26日目)結婚式のこと

(僕が到着する少し前に、おばあちゃんのお友達の娘さんが来ていたそうです。)
その人のお母さんはフォークダンスの時の友達でね。ブログを見てくれているようで、今日来た娘さんは「母に渡したいから印刷したものはないか」っていって、印刷したものをいっぱい持って帰ってた。
(叔父さんより「こちらもおばあちゃんが読むときに印刷したのを渡しているからね。昔の記事なんかはずいぶんたくさん印刷したものがちょうど手元にあったので渡したんだ。」)
その人のお母さん、つまりおばあちゃんのお友達の人は、おばあちゃんの二つ上だから97歳。目もしっかりしてるから、このブログを楽しみに読んでくれてるんだって。
(そういうお話を聞くと、書いてる身としてもうれしい限りです。それから、いろいろとあっておばあちゃんの結婚式の話になりました。)
おばあちゃんが結婚式を挙げたのは、昭和16年1月。神田明神で式をしたの。その頃、神田明神で挙式するなんてお大臣様ぐらいしかできなかったんだけど、卯吉さん(=おばあちゃんの旦那さん)が、「俺は神田の生まれだから神田明神で式を挙げる」って言って、見栄を張ってそんなところで挙げたの。
卯吉さんは派手好きで遊び人で。ハンサムでも無いのに芸者さんなんか呼んで、喜んでるのよ。そんなことしてるからキセさん(卯吉さんのお母さん)はヒステリーになっちゃってね。
式の後は、神田明神の前の大きな料亭で披露宴をやったの。全部で、そうねえ、70人ぐらいいましたかね。その頃は、そういう宴会は家に戻って自分の家でやるもので、そういうお店でやるのは珍しかったの。
それでその晩は家に泊まって、その次の日に新婚旅行に出発した。箱根と熱海で2泊。これも、当時は1晩で帰ってくるのが普通なのだけど、おばあちゃんたちは熱海にも足を延ばして、2泊したの。
結婚した後は、湯島新花町に住んでた。湯島天神のすぐそば。その頃、卯吉さんのご両親が早稲田の近くの下宿屋で働いていた話はしたかしらね?そこは早稲田の学生さんの下宿だったんだけど、戦争が始まってからは学生さんたちを半分ぐらいの部屋に寄せちゃってね。戦争で上京した人とか戦争遺族の人たちが靖国神社に参拝に来るから、そういう人たちを泊めてあげてたの。ひっきりなしにいろんな人が来るから、とってもにぎやかだった。そこにまだ小さかった徹(おばあちゃんの長男で、僕の父)をよく連れてきて、かわいがってもらってた。
その宿のあたりは焼け残ってたから、まだあるんじゃないかしら?
それで、3月ぐらいに卯吉さんに召集令状、赤紙が届いてしまってね。でも、それを届けに来た人が、大抵の人は震え上がっちゃうのに、奥さんしっかりしてる、って言ってたのを覚えてる。その時、お腹に子供がいた。子供がいるから疎開をした方がいいって言われて。山梨の酒屋さんのお蔵に、一家みんなで住まわしてもらったの。子供、『設子』は7月に生まれてね。おじいさん(代次さん:卯吉さんの父)が、「男の子がほしかったのに、なんだ、女の子なんか産んで!』って言ったのよ。
おじいさんの代次さんはいばり屋でね。知ってる人からは、よくあのイバリオヤジとつきあってられる、って同情されたの。疎開するときも代次さんは、(代次さんの故郷の)「弥彦に疎開してもいいんだけど」なんて言ってたけど、親戚と全然仲良くしてなかったからね。行っても申し訳ないでしょ。