった慎二と進を連れて、海水浴ついでに行っていた。近くに漁師をやっている「橋本さん」という人が、「五佐ヱ門」という民宿もやっていてね。そこに泊って、地引き網の手伝いをさせてくれるの。それで取れたお魚をみんなもらえてね。一度、徹がカキの殻で足をバックリ切っちゃったことがあったわね。
冷房なんてないから窓開けて、蚊帳を釣ってね。蚊帳なんて見たことある?夜は虫がすごかったのよ。


26日目)結婚式のこと

$本郷のおばあちゃんブログ-5月19日


(僕が到着する少し前に、おばあちゃんのお友達の娘さんが来ていたそうです。)

その人のお母さんはフォークダンスの時の友達でね。ブログを見てくれているようで、今日来た娘さんは「母に渡したいから印刷したものはないか」っていって、印刷したものをいっぱい持って帰ってた。

(叔父さんより「こちらもおばあちゃんが読むときに印刷したのを渡しているからね。昔の記事なんかはずいぶんたくさん印刷したものがちょうど手元にあったので渡したんだ。」)

その人のお母さん、つまりおばあちゃんのお友達の人は、おばあちゃんの二つ上だから97歳。目もしっかりしてるから、このブログを楽しみに読んでくれてるんだって。

(そういうお話を聞くと、書いてる身としてもうれしい限りです。それから、いろいろとあっておばあちゃんの結婚式の話になりました。)

おばあちゃんが結婚式を挙げたのは、昭和16年1月。神田明神で式をしたの。その頃、神田明神で挙式するなんてお大臣様ぐらいしかできなかったんだけど、卯吉さん(=おばあちゃんの旦那さん)が、「俺は神田の生まれだから神田明神で式を挙げる」って言って、見栄を張ってそんなところで挙げたの。

卯吉さんは派手好きで遊び人で。ハンサムでも無いのに芸者さんなんか呼んで、喜んでるのよ。そんなことしてるからキセさん(卯吉さんのお母さん)はヒステリーになっちゃってね。


式の後は、神田明神の前の大きな料亭で披露宴をやったの。全部で、そうねえ、70人ぐらいいましたかね。その頃は、そういう宴会は家に戻って自分の家でやるもので、そういうお店でやるのは珍しかったの。
それでその晩は家に泊まって、その次の日に新婚旅行に出発した。箱根と熱海で2泊。これも、当時は1晩で帰ってくるのが普通なのだけど、おばあちゃんたちは熱海にも足を延ばして、2泊したの。


結婚した後は、湯島新花町に住んでた。湯島天神のすぐそば。その頃、卯吉さんのご両親が早稲田の近くの下宿屋で働いていた話はしたかしらね?そこは早稲田の学生さんの下宿だったんだけど、戦争が始まってからは学生さんたちを半分ぐらいの部屋に寄せちゃってね。戦争で上京した人とか戦争遺族の人たちが靖国神社に参拝に来るから、そういう人たちを泊めてあげてたの。ひっきりなしにいろんな人が来るから、とってもにぎやかだった。そこにまだ小さかった徹(おばあちゃんの長男で、僕の父)をよく連れてきて、かわいがってもらってた。

その宿のあたりは焼け残ってたから、まだあるんじゃないかしら?

それで、3月ぐらいに卯吉さんに召集令状、赤紙が届いてしまってね。でも、それを届けに来た人が、大抵の人は震え上がっちゃうのに、奥さんしっかりしてる、って言ってたのを覚えてる。その時、お腹に子供がいた。子供がいるから疎開をした方がいいって言われて。山梨の酒屋さんのお蔵に、一家みんなで住まわしてもらったの。子供、『設子』は7月に生まれてね。おじいさん(代次さん:卯吉さんの父)が、「男の子がほしかったのに、なんだ、女の子なんか産んで!』って言ったのよ。

おじいさんの代次さんはいばり屋でね。知ってる人からは、よくあのイバリオヤジとつきあってられる、って同情されたの。疎開するときも代次さんは、(代次さんの故郷の)「弥彦に疎開してもいいんだけど」なんて言ってたけど、親戚と全然仲良くしてなかったからね。行っても申し訳ないでしょ。

25日目)名前の由来~卯吉さんのこと

本郷のおばあちゃんブログ-5月3日

(今回は雨だったので『お散歩』はできず、車で近くのファミリーレストランに行きました。これはそのお店の前での写真です。ひょんなことから名前の由来の話になりました)

おばあちゃんの妹で『勢子』の話はしたわよね?勢子が生まれた頃、うちの商売が景気がよくてとても勢いがあったの。だから勢子って名前になったのよ。
おばあちゃんは淑子(よしこ)っていうでしょ。これは、おばあちゃんはうちにとって、初めての女の子だったのよ。それでお淑やか(しとやか)な子になるだろうって付けたって。
それが一番おてんばになっちゃって。兄弟のなかでも一番活発なんじゃないかしら。

ほら、マラソンや駅伝の話はした?富士山に登った話もしたかしらね?
そういうとき、この進(叔父さん)も卯吉さんも、誘っても全然来なかったのよ。寝てる方が楽だって。
(卯吉さんは、おばあちゃんの夫、つまり僕から見るとおじいちゃんに当たる人です。)

卯吉さんは動くのがキライな人でね。おっとりのんびりしていて楽天家で、徹(僕の父)とよく似てたのよ。

それでいて麻雀とビリヤードはとてもうまくてね、特にビリヤードはプロ級にうまかった。それは両方とも夜でしょ。それで夢中になってると、帰ってくるのは朝の4時半頃なのね。
ある時、その頃は卯吉さんのお母さんがだいぶ悪くなってしまっていて、夜中に『下の始末』をよくしていたのね。それぐらいの時に玄関で音がして、「あー、帰ってきたな」と思ったんだけど、そういう時間に帰ってきたら起こさないで、って言ってあったから、卯吉さんはそーっと1階の部屋で寝床についたみたいだったの。

まだ4時過ぎだったから、朝ごはんの支度までもう少し寝られるなーって思って、少し寝て。それで朝起きて卯吉さんの様子見たら、何かおかしいのよね。
「ちょっとお父さんの様子がおかしい」って子どもたちを起こして見てもらったら、「大変だ、息してない」っていうわけ。それからお医者さんを呼んで、結局こういうのは「不審死」って扱いになるから司法解剖が必要だって言われてね。警察だかの監察医が卯吉さんをどこかに運んでいって、調べたみたい。
1ヶ月ぐらいして病名がわかって、「冠状動脈硬化」だって。

この話は前にもしたかしらね?(ほぼ1年前にも、確かにこの話が出ていました。)

では、卯吉さんがそろばん日本一を取ったって話は?
卯吉さんは京華商業高校に行っていたんだけど、家の財政が苦しくなって学校を辞めたの。でもそろばんのコンクールが近くなったら学校から迎えが来て、「うちの学生として出てほしい」って言われて。それで出場したら見事に優勝して、そろばん日本一になったのよ。

(叔父さんより「よく、横になりながら指でそろばん弾くような仕草をしてね、その後何か書き込むようにしてて。あれは頭の中で暗算してたんだろうね。」)

前にも話したかもしれないけど、そのおかげで兵役に入ってからも楽だったらしいわよ。
計算ができるってことで会計とかそろばんを教える立場だったって言ってたわね。軍のなかにもそういうことができる人が少なかったんでしょうよ。

最初、中国の上海の軍隊に配属になったんだけど、自動車整備の仕事で、自動車の自の字も知らないくせに。でもすぐに上官付になって、そういう経理みたいな仕事になったみたい。退役になって太って帰ってきたからね。おいしいものいっぱい食べてたっていうし。

あと、決してハンサムとかそういう類の顔ではなかったけど、とってもおしゃれだったわね。ちょっとしたものにも気を使って。
私の方は、体操のクラブ(サントレ)に入るぐらいだからいっつもジャージを着ていた。
ホント、性格は真逆だったわね。

24日目) 海水浴のこと、お相撲のこと


本郷のおばあちゃんブログ-さくら祭1本郷のおばあちゃんブログ-さくら祭2
(今回はまず、叔父さん(進さん)と写っている写真を見せてもらいました。)
この間、進に連れて行ってもらって文京さくら祭に行ってきたのよ。茗荷谷の小石川植物園の近く、「環三通り」のところ。環三通りっていうのは、環状三号線を作るはずだったんだけど、植物園とぶつかっちゃうっていうのでそこまで作って中止になっちゃったの。それで広い道路と名前だけ残ったのよね。
(進さん「そこのそばに『三徳』っていうスーパーがあって、そこによく行くんだよね。でこの前行ったらそういうお祭をやっていたから写真を撮ってきたんだ。)

(それから、おばあちゃんが子供の頃の話になりました。)
子供の頃、海水浴に葉山や稲毛、谷津海岸へ何度も行った。一夏に2回ぐらい、家族全員にお供の人まで連れて。全員で15、6人もいたんじゃないかしら。その頃はまだ京浜東北線なんて通ってなくて、赤羽から上野までは汽車で行くんだけど、そこからはタクシーを2台雇って、海のある街まで行ったのよ。2台で5000円だったかしらね?とにかくずいぶん高かった覚えがあるわ。その頃は交渉して値段を決めていたのよ。

砂浜にすだれの小屋がずらーっとできていてね、1家族で1つずつ借りられるようになっていて。うちでは2つほど借りて、そこで着替えて海で遊んだの。
その頃はまだ女性用の水着なんてなくてね、お母さんはえらい変な格好だったわよ。襦袢を着て、腰巻きをしてその下に男物のパンツを履いて。それで海に入っていたのを覚えているわ。
大正時代の話だからね。お父さんはふんどしだった。

その後、荒川の水練場に行っていたころには女性ものの水着ができていた。でも、男性は皆、やっぱりふんどしのままだったわね。
(進さん「おれたちの子供の頃も、みんな『赤フン』だったね。赤いふんどし。溺れても目立つし、つかんで引っ張り上げやすいんだよね。当時は浮き輪なんてなくてタイヤのチューブで代用してたよ。)
そうそう。シャワーもなかったけど、水道のホースがあるからそれで頭から水をかけて、タオルで拭いて帰ってきた。

女学校に行ってからも葉山へ行ったのよ。学校の施設が葉山の御用邸のそばにあってね。学校の行事で、2泊3日ぐらいで確か2000円ぐらい。ずいぶん高かったのを覚えている。

(それから子供の頃の話でつながって、大相撲の話になりました。)
国技館ができてお相撲が始まったのも、その頃だったんじゃないかしら。最初は春場所、秋場所、それぞれ5日ずつ、1年で10日しかなくてね。「1年を 10日で暮らす よい男」なんて川柳があったぐらい。そのうちに1年に4回になってね。

テレビはないけどラジオでいつも聞いていた。「あ、双葉山が勝ちました!」なんてね。いつも双葉山が勝つの。何連勝したかしらね?(進さん「60何連勝したよね?」)そうそう、69連勝だったんじゃないかしら。あと一つで70連勝、なんて話していたから。安芸の海に敗れたのよね。

(この週末はどこも桜が満開。おばあちゃんの家から駅までの途中、進さんたちの出身小学校でも見事な桜が咲いていたので、1枚撮影しました。)

本郷のおばあちゃんブログ-真砂小学校さくら

23日目)セイちゃんのこと、広島の親戚のこと


(今回は、僕が初めて見る帽子だったのでさっそく写真を撮らせてもらいました。)
あら、これ初めて?別に新しいものじゃないのよ。昔、三越で買ったものなの。

本郷のおばあちゃんブログ-赤い帽子

このブログをいろいろな人が見てくれてるって言ってくれて、とてもうれしいわね。ほら、これも年賀状で見てくれてるって書いてくれてる。
(文面に「ブログ拝見し大変懐かしい思いと、お元気の様子を伺い心強く思いました」とありました。)

この人はセイちゃんと言ってね。むかーしにうちで働いてくれていた人。とってもまじめな人でね。うちで働いてくれた人の中では一番まじめだったんじゃないかしら。働きながら夜学に通っていてね。今の電気通信大学、当時はなんていったかしらね、そこに行っていたの。その頃は江戸川区の小松川に工場があってね。うちの仕事は力仕事も多いから大変だったろうに、本当にえらいわよね。

セイちゃんは大学を卒業して就職口が実家の近く確か新潟県の方で見つかったってことで、申し訳ないけどということで辞めて実家の方に戻っていったのよね。


(それから少し別の話が入り、広島に住んでいる仲のいい親戚の方々の話になりました。)

本郷のおばあちゃんブログ-広島のおじさん 本郷のおばあちゃんブログ-広島のおばさん

広島のケンちゃんたちの話はしてないわよね?広島のところには毎年ゴールデンウィークの頃に3泊4日で泊まりに行っていたのよ。ケンちゃんっていうのは、そこの息子さん。

もともとは、その広島のおじさんとおばさんが新婚旅行でうちに泊まったのよね。その頃はうちの仕事も盛んだったから。その時に二人が「今度うちへも来てくださいよ」って言ってくれてね。それで一度行ってから、毎年行くようになったの。

最初の頃は原爆ドームとか、広島の名所を案内してもらってね。そのうちに、おじさんとおばさんと3人で九州の方まで旅行するようになったの。おじさんがしっかりとしたプランを作ってくれてね。関門海峡を渡って、焼き物の里を中心に回っていた。有田焼とか備前焼とかのカマ場ね。ある時など、それこそ備前に行ったときじゃなかったかしらね、カマ場が休みで。でも無理やりお願いして、見せてもらったこともあるのよ。いつもとっても楽しかった。
上の写真はその時のもの。順番に撮ってるから、なかなか3人そろっている写真がないのよね。

広島のうちはね、おじいさんの代次さん(おばあちゃんのお舅)のお兄さん代七さんの娘さんが広島に嫁いでいったの。その子供が広島のおじさん。代七さんは長男だから代次さんの本家に当たるのね。ほら、いつもお墓詣りするとき、奥にもう一つあるでしょう?あのお墓に代七さんも入っているのよ。

代七さんの娘さんはたいそうきれいでね。巣鴨の地蔵通りの入り口のところで小間物屋、女性の髪飾りなんかを売るお店をやっていたんだけど、『巣鴨小町』なんて呼ばれていたのよ。その人が戦時中に広島に嫁いでいったんだけど、その頃は広島も景気が良くてね。その家は鉱山かなにかの山を持ってるっていうお金持ちだったのよ。

地蔵通りには代七さんの他の子供も店を持っていてね。パン屋さんをやっていて、そのパン屋さんは今でもあるわよ。



22日目)富士山登山と日課のこと


(今回は前回少し書いた、富士山に登った話からです。)
富士山に登ったのはね、確か産経新聞かどこかの新聞社主催のツアーがあってね、それに参加したの。1人で参加したから周りは知らない人ばかりでね。

初日はバスで5合目まで行って、夕食を食べて寝て。それで翌朝4時に起きて登っていくの。
そのツアーには1人リーダーの人がついていてね。おばあちゃんは最初は先頭で登っていたんだけど、だんだん遅れちゃう。それで休みながら行って、8合目か9合目で休んでいるときに朝日が昇るのを見たのよ。とってもきれいだった。広重だっけ?そういう浮世絵とかで見たようなきれいな光景だった。

まだ頂上まで行ってなかったけどね、帰りが遅くなっちゃうから、朝日を見たところで戻ることにしたの。

それでね、(前回話したように)サントレの根本先生に、「富士山に登ってきたけど頂上までは行ってない。今度一緒に登りましょう」って誘って、「それじゃあ来年『ハイキングクラブ』で企画して登ろう」って話をしていたんだけどね、その前に先生が亡くなってしまったから、結局そのあとは富士山へは行ってないのよ。

根本先生が倒れられたって聞いた時もね、本当は私たち生徒のひとは見舞いに行けなかったんだけど、他の体育指導員の人が特別にはからってくれて、連れて行ってくれることになったの。お見舞いに行って気の毒だったのは、先生は意識は戻ってないんだけど、こうやって(前後に大きく体をゆらすようにして)しじゅうやってるのよ。そういう病気だったの。それで、お見舞いに行って1週間もしないうちに、先生は亡くなられてしまったのよね。

先生が亡くなられてからも、ハイキングクラブは続けてね。群馬とか長野とか、いろいろな山を登ったのよ。秩父の48か所の霊場を回ったり。そういう企画をうまいひとがいたのね。

ハイキングクラブはそうした『軽い登山』を好きな人が集まったところでね。サントレは前にも行ったように文京区の体育施設でいろいろな運動をするのよ。バレーボールとかね。(叔父さん『一度見に行ったら、おばあちゃんは回転レシーブもしていたよ』)
一番得意だったのは、バスケットボールね。


(ところで、富士山登山したっていうのは何歳の頃の話?)
そうねえ。たしか根本先生と、来年おばあちゃんが70になるからその記念もかねて、なんて話していたから69歳の時ね。

(すごい!『5日目』の真ん中に、その頃(1986年)の写真を紹介していました。ココをクリックするとその写真が表れます。中央右、看板に手をかけているのがおばあちゃんです。これで69歳とは、見た目も若かったんですね。そこから健康の秘訣というか、日課で走っていたことの話になりました。)

40代の頃から、それこそ70過ぎぐらいまで、雨が降っても雪が降っても必ず毎朝走っていたのよ。
朝4時頃に起きて4時半頃に家を出て、不忍池の方まで行って、東大の赤門と農学部の間の道を通って一周して、約6km。帰りがけ、6時頃に不忍池のあたりで毎朝ラジオ体操してる人たちがいるのよ。その人たちに「いつも早いねえ」なんて言われたから、「いえ、東大のところを1周して、これが帰りなの」って答えたら「えーっ」ってびっくりしていたわ。

それで帰ってくると旦那さんや子供たちが起きるか起きないか、という時間だから、朝ごはんを作って食べて。サントレのある日曜日はそれからサントレに行っていたのよ。

本郷のおばあちゃんブログ-東京駅にて2
(今回はインタビューをしたファミリーレストランで撮り忘れてしまったため、帰りがけ、車を降りたときの写真です。見づらくて申し訳ありません。。。)

21日目)フォークダンスのこと

$本郷のおばあちゃんブログ-バレンタイン

(今回は、着いてすぐに、おばあちゃんからチョコレートをもらいました!今週はバレンタインですね。)

毎年合唱の先生とフォークダンスの先生にあげていてね。その時に買ったものよ。日本橋の三越の上で選んでくるの。7階の催物会場を使って、毎年たくさんのお店が出ててね。今年もすごい人だった。

そういえばフォークダンスの『スミレグル―プ』の話は前にしたかしら?今も毎週通っているんだけど、もともとは、おばあちゃんが40歳の頃だったんじゃないかしらね?文京区でフォークダンスの講座があって。そのときは125名も生徒がいたのよ。先生が1人じゃ足りないから、インターンの人とかも出てきて、総勢5人も。それで手分けして教えていたの。最初は男女ともいたんだけど、男性からするとあまり面白くないのか、だんだん減っていってね。今は女性だけのグループになってるの。

茗荷谷の方の体育館で練習していてね。毎回最初に、「友達讃歌」と呼んでるんだけど、「まあるい緑の山手線、真ん中通るは中央線♪」って、歌に合わせて踊るの。いつもこの曲でレッスンが始まる。

ほんとうは、おばあちゃんが目を悪くしたので、もう踊れないし、迷惑になってしまうのでもう行きません、って言ったの。でもみんなが「おばあちゃんが来ないとみんなが心配する」って言ってくれて、「来ないととってもさびしい」とか、「いてくれるだけで励みになる」なんて言ってくれる人もいてね。はじっこで見ているだけなんだけど、毎週行かせてもらってるの。

ここの先生は、文京区の体育課にいる人で、優秀な女性の先生。文京区は体育館も2つもあるし、年に1度、運動会なんていうのもあって、とてもこういった面に力を入れているのよ。文京区のフォークダンスのグループは私たちのグループのほかに、『若竹』っていうのと『さくら』っていうのがある。あと、ソシアルダンスの講座なんかもあったわね。おばあちゃんも一度参加したことがあるのよ。

洋舞の会、なんてのもあったわね。水泳のグループもあって、それも出たかったのだけど、合唱かフォークダンスかどちらかとかぶってしまって、時間がないわけよ。

それであるとき、根本先生、ほら、前に話したサントレ、サンデートレーニングの根本先生に、「おい村長!あんまり走りすぎだぞ!何か一つやめろ。」なんて言われたんだけど、「やめるもんですか!」って答えたのを覚えてるわ。

そうそう、根本先生がおばあちゃんのことを『村長』って呼ぶのは、もちろんおばあちゃんの名前から一文字とっているんだけど、「人の世話ばっかりで、損ばっかりしてるから『ソンチョウ』って呼んでるんだ。」とも言っていたわね。根本先生の亡くなられた時の話はした?(以前に聞いていたので、「ココ」に記載してありました。)そう。本当にまだ若いのに、残念だったわ。

富士山の話もね、おばあちゃんはその直前に富士山に行ったんだけど、わざと山頂のすぐ手前で帰ってきたの。その前に何度か根本先生に一緒に行こうって話していたから、「最後の山頂部分は残して来たわよ」って伝えて。それで、「そうかそうか、じゃあ今度は一緒に行こう」って話していたんだけど、それからすぐに亡くなってしまったのよね。

20日目) 兄弟の話


もうすぐバレンタインだから、チョコを買いにいかないと。かけ橋の合唱の岩井先生と、ピアノの室谷先生にもうずっと前から、毎年渡しているの。フォークダンスの先生にも渡しているのよ。こちらの先生は女性なんだけどね。

(チョコの話から始まった今回は、おばあちゃんの兄弟の話です。昨年に上のお兄さん3人については聞いていたので、今回はおばあちゃんの下の人たちのお話です。)

おばあちゃんの兄弟は全部で10人兄弟でね。おばあちゃんの下が安子(やすこ)、次が隆(たかし)、その次が弘(ひろし)、勢子(せいこ)、幸子(ゆきこ)、美代子(みよこ)。おばあちゃんからは2歳ずつ離れているの。

おばあちゃんがまだ小さいころ、おやじさん(おばあちゃんのお父さん)に鶴見の花月園という遊園地によく連れて行ってもらったの。あるとき、確かそのときは隆まで連れて行ったのじゃないかしらね、ブランコか何かで遊んでいるときに知らない人から「かわいい子どもたちですね。お孫さんですか?」って聞かれたの。

おやじさんは比較的白髪が多かったから、おじいさんに見えたのね。それで、おやじさんは、「バカ言うな、父親だ。俺はこの後1ダースは生むつもりだからな!」って答えたの。それをすごくよく覚えているわ。

その頃、花月園なんて連れて行ってもらえる人はいなかったから、おやじさんはいいお父さんだって言ってたいそうほめられたのよ。おばあちゃんはおやじさんの最初の女の子だったから、とてもかわいがられたの。七五三も祝ってもらったのよね。おばあちゃんが7歳の時、やっちゃん(安子)が5歳で、隆が3歳。やっちゃんと隆は女の子、男の子が逆だけど、構わず祝って、写真を撮った。あの写真、どこ行っちゃったかしらね。どこか探せばあるとおもうんだけど。


やっちゃん(安子)は、Oさんという鉄道に勤めている人のところに片付いたの。そのOさんは、重役にまでなったのよ。

隆は大人になってから出征して、戦死してしまった。兵隊さんになってしまうと、どこにいるという情報が出されないのでわからなくなってしまうのだけど、硫黄島で亡くなったのではないか、と聞いているわ。それで、靖国神社に祀られているの。

弘も出征はしたのだけど、無事に復員してきた。すごいヘビースモーカーで、1日に60本から80本吸っていたわ。みんなたばこをやめろって言ったのだけど、「公社が売るのをやめたらやめてやるよ」なんて言っていて。でも、最後は肺がんでなくなってしまったの。
(叔父さんより、「おばあちゃんが見舞いに行くと、おばあちゃんにだけはずいぶん甘えてきたみたいだよ」)

勢子は、清水町のおばさんって呼んでる人。いまでも健在で、公務員の人と結婚したのね。おばあちゃんの一つ上の兄(恒ひさし)が軍隊に入っているときに知り合った友達が、「戻ったら妹さんを嫁にくれないか」と言って、その人と結婚したの。

幸子は埼玉のおばさんと呼んでる人。とってもいい子よ。戦時中にやっちゃんと同じところに疎開して、やっちゃんのお隣のおばさんがとってもよくしてくれて、その人が、息子が戦地から戻ってきたら、妹さんを嫁にもらいたい、と言ってね。その息子さんのYさんと結婚したの。

最初は幸子も「なんで東京を離れてわざわざ田舎にいかなきゃいけない」なんて言っていて、「まあまあ、これも縁だから」なんて諭されていたんだけど、でも結局一番よい縁談だった。旦那さんのYさんもとってもいい人でね。この前ほら、あなたのお父さん(徹)のお葬式にも来てくれたのよ。

一番下の美代子は、Hさんという、明治書院の方と結婚したの。顔がおばあちゃんに一番似てるってよく言われた。だから、美人だってね(笑)


小学校の頃は、兄弟が多くていやだった。10人兄弟なんて、恥ずかしくてしょうがなかった。1人っ子もいるし、2人の兄弟という人も多かった。
でもそれから間もなく戦争が始まってね。『産めよ増やせよ』って国が言い出すようになった。うちが表彰されるって話もあったのよ。たくさん子供がいるってだけで。


(近いうちに登場人物だけでも家系図を作ります。僕自身、登場人物が把握しきれていません。。。
 今回は写真を撮り忘れていたので、帰り際にあわてて1枚撮らせてもらいました。首に巻いているのは、フォークダンスの先生から誕生日プレゼントにいただいたものだそうです。帰り際にあわてて巻いてもらったので、つけ方がまちがっているかもしれません。)
本郷のおばあちゃんブログ-2012_1_29

19日目)-2 小学校の思い出


(つづき)
それから、赤羽に引っ越してきたんだけど、家の土地が余っていたので、畑にしてスイカを植えたの。次の年、こんな小さな(と言って、おばあちゃんは右手と左手の親指同士、人差し指同士を合わせて、輪を作りました)とても小さなスイカができたの。お父さんが「やっぱり素人じゃだめだね」なんて言っていた。

おばあちゃんが通った小学校は、以前にも話した「岩淵尋常小学校」。校舎が入り組んだ形になっていて、関東大震災の時に、真ん中だけ崩れちゃったのね。それで、それを機会に全部建て直して。全部の校舎が平屋建てだったのを、全部2階建てにした。

その頃の学校は特に天皇陛下を大事に思っていたから、始業式とか節目の式には必ず「教育勅語」を校長先生が読み上げていた。

「教育勅語」はいつも「泰安所」の中にあってね。「泰安所」っていうのは、すべての小学校にあった小屋のようなもので、ここに教育勅語や戊申詔書を収めてあるの。そうねえ、天井がこれぐらい(と言って、その店の天井を指しました)まであって、階段を4,5段上がって扉を開けて、納めてある「教育勅語」を取り出すの。

これを取り出すのは副校長の役目。燕尾服を着た副校長が、そこからうやうやしく教育勅語を取り出して、校長先生に渡す。校長先生が、それを開いて、ゆっくり読み上げるの。その間、生徒はみんな立ったまま、下を向いてじっと黙って聞いているの。長いので、何人か貧血起こして倒れる人がいたぐらい。
教育勅語は巻物になっていたの。それをこうやって、少しずつ広げて送っていって順に読んでいくのよ。

前にも話したかしらね。教育勅語は、4年生の時に暗誦するっていう授業があって、みんな暗誦しないと何度も何度もやり直しになったの。教室に1人ずつ呼ばれてね。その時、おばあちゃんはすごく早く、合格することができた。
5年生だか6年生で、今度はその教育勅語を解釈する、という授業があったの。これもまた、先生から合格をもらえるまで何度も何度も繰り返しになる。
でもこれも、おばあちゃんは早いうちに合格したのよ。


赤羽のところは、ちょうど天皇が那須の御用邸に行く際に利用する「お召列車」が通ってね。クラスの中でも代表者4,5人が、先生と一緒に駅のホームで並ぶことができるの。おばあちゃんはいつもその代表に入っていたのだけど、ホームと言ったって安全のために、何本も線路を挟んだ先でしか見られないのよ。

あ、天皇のお召列車が通るときは、必ず下を向いていなければいけないの。でも子供だったからどうしても見たくてね。こうやって(といっておばあちゃんは肩をすぼめて下を向きつつ、上目づかいで前をちらちらと見ました)、そーっと見ていた。

でも、一般の人は踏切に並んでて見てる人がいてね。踏切だったら、目の前で見ることができていたのよね。


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