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19日目)-1 『合唱のつどい』、子供の頃



(今日は、前回おばあちゃんが話していた、「かけ橋合唱団」の文京区主催『合唱のつどい』出演の日でした。これは、朝から夕方まで、文京区シビック大ホールで文京区内の54の合唱グループが数曲ずつ合唱を発表するというイベント。予定が重なり半分ぐらいしか聞けませんでしたが、20人弱のグループがほとんどのなか、総勢110名!の最大グループである「かけ橋合唱団」の合唱は、すごい迫力でした!)

本郷のおばあちゃんブログ-全体写真
(総勢110名!おばあちゃんは向かって右側、男性グループと女性グループの間、一番前です。)

本郷のおばあちゃんブログ-仲良し3人組
(合唱終了直後のおばあちゃん。仲良し3人組とのこと。)


かけ橋合唱団の岩井先生は、前にも話したかしらね?、おばあちゃんが女学校の時の先生「北 又兵衛先生」の孫弟子だっていうのよ。
女学校に入った年、コーラス部ができたっていうので、おばあちゃんはそれに入ったの。その時の先生が、北 又兵衛先生。ソプラノとアルトに分けて練習し始めた時に、アルトグループの声が変な声でね。「怒鳴ってるんじゃないんだぞ!」って怒ってらっしゃったのを覚えているわ。
でも、とってもわかりやすくていい先生でね。その後、けっこう有名になったのではないのかしら。

北先生は、外国の曲、民謡にあたるのかしらね、もちろん、日本語の歌詞のついたものよ。そういう曲を中心に教えてくださって。いただいた教科書が『和綴じ』でね。『和綴じ』の本なんて、知らない?全部和紙でできてるのよ。

あの教科書は、引っ越しの時に無くなってしまってね。それ以外では和紙の本なんて全然見ていないから、今も取ってあったら大したものだったはずよ。戦前だからできたのでしょうね。

それからずっと後に、(おそらく65年ほど経った後です)、かけ橋のもとになった岩井先生の授業を受けていて、教え方が似ているなー、と思って、「岩井先生、北又兵衛先生をご存じですか?」って聞いてみたの。そうしたら、「えっ、私の師ですが」という話になって。よくよく聞いたら、岩井先生と北先生は2世代ほどまたいでいるみたいなのね。だから岩井先生は自分のことを北先生の「孫弟子」なんて言い方をするのよ。
とても不思議な縁ね。岩井先生も、教え方がとてもうまいのよ。


(それから、子供の頃の話しになりました。)

おばあちゃんが子供の頃は、茗溪会館の裏に住んでいてね。「かやっこ」が近くにあって、そこにトラックが出入りしていて、、、「かやっこ」は軍の「火薬」の「倉庫」ね。火薬庫。子供の頃、「かやっこ、かやっこ」って呼んでいたの。

そこに軍のトラックが出入りしていて。その当時はトラックなんてまだ珍しかったから、トラックの後ろにつかまって、ずっと乗っていくっていうのが男の子たちの遊びだったの。お兄ちゃんたちもよく遊んでいた。
お兄ちゃんの同級生「太郎」がそうやって遊んでいたら、あるときトラックがバックしてね。その時に太郎が落ちてしまって、トラックにひかれて亡くなってしまったの。
「大変だ、大変だ、太郎がひかれた」って、大騒ぎになったのを覚えてるわ。

(つづく)

18日目) お正月、合唱のつどい、帽子


(お正月は毎年親戚でおばあちゃんの家に集まり、ご飯を食べます。今回はそのときの写真とエピソードを書きます。※飲み食いに気を取られ、ネタが少なめです。。。)

本郷のおばあちゃんブログ-お正月
(数名抜けていて、一部のみでの集合写真です。)

「かけ橋合唱団」でね、毎年成人の日に文京区で『合唱のつどい』というイベントがあって、それに毎年出演しているの。
今年は、おばあちゃんはだいぶ目も悪くなってしまったし、もうやめようと思っていたのだけど、そのことを先生に言ったら、「やめちゃダメだ、続けた方がいい」と言ってくれて。それで、出ることにしたの。

1月15日の日曜日に、文京シビックホール 大ホールでやるのでよかったら見に来て。ほとんどが数名のグループで、『かけ橋』みたいに大人数のグループは他にはないからね。

(このイベントは、朝から晩までたくさんの文京区内の合唱グループが順番に出演するイベントで、朝10時から夜7時まで開催されるとのことです。『かけ橋合唱団』の出演はそのうちの数曲ですので、もしいらっしゃる場合には事前にいつやるのかご確認されることをお勧めします。)


本郷のおばあちゃんブログ-帽子
(おばあちゃんはいま、写真のような新しい帽子をかぶっています。そのことを聞いてみました。)
ああ、これ?まだちょっと慣れないのよね。これは進(叔父さん)が去年の年末に買ってくれたの。どうかしら?
(洋服とよく合っていたので、似合っている旨を伝えました。)
そう?自分ではわからないものだからね。


(おばあちゃんは年末年始にいろいろな人からこのブログを見ている、という話を聞いたらしく、とても喜んでいました。パソコンの操作も覚えて、一人でこのページを見ることができるそうですよ。僕としてもうれしい限りです。最後に、おばあちゃんが今年のお正月に何度も何度も言っていた言葉をお伝えします。)

みなさんのおかげさまで、こうして無事に生きてまた新年を迎えることができました。いや、ほんとうよ。本当に、みんなのおかげ。
今年もいろいろとお世話になると思うけど、よろしくお願いします。

17日目)ー2 子供の頃のこと

(つづき)

おばあちゃんが子供の頃は、前にも話したように馬力運送をしていたからね。年始の『初荷』の時なんてとてもにぎやかだったわよ。1年の最初の仕事の出荷の時に、特別に馬を着飾ってね。肌かけや鞍も新品を使って。それが、戦争が始まったら軍馬を供出しなくちゃいけなくなって。大変な時代だった。

二二六事件なんて知ってる? 要は、軍隊の若いのが、国に反乱を起こしたのよね。
ちょうどその時、私の一番上の兄が入院していたの。世田谷にある第二陸軍病院。2月25日にお見舞いに行ったの。雪が降っていて、ものすごい寒い日でね。私もそのあと、肺炎になってしまって、入院まではしなかったけれど、1週間ぐらい寝込んだ。それでお兄さんに、「だから見舞いになんて来るなって言ったんだ。俺のとこに来るぐらいだったら、もっと気の利いたことやってろ」って怒られた。

(おばあちゃんは、兄弟は何人だったの?)
おばあちゃんは、9人兄弟の4番目。2番目に赤ん坊で亡くなった人がいるので、正確には5番目なんだけど。今出てきた1番上のお兄さんは鉄道会社に勤めて、それから兵役に入ったの。この兄さんは病院の看護婦さんと結婚したのよ。

2番目のお兄さんは、以前に話した、父さんが馬力運送の後にはじめた赤羽の靴屋、あれをやっていてね。でも、22歳で白血病で亡くなってしまった。2週間ぐらいの入院期間で。1回目に見舞いに行ったときにはまだ元気だったんだけどね。2回目に行ったらもうすっかり弱ってしまっていた。

3番目のお兄さんは、蓮根の叔父さんと呼んでる人。大日本インキの社長の運転手をやっていたのよ。運転手と言ったって、当時は車の運転ができる人なんてめったにいなかったから、重宝されたの。大日本インキの先々代の社長の川村隆一郎さん?がおじいちゃんと仲が良くてね。しょっちゅう遊びに来ていた。先代社長の川村茂邦さんはその娘さんのお婿さんに当たるのよ。


兄弟が多かったから、おばあちゃんが5歳ぐらいの頃、養子に出されてね。八王子の方に叔母さんが住んでいて、その人はフェリス女学院で先生をしていたのだけど、子供がいなかったのね。おばあさんと2人暮らしで。それでうちは子どもが多いからって言って、養子に出されたの。

最初はお兄さんが行ったのだけど、フェリスの生徒にラブレターを書いていたのが見つかって、「こんなふしだらな子はダメだ」って断られちゃって。それで、おばあちゃんが行かされたの。

そこでは、とてもかわいがってもらって、大事にされて。どこに行くにもおばあさんと叔母さんが一緒だったのだけど、兄弟と離れてしまっていたからとっても寂しかった。近所にアヒルがいっぱいいる公園があって、よくそこで、アヒルに囲まれて遊んでいたのを覚えているわ。

そこの叔母さんとおばあさんは魚しか食べない人たちだったのね。それであるとき、お肉が食べたいと言ったら、近くにスキヤキ屋さんがあって、そこに連れて行ってくれたの。スキヤキ屋さんのお兄さんやお姉さんに遊んでもらっていたのだけど、そこの人が子供におっぱいをあげているのを見て、妹や弟もまだあんなだったなーって思い出しちゃって。それで、帰りたくて帰りたくてしょうがなくなって、ホームシックになって泣き出しちゃったの。それで、うちのおばあさんが迎えに来てくれて、それで赤羽の家に帰ったの。

$本郷のおばあちゃんブログ-111203_喫茶店にて

(インタビューの様子。今回は本郷にある新たな喫茶店に入りました。)

17日目)ー1 合唱会のこと、赤羽に行ったこと


(今回は、このインタビューが「かけ橋合唱団 演奏会」後の最初の週末だったので、まずその話になりました。)

本郷のおばあちゃんブログ-1129_合唱全体 本郷のおばあちゃんブログ-1129_合唱アップ

火曜日の演奏会もたくさんのお客さんがいらしていていてね、大成功だったわよ。そうそう、杖をもっていったけど結局床に置いたまま使わなくってね。1部と2部で合計1時間3,40分ずっと立っていたのを、先生にほめられたの。ずいぶんしっかりしてるって。

花屋さんに頼んで花束を用意しておいて指揮の岩井先生とピアノの室谷先生に渡したのだけど、それがとってもきれいだった。

(叔父さんより、「その花束については花屋さんで注文するときに、ずいぶん大きいんでどうかなーと思ったんだけどね。真っ赤な花が舞台にとても映えて、他の人も「とても印象的だった」ってほめてた。なんだかんだで、おばあちゃんのいうことはいつも正しいんだよね」とのこと。)

(この演奏会の様子は、叔父さんが後ろの方の席を2つほど借りて、ビデオは三脚を立てて固定し、片手にデジタルカメラを抱えて大忙しで撮影しています。上の写真もその苦労して撮影したものの一部です。動画の方は、DVDにして先生方にお渡ししているそうです。)


(話は変わって、先日、おばあちゃんが小さいころ住んでいたという赤羽の生家のあったあたりを見に行ったとのことで、その話を聞きました。)

(叔父さんより、「師団坂がずいぶん長い坂だった」とのこと。)
そうね、あの坂は石がゴロゴロしていて、1年生の時、あの時分はまだ下駄だったかしら。あの坂はとても歩きにくかったのよ。
(また、叔父さんより「おばあちゃんの生家があった目の前にある『尚美学園』の守衛さんに昔の様子を聞いたけど、『軍の施設があったことは聞いている』って言う程度だった」とのこと。)

守衛さんは何歳ぐらいの人?60代後半から70歳ぐらい?そんなに若いんじゃ、知ってるわけないわね。

あの頃は、軍の昼ごはんが『堅パン』って言う堅ーいパンで、(親指と人差し指で輪を作って)このぐらいの大きさ。時々、人が見てないところで私たち子供にくれたの。それがほしくてね。味は、まあまあ、という程度なんだけど。

その奥の兵隊屋敷を越えたところが『小袋』、その先に行くと『大袋』というところになってね。途中に諏訪神社があって、さらに通っていくと荒川の淵に出るの。向こう側が、『浮間が原』。サクラソウの名所でね。それでその手前にお団子屋さんがあって。草団子が有名。
そのあたりで、水泳の練習をした話は前にしたわね。ボートの練習もしていたのよ。


つづく


16日目) 旅館「だいろく」のこと


(今回は、前回の旅行話の流れから、数年前におばあちゃんと甥っ子と共に行った新潟の弥彦神社の話になりました。)

あの時に泊まった旅館「だいろく」はね、おじいちゃん、代次さんのいとこにあたる人の家なの。その家にはもともと、あの大きな神社、弥彦神社の系統の人がいてすぐそばでお茶屋さんをやっていたのよ。お参りに来た人がちょっと腰掛けて、お弁当を食べてお茶を飲むような場所。その『弥彦のおばさん』のところに行こうってことで、まだ進さんが小学生の頃、毎年行っていたの。

最初は一泊だけ。神社を観光して、おばさんのおうちに泊めてもらったの。そしたら次の年ぐらいに、「うちが余っているから、泊まれるように民宿みたいにこしらえたから、いらっしゃいよ」って連絡をもらって。それで次からは2週間ぐらいずつ、毎年泊めてもらってた。あの頃は裕福だったからね。慎ちゃんがカブトムシを採るのがうまくってね。

その当時に弥彦に行くのは本当に大変だったのよ。蒸気機関車が碓氷峠を越えられないので、「スイッチバック」といって、少し上っては戻るように反対向きにまた少し上って。(わかりやすく解説しているページがありました。<スイッチバックの説明>


(その「民宿みたいにこしらえた」というのが、数年前に泊まった「だいろく」という宿とのことです。40年ぶりぐらいで私の父が企画したこともあって、通常のお客さんとして予約をして宿泊しました。出発の朝におかみさんを呼んでもらって、おばあちゃんが『こういうことで昔お世話になっていた』と初めて話したようでした。おかみさんもびっくりされていて、『もっと早くに言ってくだされば』と言っていました。

そのときは『遠い親戚』という程度にしか聞いていなかったので、今回詳しく話を聞いてびっくりです。その旅館は、とても『泊まれるようにこしらえた』という代物ではなく、立派な大きな旅館でした。

なお、その時の旅行の写真があったので貼っておきます。弥彦神社の前日、佐渡島での一枚です。)
$本郷のおばあちゃんブログ-佐渡島



旅行と言えば、この前話した岩井学園の近くにもよく行っていたのよ。
子どもたちが順番にそこで寮生活をしていたものだから、それの面会がてらで。最初に、徹の行ったときだったかしらね、民宿が近くにあるって聞いて、一晩泊まっていくことになったの。橋本さんっていう方のやっている、『五左右衛門』という宿があってね。そこが感じがとてもよかったから、それ以来、3泊4日程度で泊まっていたの。子供たちは大喜びだったわよ。カブトムシも採れるし、海もあるし。

岩井学園の近くへは、いまでも毎年6月にビワの買い出しがてら遊びに行っているのよ。最初はその頃病気がちだったみちえさん(慎二さんの奥さん)に食べさせてあげようと思って、そのあたりではビワがよく採れると聞いていたから買っていこうと思ってたまたま立ち寄ったのが富浦の『岡田農園』というところ。
たまたまその日、その岡田農園の方の娘さんが『今日婚約した』って言っていたの。それで、とってもおいしかったので、それから毎年のように買いに行っているのよ。


(岩井に最近行った写真は過去に貼ってしまっているので、今回は『だいぶ前に寅さん記念館に行ってきた時の写真が出てきた』というのでその写真を3枚ほど代わりに貼っておきます。)

本郷のおばあちゃんブログ-寅さん記念館
寅さん記念館から。

本郷のおばあちゃんブログ-川べり

本郷のおばあちゃんブログ-井戸策
この2枚は柴又・荒川の風景とのことです。

特別編) 11/29(火) かけはし合唱団 演奏会のお知らせ


今回はお知らせです。

「6日目)2 合唱団の話」でご紹介した「かけ橋合唱団」が、11月29日(火)午後2時から発表会をするとのことです。

この発表会は今年の3月29日に開催される予定でしたが、東日本大震災の余震も続く状況だったため自粛、中止となりました。この度やっとその振替講演が実施できるということでおばあちゃんも楽しみにしています。

以前に聞いた話では、この150名の合唱団は平均年齢が68歳!最高齢じゃなく、平均年齢です!

平日の昼なので僕は行けませんが、ご都合よろしければぜひ足を運んでみてください。



■ 文京かけ橋合唱団
■ 第9回演奏会

日 時  2011年11月29日(火)午後1時30分開場、2時開演
場 所  文京シビックホール 小ホール 
     (文京区役所がある25階建ての文京シビックセンターの2階です。)
     都営大江戸線・三田線 春日駅または東京メトロ線
     南北線・丸の内線 後楽園駅下車 徒歩1分
     JR水道橋駅下車 徒歩8分
入 場  無料
指 揮  岩井俊司
ピアノ  室谷 章

総勢150名のシニアの混声合唱団です。
日本の名歌曲、外国の名歌曲の数々と、思わず歌いたくなるような楽しいポピュラーな
歌と合わせて21曲、合唱いたします。
ぜひ、皆様のご来場をお待ちしています。

$本郷のおばあちゃんブログ-かけ橋 プログラム

15日目)-2 馬方の長さんのこと


(話は変わって、今度はおばあちゃんが子供の頃の話になりました。)

赤羽のときは、商売がうまくいっているときは、とても広かったのよ。ほら、前にも話したように馬力運送をやっていたから。大したもんだったわよ。ずーっと(手をまわしながら)周りにいくつも馬屋があって、その周りに馬方さん達を住まわせて。

旅行なんかにもよく行ったのだけど、そのときに馬方の夫婦1組といつも一緒に行ったの。斉藤長之進って名前で、おとなしくていい人だったから子供の面倒を見てもらうの。子どもが多かったから旅行は大変だからっていって。贅沢でしょう?

毎年いろいろなところに行っていて、ある時などは赤羽から上野に出て、上野から押上までタクシーで行ったの。「円タク」っていって。1円だったか、100円だったか。1台の車に10人ぐらい押し込んで。あんまり乗っているとお巡りさんにつかまっちゃうから、子供は小さくなって。
それでも、タクシーに乗ること自体贅沢だったのよ。「あなたのお家は裕福でいい」と言われたの。
箱根にも行ったし、強羅温泉はできたばかりの頃に行ったのよ。

あるとき、たまには山の方へ行こうって言って、長野県の渋温泉に行ったの。上野から汽車で湯田中まで行って、そこからは渋温泉まではずっと歩いて上っていくの。そこは汽車が通ってないから。でも、景色が珍しいからちっとも苦にならなかった。


大きな地図で見る
(Aは渋温泉の位置です。ズームすると、『湯田中』の位置もわかります。)

渋温泉では、松屋という老舗旅館に泊まったの。歴史ある旅館だから、いまでもあるんじゃない?(後日調べたところ、旅館のホームページがありました!)反対側の山本楼も老舗だったわよ。

その松屋の近くに「わごう橋」という橋があって、そこを渡った川向こうに「すずめのお宿」っていうのがあったの。近くが天然のプールみたいになっていて、「すずめのお宿」ではお茶が出たりお菓子を食べたり、私たち子供は喜んでそこに行ったのよ。
その奥には川不動の湯という、当時では珍しい露天風呂もあったの。


馬方の長之進さんは「飲んべえの長さん」って呼ばれていて、要は酒乱だったのね。あるとき、雨が降っていたのでみんなですずめのお宿に行かず、ずっと宿にいたの。誰かが長さんのことを、「今日は危ないぞー」って言ってた。
外出しないってことで昼間っから飲んじゃってたんでしょうね。夜にはもう足元もフラフラに酔っ払っちゃって、ついには暴れだしちゃって。そんな状態で危ないものだから、他の大人たちに「子どもたちは下へ逃げてなさい」って言われて避難したの。

そのうちに、「アー面白い。電気なんか割っちまえ!」って割り出しちゃったのよ。他の宿の人なんかも見に来て、「大変だー!松屋が火事になる!」なんて叫んでた。

結局その場は押さえられて無事に終わったのだけど、そんなことがあったから長さん夫婦は先に帰らせたのよね、気まずいこともあって。
でも、残された私たちはもっと気まずかった。「ほら、あの客の1人が松屋で大暴れして」と噂されたんだから。

15日目)-1 歯医者さんのこと


(今回は出かけずにおばあちゃんの家でごはんを食べながら、話をしました。そのせいもあって、写真を撮り忘れてしまいました。)

ずっと前、進さんがまだお腹にいた頃の話しだけど、夏に歯槽膿漏になっちゃって、歯があちこち抜けちゃったの。それで歯医者さんで総入れ歯を作ることになって、そのときに担当したのが杉浦先生っていう先生。

その先生は、ずっと後になって亀有で開業医になるんだけど、そのときはまだインターンで入れ歯はそれが第一号だって言ってた。たまたま入れ歯を入れた後に2週間の夏休みに入るので、杉浦先生は友だちで五明(ゴメイ)さんって歯科医を紹介してくれて、何かあったらこの人に連絡して、って言っていた。

それから2週間ちょっと経って、また杉浦先生が担当する日になったので歯医者さんに行ったの。そうしたら杉浦先生が、「五明のとこに来なかったって聞いた。なんともなかった?」って聞いてきたの。それで「(違和感はあったけど)入れ歯なんてこんなものだって思いました」って答えたらそれがすごく自信になったらしくてね。

それから、おばあちゃんの知り合いを10人以上紹介したけど、合わなかった人はたった一人だけ。あとの人は本当にぴったりだって言ってくれた。杉浦先生はとても腕が良かったのね。


開業してからも知り合いを紹介していて、その当時は「年寄りがいるんだけど家まで来てくれませんか?」ってお願いすれば、家まで来てくれていたの。

あるとき友達を紹介したら、その友達から電話がかかってきて「先生がせっかくお夕食をお出ししてるのに、ぜんぜん口をつけてくれない」って言うの。それで「ちょっと来て」って言うから行ったら、着くなり先生が「おー、本郷が来た。帰ろう、帰ろう。」って席を立って、タクシーを呼ぶから一緒に帰ろうっていうのよ。

タクシーの中で、「なんでごちそうが出てたのに一口も口をつけなかったんですか?」って聞いたら、「やれ食え、これ食え、ってあの態度が気に食わねえ」っていうのよ。自分たちで作らないで外のお店から届けてもらって、それが気に食わなかったらしいの。ほら、その頃はみんなが貧しかったから、そういう金持ちな態度がいやだって人も多かったのよね。

言われてみればうちに来たときはいっつも、かけそばを一杯だけ食べて帰ってた。かけそばは確かにうちで作っていたけど、他に何かお出ししようとしても「これだけでいいから」って言って。

その帰りのタクシーで「今日はこのまま帰るんですか」って聞いたら、「今日はちょっとだけ付き合ってくれ」って言って、神保町の出雲そばに行ったの。「今日は宴会だ」なんていってね。そのときはたくさん食べてたわね。

14日目)鶏肉と岩井学園の話


(今回は、まず駅への道すがら鶏肉の話になりました。)
うちの裏が広かった頃に、ニワトリを飼っていたのね。それがずいぶん大きくなって、おじいさんとおばあさん、代次さんときせさんが言うもんだから、坂を上がったところのお肉屋さんに持って行ってさばいてもらったの。
それを持って帰って料理して、代次さんときせさんはおいしそうに食べていたのだけど、おばあちゃんは何とも食べる気がしなくてね。

その鶏は、日比谷公園でヒヨコを売っていてね、それを買ってきて育てたの。うちの裏に電車が通っていてね。それをその鶏がキョロキョロ見てるのをよく見てたので、なんだかかわいそうになっちゃってね。

(横で聞いていた叔父さんが言いました。)
「信じられないよね?ヒヨコから育てたのを食べちゃうんだから。僕は今でも鶏は食べられないよ」

そうね。子供たちは誰も食べなかったかしら。徹は食べたかしらね。

(徹、というのはおばあちゃんの長男、孫である僕の父です。ほどなく喫茶店について、『岩井学園』の話になりました。)

岩井学園』の話をしていなかったわね。南房総にある文京区の施設で、体の弱い子が行く全寮制の学校なの。

そこへ徹が小学校4年の時に勝手に申し込んできたのよね。なんで申し込んだの?って聞いても、「僕、体が弱くて」なんて言うんだけど、本人は風邪ぐらいしか引いたことないのよ。本当はどうも仲のいい友達と思いっきり遊びたくて申し込んだみたい。

そこへ一度入ると、親が面会できるのは1か月に1回。帰るときには、あちこちで子どもの泣き声が聞こえる。うちは3人とも5年生の時に1年ずつ行ったんだけど、慎ちゃんだけ、ホームシックにかかった。徹も進も、まったくケロッとしたものだったわね。

徹のときに最初に学校に面会で授業を見に行ったら、徹は真砂小学校から一緒の友達2人と、教室の一番後ろでイスをガタンガタンさせてるのね。でも、担任の山下先生は優しいから何にも言わない。他の先生からは、「真砂小から来たあの3人組はしょうがないなあ」と言われたわ。

徹から来た最初の手紙には、「せっかく海が近いのに、入らせてくれない」と書いてあったの。岩井学園は体の弱い子が行く学校だからね。海はあっても水遊び程度で、こちらのように泳がせてはくれなかったのね。どうもそういうことが不満で、教室でイスをガタガタさせたりしてたみたい。

慎ちゃんがホームシックになったときの面会は大変だった。なだめてなだめて、やっと離れたらちょうど汽車が行っちゃって。当時は電車じゃなくて汽車だったのね。本数も少ないからそのあと4時間待った。一度など、家についたのが11時過ぎだった、ってこともあったわ。岩井へは、汽車の「さざ波」か「しおかぜ」で行くの。

(叔父さんが汽車についての話をしていました)

「トンネルが近づくと汽笛がなってね。それが聞こえると乗客は一斉に窓を閉める。そうしないと煙が社内に充満しちゃうから。」

(おばあちゃん一家ではなじみの深い『岩井学園』ですが、いまでもおばあちゃんと叔父さんは年に1度は行っているそうです。目的はビワの買い出し。富浦町に『岡田農園』という農園があって、ここ数年はそこへ行ってビワを買うのが恒例になっているようです。以下は、今年の写真です。)

本郷のおばあちゃんブログ-岩井学園看板  本郷のおばあちゃんブログ-おばあちゃん岩井


(今回は、帰りがけに帽子が気になったので聞いてみました。)
ああ、これ?これは古いものなのよ。ずっと前から持ってたんだけど、今日はかぶってみたの。

$本郷のおばあちゃんブログ-帽子写真

(写真がうまく撮れていませんが、、、いい色です!)


※コメントについて。
 何人かの方から「メンバー登録しないとコメントを残せないようだ」との連絡をいただきました。
しかし試してみたところメンバー登録は必要なさそうです。コメントの際に「メンバー登録」を勧めるボタン等が出ますが、そこを押さずにコメントが可能ですので、試してみていただければ幸いです。



特別編) 現在までの登場人物まとめ


特別編として、名前が出てきた方を簡単に整理しておきます。

会話の中で『おじいちゃん』『おばあちゃん』と呼ばれる方が多く(笑)、かといって
名前を出しても僕自身が混乱している場合があるほどですので。

おばあちゃんのお父さんのように、固有名が出ていない方はとりあえずは省略しておきます。

説明は、おばあちゃんとの関係を中心に書いています。敬称は、ブログ中での使われ方、つまり
おばあちゃんの言い方に合わせています。

・卯吉さん・・・おばあちゃんの夫

・代次さん・・・卯吉さんの父(おばあちゃんの舅)

・きせさん・・・卯吉さんの母(おばあちゃんの姑)

・「僕」・・・おばあちゃんの孫、このブログの筆記係

・徹・・・おばあちゃんと卯吉さんの長男、孫である「僕」の父親

・設子・・・同、長女 幼少時に他界

・慎二(慎ちゃん)・・・同、次男

・進(叔父さん)・・・同、三男、おばあちゃんの『インタビュー』に同席して解説を入れてくれています。