2日目) 1、戦時中のこと、疎開のこと
※孫記載の注意)
文中の「おばあちゃん」は、祖母が自分自身を表す一人称です。
()内は、「孫」からの質問やコメント、追記です。
[] 内は 「息子」である(孫から見た)叔父からのコメントです。
(本日はまず、前回の話を『ブログ』にアップしたのを見せ、大変よろこんでくれました。それを読みながら間違いを訂正しつつ先週の話を思い出しつつ、本日のお話に入りました。)
おばあちゃんたちは山梨県の中巨摩郡小笠原町山寺に疎開してね。たしか92番地。(現在は南アルプス市 山寺となっているようです。)
疎開した当初は、「東京はまだまだ無事なのになんでこっちに来るんだ」って言われたんだけど、それからすぐに東京も空襲されるようになってね。上空を爆撃機が飛んでいくのが見えるのよ。そのたびに東京は大丈夫かしらって心配してた。
勤労動員は防空壕じゃなくて、飛行機の格納庫を掘ってたの。当時山梨にあった飛行場はほとんどやられちゃったんだけど、玉幡(たまはた)っていう飛行場だけが無事でね。ただ、そこの飛行機もやられちゃうといけないから、勤労動員で穴を掘って、そこに隠そうっていう話だったの。でもね、もうそこから飛び立った飛行機が、山を越える前に撃墜されるのが見えるのよ。米軍に。それで、あー、もうこの戦争は負けるなーってつくづく思ったわね。
それでも、おばあちゃんはさぼらずにずっと作業をしていてね。他の人たちは見回りが来ている時間以外は座ってさぼっていたんだけど。それで、他の人から感心されたのよ。下村さんはよくそんなに続けられるわねって。
うちでは着物がたくさん無事だったから、それを売ってお金にしてたの。戦時中とはいえ、結婚とか晴れの日では、みんないい服が着たいっていうのはあったから。一緒に疎開に来ていた卯吉さんのご両親は「服を売るのはよくない」なんて言うんだけど、でも、米や食料を買うお金が必要だったから。
疎開先では食べ物を買っても、「お代は後でいいから。」って言われてね。どういうことかと思ったら、あとで「○○さんのところは8円で買ってくれた」っていうの。そういわれたら8円払うしかないでしょう。それまでは5円とかだったのに。そうやってだんだんと値段が上がってしまってね。
疎開者大会があったときに「何か困ってることはありませんか?」って聞かれたから、「こういうことがあって値段が上がってしまっているから、値段を統制してくれないか」って言ったの。でも、その売ってくれてたところがその村で一番の実力者の家でね。その話がそこの家に伝わってしまって、「うちではあなたのところには売れない。いままで売ったものも、お代がまだのものは全部回収する」と言われて持って帰ってしまって、それ以来何も売ってくれなくなってしまったの。
それで困ってしまったのだけど、他の人がこっそり売ってくれてね。タバコ屋さんの奥さんには特によくしてもらったわ。
そこの値段の上がり方は特にひどかったんでしょうよ。若い夫婦が東京から疎開してきてね。でも、「ここは物価が高すぎて、僕たちの貯金では3か月も持たない。東京なら配給で賄える。どうせ死ぬなら東京で死にたい」って言って。その若夫婦は子供たちにとてもやさしかったので、子供たちはとてもなついていたのだけど。ほんのすぐに東京に戻ってしまったの。
(先週の記録で伝単に関するホームページを僕が読み上げるのを聞きながら)そうそう。伝単は疎開地にもよくばらまかれていてね。「近く、空襲がある、民間人は避難してほしい」って書いてあるんだけど、もう私たちには行く場所なんてなかったから。「勝手にしろー」って、そういう気分だったわね。
(つづく)
文中の「おばあちゃん」は、祖母が自分自身を表す一人称です。
()内は、「孫」からの質問やコメント、追記です。
[] 内は 「息子」である(孫から見た)叔父からのコメントです。
(本日はまず、前回の話を『ブログ』にアップしたのを見せ、大変よろこんでくれました。それを読みながら間違いを訂正しつつ先週の話を思い出しつつ、本日のお話に入りました。)
おばあちゃんたちは山梨県の中巨摩郡小笠原町山寺に疎開してね。たしか92番地。(現在は南アルプス市 山寺となっているようです。)
疎開した当初は、「東京はまだまだ無事なのになんでこっちに来るんだ」って言われたんだけど、それからすぐに東京も空襲されるようになってね。上空を爆撃機が飛んでいくのが見えるのよ。そのたびに東京は大丈夫かしらって心配してた。
勤労動員は防空壕じゃなくて、飛行機の格納庫を掘ってたの。当時山梨にあった飛行場はほとんどやられちゃったんだけど、玉幡(たまはた)っていう飛行場だけが無事でね。ただ、そこの飛行機もやられちゃうといけないから、勤労動員で穴を掘って、そこに隠そうっていう話だったの。でもね、もうそこから飛び立った飛行機が、山を越える前に撃墜されるのが見えるのよ。米軍に。それで、あー、もうこの戦争は負けるなーってつくづく思ったわね。
それでも、おばあちゃんはさぼらずにずっと作業をしていてね。他の人たちは見回りが来ている時間以外は座ってさぼっていたんだけど。それで、他の人から感心されたのよ。下村さんはよくそんなに続けられるわねって。
うちでは着物がたくさん無事だったから、それを売ってお金にしてたの。戦時中とはいえ、結婚とか晴れの日では、みんないい服が着たいっていうのはあったから。一緒に疎開に来ていた卯吉さんのご両親は「服を売るのはよくない」なんて言うんだけど、でも、米や食料を買うお金が必要だったから。
疎開先では食べ物を買っても、「お代は後でいいから。」って言われてね。どういうことかと思ったら、あとで「○○さんのところは8円で買ってくれた」っていうの。そういわれたら8円払うしかないでしょう。それまでは5円とかだったのに。そうやってだんだんと値段が上がってしまってね。
疎開者大会があったときに「何か困ってることはありませんか?」って聞かれたから、「こういうことがあって値段が上がってしまっているから、値段を統制してくれないか」って言ったの。でも、その売ってくれてたところがその村で一番の実力者の家でね。その話がそこの家に伝わってしまって、「うちではあなたのところには売れない。いままで売ったものも、お代がまだのものは全部回収する」と言われて持って帰ってしまって、それ以来何も売ってくれなくなってしまったの。
それで困ってしまったのだけど、他の人がこっそり売ってくれてね。タバコ屋さんの奥さんには特によくしてもらったわ。
そこの値段の上がり方は特にひどかったんでしょうよ。若い夫婦が東京から疎開してきてね。でも、「ここは物価が高すぎて、僕たちの貯金では3か月も持たない。東京なら配給で賄える。どうせ死ぬなら東京で死にたい」って言って。その若夫婦は子供たちにとてもやさしかったので、子供たちはとてもなついていたのだけど。ほんのすぐに東京に戻ってしまったの。
(先週の記録で伝単に関するホームページを僕が読み上げるのを聞きながら)そうそう。伝単は疎開地にもよくばらまかれていてね。「近く、空襲がある、民間人は避難してほしい」って書いてあるんだけど、もう私たちには行く場所なんてなかったから。「勝手にしろー」って、そういう気分だったわね。
(つづく)
初日)出生・父の仕事・その他 (つづき)
(前回のつづき)
女学校を辞めてから、M社の社長さんの家に『家庭見習い』という形でいさせてもらって、そこの子どもたちの面倒を見ていたの。
そこには家庭教師で○○女子大卒の人が来ていたんだけどね、この人が全くだめな人で、もう教える気なんて全然なくて、問題だけ出して自分は居眠りしちゃうの。いびきかいてね。ほんとうにだめな人で。
だからおばあちゃんがその子たちに勉強を教えてた。昼間に学校を見学?、教室の後ろにいさせてもらって黙って聞いておいて、終ってから子どもたちに教えていたの。そのときの娘さんには大きくなってからもずっと感謝されるのよ。教え方がとてもうまかった、って。
(おじいちゃんとはどういうきっかけだったの?)
おじいちゃん、卯吉って言うんだけど(僕が生まれた時にはもう他界していたので、僕はおじいちゃんについてほとんど知りません)、その頃珍しい1人っ子でね。
M社に出入りしていた製本屋の武田さんって人が、おばあちゃんのことをたいそう気に入ってくれて、紹介したい若いのがいる、って言っておじいちゃんを紹介してくれた。
おじいちゃんは湯島で印刷の会社をやってたんだけど、戦争が始まってね。当時は「戦争に行かない男は男じゃない」って、そういう時代だったから。おじいちゃんにも赤紙が来ちゃって、印刷をやっていたものだから機械に強いだろうってことで、「自動車隊」っていう自動車整備の隊に回された。
でもあとで聞いたらとても楽だったそうよ。途中、戦地から手紙をくれるんだけどね。当時は中国の北と南で北州、南州なんて呼んでいたので、いまどのあたりにいるかっていうのを、「今日は北田さんに会ったよ」とか、「来週は南田さんに会えるかもしれない」なんて手紙に書いてくれてたから、様子はわかってた。
戦争中はおばあちゃんは子どもたちを連れて山梨に疎開してた。でも、そこでは一家に一人、一番力が強い人を勤労に出さなきゃいけなくてね。他には子どもたちしかいなかったからおばあちゃんがそこに行って、防空壕を掘ったりしていた。
他の人たちは見回りが行ってしまった後はサボってたんだけど、おばあちゃんはまじめにやってて、他の人から注意された時もあった。
山梨は爆撃機がよく上空を通ってね。ちょうど富士山をよけて東京とか関東を爆撃するのに通るんでしょうよ。その頃は伝単、と言って、日本語のビラがしょっちゅう敵機からばらまかれて。5月○日に茶畑を何たら、って書いてあって、それが爆撃予告になっていて、その1日か2日後には本当に静岡が爆撃されたの。7/7、甲府まで爆撃された。その時も、伝単がばらまかれた。それで、8月に終戦を迎えて。
その日は、町会単位で「昼の放送を家に戻って聞くように」という連絡が入って。家でみんなで天皇陛下のお言葉を聞いていた。でも、最初は何を言いたいのかみんなよくわからなくてね。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、っていうんでしょ。それでおばあちゃんが、「戦争に負けたらしいよ」ってみんなに言ったんだけど、「そんなことを言ったら警察に捕まっちゃうよ」って怒られたぐらいなんだから。
女学校を辞めてから、M社の社長さんの家に『家庭見習い』という形でいさせてもらって、そこの子どもたちの面倒を見ていたの。
そこには家庭教師で○○女子大卒の人が来ていたんだけどね、この人が全くだめな人で、もう教える気なんて全然なくて、問題だけ出して自分は居眠りしちゃうの。いびきかいてね。ほんとうにだめな人で。
だからおばあちゃんがその子たちに勉強を教えてた。昼間に学校を見学?、教室の後ろにいさせてもらって黙って聞いておいて、終ってから子どもたちに教えていたの。そのときの娘さんには大きくなってからもずっと感謝されるのよ。教え方がとてもうまかった、って。
(おじいちゃんとはどういうきっかけだったの?)
おじいちゃん、卯吉って言うんだけど(僕が生まれた時にはもう他界していたので、僕はおじいちゃんについてほとんど知りません)、その頃珍しい1人っ子でね。
M社に出入りしていた製本屋の武田さんって人が、おばあちゃんのことをたいそう気に入ってくれて、紹介したい若いのがいる、って言っておじいちゃんを紹介してくれた。
おじいちゃんは湯島で印刷の会社をやってたんだけど、戦争が始まってね。当時は「戦争に行かない男は男じゃない」って、そういう時代だったから。おじいちゃんにも赤紙が来ちゃって、印刷をやっていたものだから機械に強いだろうってことで、「自動車隊」っていう自動車整備の隊に回された。
でもあとで聞いたらとても楽だったそうよ。途中、戦地から手紙をくれるんだけどね。当時は中国の北と南で北州、南州なんて呼んでいたので、いまどのあたりにいるかっていうのを、「今日は北田さんに会ったよ」とか、「来週は南田さんに会えるかもしれない」なんて手紙に書いてくれてたから、様子はわかってた。
戦争中はおばあちゃんは子どもたちを連れて山梨に疎開してた。でも、そこでは一家に一人、一番力が強い人を勤労に出さなきゃいけなくてね。他には子どもたちしかいなかったからおばあちゃんがそこに行って、防空壕を掘ったりしていた。
他の人たちは見回りが行ってしまった後はサボってたんだけど、おばあちゃんはまじめにやってて、他の人から注意された時もあった。
山梨は爆撃機がよく上空を通ってね。ちょうど富士山をよけて東京とか関東を爆撃するのに通るんでしょうよ。その頃は伝単、と言って、日本語のビラがしょっちゅう敵機からばらまかれて。5月○日に茶畑を何たら、って書いてあって、それが爆撃予告になっていて、その1日か2日後には本当に静岡が爆撃されたの。7/7、甲府まで爆撃された。その時も、伝単がばらまかれた。それで、8月に終戦を迎えて。
その日は、町会単位で「昼の放送を家に戻って聞くように」という連絡が入って。家でみんなで天皇陛下のお言葉を聞いていた。でも、最初は何を言いたいのかみんなよくわからなくてね。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、っていうんでしょ。それでおばあちゃんが、「戦争に負けたらしいよ」ってみんなに言ったんだけど、「そんなことを言ったら警察に捕まっちゃうよ」って怒られたぐらいなんだから。
初日)出生・父の仕事・その他
※孫記載の注意)
文中の「おばあちゃん」は、祖母が自分自身を表す一人称です。
()内は、「孫」からの質問やコメント、追記です。
[] 内は 「息子」である(孫から見た)叔父からのコメントです。
(初日ですので自己紹介がてら、生まれから)
生まれは大正6年、1917年の1月7日(94歳)。当時の住所は文京区、当時は小石川区と言ったのだけど、文京区大塚町1-57。茗渓会館の裏に当たるのよ。
[当時の家が、いまでもあるらしいよ。今度見に行こうって話してるんだよ。]
上に兄が3人。おばあちゃんが長女で、下に3人妹がいたから、7人兄弟の真ん中。
当時は生まれた子が3歳になったら1歳になるぐらい離れてるのがいいって言われてたから、みんな2つ違いなの。
父親は日本製紙から請け負って、運送屋を経営していた。
福田運送店と言って、12人の使用人(従業員)がいて、赤羽に馬小屋を持ってね。その頃は馬力運送だったから。
でも、おばあちゃんが小学校のころにトラック運送の時代になっちゃってね。使用人も誰も自動車の運転なんてできなかったから、日本製紙から契約を切られちゃって、廃業しちゃったの。
そのころ家の近所に靴屋さんがあってね、その靴屋さんに靴についていろいろ教わって、赤羽の町に出て靴屋を始めた。出張販売するのを主として、どこかで祭があると、その地方に行って、靴を売ってた。
割にうまくいってたみたいだったけど、途中でお父さんがおかしくなっちゃってね。おばあちゃんが女学校、今でいう中学校の2年の時に、亡くなった。
運送屋をやってる頃は羽振りがよかったから、おばあちゃんは当時としてはとても珍しく、幼稚園に行ってるの。そこから尋常小学校に行って。
小学校4年の時に、『教育勅語』の暗誦なんていう試験があって。『修身』の授業で。
[『修身』は、いまで言う道徳かな。しつけとかそういうこと]
一人づつ教室に入って行って、先生と一対一で向き合って、暗誦するの。
「ちん、おもうに、わがこうそこうそう、くにを・・・」
おばあちゃんは一番に覚えて教室を出て行った。いつまでも残されるのいやだもの。
(今でもずいぶん覚えているようで、そのまま全文を読み上げそうでした。)
小学校5年の時にそれの解釈をやってね。それと、『戊申詔書』の暗誦も試験になった。
小学校の頃に大正天皇がお亡くなりになってね。皇居の方角に祭壇を作って、みんなで礼をしたのを覚えてる。歌もうたったのよ。そのための歌が作られてね。教室みんなで。
(つづく)
文中の「おばあちゃん」は、祖母が自分自身を表す一人称です。
()内は、「孫」からの質問やコメント、追記です。
[] 内は 「息子」である(孫から見た)叔父からのコメントです。
(初日ですので自己紹介がてら、生まれから)
生まれは大正6年、1917年の1月7日(94歳)。当時の住所は文京区、当時は小石川区と言ったのだけど、文京区大塚町1-57。茗渓会館の裏に当たるのよ。
[当時の家が、いまでもあるらしいよ。今度見に行こうって話してるんだよ。]
上に兄が3人。おばあちゃんが長女で、下に3人妹がいたから、7人兄弟の真ん中。
当時は生まれた子が3歳になったら1歳になるぐらい離れてるのがいいって言われてたから、みんな2つ違いなの。
父親は日本製紙から請け負って、運送屋を経営していた。
福田運送店と言って、12人の使用人(従業員)がいて、赤羽に馬小屋を持ってね。その頃は馬力運送だったから。
でも、おばあちゃんが小学校のころにトラック運送の時代になっちゃってね。使用人も誰も自動車の運転なんてできなかったから、日本製紙から契約を切られちゃって、廃業しちゃったの。
そのころ家の近所に靴屋さんがあってね、その靴屋さんに靴についていろいろ教わって、赤羽の町に出て靴屋を始めた。出張販売するのを主として、どこかで祭があると、その地方に行って、靴を売ってた。
割にうまくいってたみたいだったけど、途中でお父さんがおかしくなっちゃってね。おばあちゃんが女学校、今でいう中学校の2年の時に、亡くなった。
運送屋をやってる頃は羽振りがよかったから、おばあちゃんは当時としてはとても珍しく、幼稚園に行ってるの。そこから尋常小学校に行って。
小学校4年の時に、『教育勅語』の暗誦なんていう試験があって。『修身』の授業で。
[『修身』は、いまで言う道徳かな。しつけとかそういうこと]
一人づつ教室に入って行って、先生と一対一で向き合って、暗誦するの。
「ちん、おもうに、わがこうそこうそう、くにを・・・」
おばあちゃんは一番に覚えて教室を出て行った。いつまでも残されるのいやだもの。
(今でもずいぶん覚えているようで、そのまま全文を読み上げそうでした。)
小学校5年の時にそれの解釈をやってね。それと、『戊申詔書』の暗誦も試験になった。
小学校の頃に大正天皇がお亡くなりになってね。皇居の方角に祭壇を作って、みんなで礼をしたのを覚えてる。歌もうたったのよ。そのための歌が作られてね。教室みんなで。
(つづく)