13日目)日常
(今回は到着が夜だったこともあり、すぐに駅の喫茶店へ向かいました。)

(携帯のカメラなのでフラッシュがなくて暗いところでは撮れないので、コンビニの前で撮影。叔父さんから「最近歩くのが早くなったんだよね。特に何かしてるわけじゃないのに。この『ブログ』の効果かな?」とのこと。確かに毎回駅まで歩いていますが、2週間に一度なのでこの効果は微々たるものだと思います。しかし、実際に歩くのが早くなっていました!)
そう?最近、進(叔父さん)からよく言われるんだけど、自分ではわからないのよね。別にいつもどおり過ごしているだけなんだけど。
(そういえば、おばあちゃんが普段なにをしているかあまり知らなかったので、今回は平日にしていることを聞いてみました。)
普段のこと?いつも、火曜日はこの前話した「かけはし(合唱団)」に行ってるのよ。木曜日はスミレグループ。スミレグループのことは話してなかったかしらね?
スミレグループはね、ずいぶん前に、文京区でフォークダンスの教室があってね。10回の講座が終わって、これで切れてしまうのはもったいないでしょう?みんなそう思っているのに、誰も何も言いださないのよね。それで、おばあちゃんが声掛けして、これからもやりましょうって、したのが始まり。
(僕がメモを取っていたのが遅くなったのを見て、叔父さんが苦笑しながら言いました。「合唱のときとまったく同じだけど、間違えてるわけじゃないよ。どのグループもおんなじなんだよ。おばあちゃんの性格なんだろうね、ついつい自分で手をあげてはじめちゃう。」)
そうそう。せっかく始めたのに、それだけで終わってしまうなんて、もったいないじゃない?
スミレグループっていう名前はね、その講座の期間で、うちの狭い庭に、スミレがとってもきれいに咲いていた時があって、それを講座に持って行ったことがあったの。それを覚えていて、誰かがスミレグループにしましょうって言ったの。
いまは40何人いるんじゃないかしらね。毎週、進に車で文京区の福祉センターまで送ってもらって。そこの7階で、フォークダンスの練習をやっているの。また11月に発表会があるのよ。
(叔父さんが感心しながら言いました。「その練習が終わったらおばあちゃんが自分の携帯で、僕に電話をくれるんだよ、車で迎えに行くからね。94歳で携帯を使えているのってすごいよね。」)
スミレグループでは、おばあちゃんが最年長。(と言ったあとで、笑いながら)そうね。どこにいっても最年長。しょうがないわね。
他には、、、今週はメガネを変えたのよ。眼医者さんで処方箋をもらって、メガネドラッグで購入したの。目立つように派手な色のケースでね。
(叔父さんが補足してくれました。「こっちは遠近両用で、外出用。近距離用のも買ったんだけど、そっちもだいぶ調子がいいみたいで、新聞も読めるようになったんだよね?ずっと読んでなかったんだけど、メガネ買ってからは毎朝読んでるよ」)
(さっそく、そのメガネをかけてもらって記念写真を撮りました。)


12日目) お墓参り
(先々週のお彼岸に、親戚で集まってお墓参りに行ってきました。お墓の前で写真を撮るのは気が引けるので、下の写真はそのお寺の前で撮った写真です。)

(うちのお墓の隣に背の低い、古いお墓があります。正面には、雷屋うんぬんと彫ってあります。お墓参りの後に、おばあちゃんがそのお墓について話してくれました。)
うちのとなりに雷屋さんのお墓があったでしょう?雷屋さんはね、うちにこの駒込のお寺を紹介してくれた方なの。
関東大震災のときにね、きせさん(おじいちゃんの母)のお母さんが亡くなってね。あのときはほうぼう火事になって、うちがあった神田のあたりも焼け出されてしまって、巣鴨にあった代次おじいちゃんのお兄さんのところに逃げ込んだの。
きせさんのお母さんのお葬式もしたいのだけど、うちのお墓があった浅草のお寺が焼けてしまって、お墓もどこだかわからなくなってしまって。それで困っていたら、巣鴨の近所に住んでいた雷屋さんが、いまのお寺を世話してくれたのよ。
雷屋さんは巣鴨で「小間物屋」さんをやっていたの。いまでもあるのかしらね?巣鴨の通りの角のところにあったのだけれど。小間物屋さんっていうのは、婦人の化粧品とか髪留めとか、そういったものをいろいろに取り揃えていたお店。その当時はとても繁盛していたのよ。
お墓の方はすべて収まって、しばらくしてから元の浅草のお墓もどこだかわかったのだけど、もう今更戻せないってことで、それ以来、いまの駒込のお寺にお願いしているのよ。
(お墓参りの後は、みんなでご飯を食べて帰りました。今回は少し短いので、以前に入手していて載せていなかった今年の「合唱のつどい」の写真を載せておきます。

これは、今年のかしらねえ。ここ何て書いてある?(文京区 合唱のつどい 2011年1月16日って書いてあるよ)そう。それなら今年の写真ね。
(ここで叔父さんから解説がありました。)
「この文京区が主催してる合唱のつどいっていうのは、文京区に住んでる人のグループであればだれでも参加できるので参加するグループ数もすごい。1グループ2曲なんだけど、もうそれこそ朝から晩まで丸一日ずっとやってるよ。
おばあちゃんのグループはこれだけの人数がいるから、全グループ中で最大のグループ。他のグループは多くても30人ぐらいだし、2人とか数人のグループでの参加もけっこういるからね。
2曲だから歌ってる時間は8分ぐらいなんだけど、入退場でかなり時間がかかるので合計12分かかってた。ビデオカメラを回しっぱなしで撮っているから時間が正確にわかったんだ」
11日目) マラソンのこと
(本日は最初に、叔父さんがVHSテープぐらいの高さで幅が半分ぐらいの、3巻セットのパッケージを持ちだしてきました。)

叔父さん「この前話していた、東京オリンピック開会式の『オープンリール』のテープ、見つかったよ。ほら。すごくきれいに保存されてる。たぶん一度くらいしか聞いていないからね。再生機はあったんだけど。」
おばあちゃん「これはおばあちゃんが買ったんだったかしらねえ。ああ、そうだ、わたしが買ったんだ。『なんでそんなに熱くなってるんだ』なんて言われるぐらい、東京オリンピックには夢中になってねえ。おじいさん(卯吉さん)なんかはまるで興味がなくて、誘っても麻雀するから行かない、なんて言ってたぐらいなんだけど。」
(それから写真を見ていて、以前ご紹介したサントレの一環でマラソンに夢中だったという話になりました。)
サントレは、ハイキングだけじゃなくて、いろいろなことをしていてね。毎週日曜日、まずは小学校の室内運動場(体育館)に集合して、その中を軽く周回して。卓球もやっていて、大会もあったのよ。あと、いろいろとグループがあって、テニスをやるグループとか、水泳をやるグループとか。おばあちゃんは、その中で、ハイキング以外にはマラソンをやっていたの。
マラソンは、最初に走ったのは、48才のときだったんじゃないかしらね。皇居の周りも走ったし、大井の運動場とか、マラソンとか駅伝の企画には、いろいろ参加したのよ。仲間の誰かが申し込んでね。
これは、何て書いてある?エイボン?あー、そうそう。エイボン女性駅伝。これは大井の運動場だったんじゃない?

浦和とか信州の駅伝にも参加してね。何の大会だったか、参加した駅伝は全部で10㎞、1回が1kmでチームのメンバーは6人。おばあちゃんは64才のときで、おばあちゃん以外はみんな若くて40代。それなのに、おばあちゃんに「2回走って!」って言うのよ。結局2回走ったんだけどね。
1回などは、朝日新聞だか産経新聞だかの企画したマラソンに仲間の誰かが申し込んで参加したんだけど、そのときは最高齢だって言われたわ。52才のとき。
普段からよく走っていてね。ここから共立女子大学のところを通って、皇居を1周して帰ってくるの。サントレの前にも、東大の周りを1周走ってから参加したりね。
朝早くによく走っていて、東大の周りを周って、帰ってくるころにラジオ体操に人が集まり始めてた。
(以前にも話した)サントレの根本先生からは、「朝の空気は冷たいから体によくない」って言われたんだけどね。「でも先生、昼は空気が汚くって。朝走ると気持ちがいいのよ」って答えたら、「そういう考え方もあるなあ」なんて言ってたけどね。
その先生には本当によくしてもらってたから、早くに亡くなられて、本当に残念だったわ。「おい、村長、チビの村長!」なんて、おばあちゃんのことを呼ぶのよ。名前から一字とって、村長って呼んでくるの。「だってこの村の村長じゃねえか」って。そのサントレのグループでも年齢が上の方だったってこともあってグループ長みたいにしてたからそんな風に呼んだんでしょうね。
10日目)-3 [特別編] ブログの舞台裏
今回は10回目を記念して、どのような流れでこのブログを作成しているか、いわば舞台裏の説明をします。(ちなみにこの○○日目、というのはインタビューの回数です。最初に「初日」と書いてしまったので、○回目ではなくそのまま○日目と記載しています。)
まず最初にインタビュー。僕がおばあちゃんの家に行きます。いまはだいたい2週間に1度のペースです。おばあちゃんの家に着いたらお茶をもらって一休みしながら、叔父さんも交えて3人でおしゃべりするのですが、そうしているうちに話が広がって、いつの間にか書くネタが集まってしまうこともしばしばです。
そしてその後近所の喫茶店へ行き、そこで話を聞きます。すでにネタが十分集まっていたとしても、時間が許す限りわざわざお茶を飲みにいきます。以前は金魚屋さんが経営しているとても特徴のある喫茶店「金魚坂」(www.kingyozaka.com) が、家のすぐ近くなのでよく利用していました。近ごろはもう少し足を延ばして、駅周辺の喫茶店やファーストフード店を利用しています。

おばあちゃんはさすがに目も少々悪くなってきておりつえも使っているので、道の小さな段差につまずく恐れがあります。そのため、歩くときは僕か叔父さんがこのように手をつないで歩くようにしています。
そんな状態なので、近頃ではなかなか一人で出歩きにくくなってしまったとのこと。喫茶店に行くのは「散歩で歩くことが健康に良い」と聞いたので、このインタビューの機会に少しでも歩いて散歩してもらおうと考えているからです。
(先日お会いした介護の先生によると、そもそも昔の話を思い出すことも、散歩することも、両方ともにぼけ防止、認知症予防にとても良いとか。ということは、このブログ活動は認知症予防にとても良いんですねえ。ちょっと頻度が少なすぎるかもしれませんが。。。)

駅前のモスバーガーに到着しました。この日は3人とも玄米フレークシェイクを注文。そういえば3人で写っている写真がなかったと思い、店員さんに頼んで撮ってもらいました。
それから、インタビューです。だいたい1、2時間ぐらいかけて話します。その間にわからないところを質問しつつ、下の画像のように必死にメモを取りながら聞いています。
(たまに、おばあちゃんが同じことを言うこともありますが、このように聞いているのでむしろ書くことが整理されてありがたい!)
ブログからはわからないと思いますが、叔父さんも交えて3人で話をしています。叔父さんは聞いただけではわからない点を細かく教えてくれたり、補足で説明してくれます。ブログにまとめるときは何人も発言者が出てくるとわかりにくいため、そのあたりの説明を踏まえつつおばあちゃんの発言を中心に書いています。
<取材メモ>
(クリックすると拡大します。汚くてすみません。。。書きながらあっちに行ったりこっちに行ったりしています。)

そして家に帰ってから、このメモと記憶を頼りにこのブログに書き起こします。まずどの話をまとめるか、を考え、その話を流れに沿ってたどっていきます。ということで、どうしても書ききれないネタが出てきてしまうので、それはまた別の日に追加で取材して書いたりします。(まだ書ききれず、寝かせてしまっているネタもあります。。。)
記憶が確実なうちにまとめたいのでできる限りその日のうちに書き起こしたいのですが、なかなかそうもいかず、たいてい次の週の夜に、合間を見ながら、という作業になります。
ということで、今後も2週間に1度は投稿するようにしますので、よろしくお願いします!
まず最初にインタビュー。僕がおばあちゃんの家に行きます。いまはだいたい2週間に1度のペースです。おばあちゃんの家に着いたらお茶をもらって一休みしながら、叔父さんも交えて3人でおしゃべりするのですが、そうしているうちに話が広がって、いつの間にか書くネタが集まってしまうこともしばしばです。
そしてその後近所の喫茶店へ行き、そこで話を聞きます。すでにネタが十分集まっていたとしても、時間が許す限りわざわざお茶を飲みにいきます。以前は金魚屋さんが経営しているとても特徴のある喫茶店「金魚坂」(www.kingyozaka.com) が、家のすぐ近くなのでよく利用していました。近ごろはもう少し足を延ばして、駅周辺の喫茶店やファーストフード店を利用しています。

おばあちゃんはさすがに目も少々悪くなってきておりつえも使っているので、道の小さな段差につまずく恐れがあります。そのため、歩くときは僕か叔父さんがこのように手をつないで歩くようにしています。
そんな状態なので、近頃ではなかなか一人で出歩きにくくなってしまったとのこと。喫茶店に行くのは「散歩で歩くことが健康に良い」と聞いたので、このインタビューの機会に少しでも歩いて散歩してもらおうと考えているからです。
(先日お会いした介護の先生によると、そもそも昔の話を思い出すことも、散歩することも、両方ともにぼけ防止、認知症予防にとても良いとか。ということは、このブログ活動は認知症予防にとても良いんですねえ。ちょっと頻度が少なすぎるかもしれませんが。。。)

駅前のモスバーガーに到着しました。この日は3人とも玄米フレークシェイクを注文。そういえば3人で写っている写真がなかったと思い、店員さんに頼んで撮ってもらいました。
それから、インタビューです。だいたい1、2時間ぐらいかけて話します。その間にわからないところを質問しつつ、下の画像のように必死にメモを取りながら聞いています。
(たまに、おばあちゃんが同じことを言うこともありますが、このように聞いているのでむしろ書くことが整理されてありがたい!)
ブログからはわからないと思いますが、叔父さんも交えて3人で話をしています。叔父さんは聞いただけではわからない点を細かく教えてくれたり、補足で説明してくれます。ブログにまとめるときは何人も発言者が出てくるとわかりにくいため、そのあたりの説明を踏まえつつおばあちゃんの発言を中心に書いています。
<取材メモ>
(クリックすると拡大します。汚くてすみません。。。書きながらあっちに行ったりこっちに行ったりしています。)

そして家に帰ってから、このメモと記憶を頼りにこのブログに書き起こします。まずどの話をまとめるか、を考え、その話を流れに沿ってたどっていきます。ということで、どうしても書ききれないネタが出てきてしまうので、それはまた別の日に追加で取材して書いたりします。(まだ書ききれず、寝かせてしまっているネタもあります。。。)
記憶が確実なうちにまとめたいのでできる限りその日のうちに書き起こしたいのですが、なかなかそうもいかず、たいてい次の週の夜に、合間を見ながら、という作業になります。
ということで、今後も2週間に1度は投稿するようにしますので、よろしくお願いします!
10日目)-2 小学校の話、大正時代の話
(つづき)
小学校の頃、夏休みは3年生から水練場へいけたのね。水練場というのは、水泳を練習する場所で、荒川の橋の下にあったの。でも、家が貧しくなってきたのと、「女のくせに水泳なんていかなくていい」って言われてしまって。それで、兄さんが水練が休みのときに、荒川のもっと上流のほうだけど、そこへ連れていってくれて、教えてくれた。
でも、兄さんもひどいのよ。川の中でこうやって手をひっぱってくれるんだけど、途中で手をはなして離れていっちゃうの。それで必死になって泳いでそこへ追いついて。そうしているうちに、泳ぎ方を覚えちゃった。
荒川では、ある時、若い夫婦が泳ぎに来ていたのだけど、奥さんが「うちの旦那が上がってこない」って言ってきたの。その時は近くの青年団が一生懸命探して、兄さんは私に「みない方がいい」と帰らせてしまった。
その後見つかったのだけど、すでになくなった後だったのね。心臓麻痺だったって。そのころは、そういうときはみんな心臓麻痺だったの。急に入るから心臓に負担がかかって。そういうことを知らなかったから。
泳ぎを覚えたから、女学校では水泳部に入ったのよ。でもこの前はなしたように、おばあちゃんのお父さんが病気になって失業してしまったから、女学校はすぐにやめてしまった。
小学校には、私たちが6年生の時にプールができたんだけど、入った記憶はないわね。
(おばあちゃんがこの前話していた、小学校の近くの文房具屋さんの「沼野さん」も、なんと沼野さん自身(当時からすると息子さんになりますが)がブログをされており、そこに当時のことが書いてありました!
おばあちゃんはパソコン画面の小さな文字は読めないので、要約して読み上げてあげました。)
そう?小学校の近くには他にも文房具屋さんがあったんだけど、沼野さん、そうそう。ショウブンドウという名前だったわね。正しいに文章の文、でしょ?
正文堂の方が少し大きかったの。
(話は変わり、小学校の時の印象的な出来事として、大正天皇の崩御の話になりました。)
おばあちゃんが小学校4年の時に、大正天皇が亡くなったの。亡くなったのは12月で、昭和と決まるまでの仮の年号で呼ばれてたのね。それは1週間ぐらいしかなくて、それから昭和元年になったんだけど、その後すぐに年が明けちゃったから、昭和元年っていうのは1週間ぐらいしかないのね。
11月頃から大正天皇がご病気だという話でね。おばあちゃんは行かなかったけど、皇居の前まで行って、こうやって土下座をして、「ご静養をお祈り申し上げます」って。そんなことをしていた人がたくさんいて、赤羽でも町会単位でツアーみたいなのが組まれたのよ。
でも、亡くなってしまって。翌年の2月に大葬の儀があった。
(天皇が亡くなられたことはどうやって知ったの?)
おじいさんたちからも聞いたし、ラジオでも聞いた。そのころ、ラジオを持っている家は少なかったのよ。おばあちゃんの家はそれほどお金持ちというわけではなかったんだけど、お兄さんの一人が商工の学校の授業で、ラジオの勉強をしてね。それで、家にラジオを買ってあった。
当時は冷蔵庫もなかったからね。スイカとか、冷やしたいものは井戸に吊しておいたのよ。30分も吊しておけばよく冷えたのよ。
後から、上に氷を入れる冷蔵庫を買ってからも、「やっぱりスイカは井戸で吊したほうがうまいねえ」なんて言っていたからね。
その頃はスイカなんて10銭もあれば買えたからね。50銭も出したら、立派な大きなものが買えた。縁日ではスイカやバナナの叩き売りが出てね。その売ってる人は、誰かが買わないで素通りしたりすると、「買っていけよ、バカヤローッ」って叫ぶのよ。最後は「持ってけドロボーッ」とか、威勢がよくて、見ていて面白かったのよ。
小学校の頃、夏休みは3年生から水練場へいけたのね。水練場というのは、水泳を練習する場所で、荒川の橋の下にあったの。でも、家が貧しくなってきたのと、「女のくせに水泳なんていかなくていい」って言われてしまって。それで、兄さんが水練が休みのときに、荒川のもっと上流のほうだけど、そこへ連れていってくれて、教えてくれた。
でも、兄さんもひどいのよ。川の中でこうやって手をひっぱってくれるんだけど、途中で手をはなして離れていっちゃうの。それで必死になって泳いでそこへ追いついて。そうしているうちに、泳ぎ方を覚えちゃった。
荒川では、ある時、若い夫婦が泳ぎに来ていたのだけど、奥さんが「うちの旦那が上がってこない」って言ってきたの。その時は近くの青年団が一生懸命探して、兄さんは私に「みない方がいい」と帰らせてしまった。
その後見つかったのだけど、すでになくなった後だったのね。心臓麻痺だったって。そのころは、そういうときはみんな心臓麻痺だったの。急に入るから心臓に負担がかかって。そういうことを知らなかったから。
泳ぎを覚えたから、女学校では水泳部に入ったのよ。でもこの前はなしたように、おばあちゃんのお父さんが病気になって失業してしまったから、女学校はすぐにやめてしまった。
小学校には、私たちが6年生の時にプールができたんだけど、入った記憶はないわね。
(おばあちゃんがこの前話していた、小学校の近くの文房具屋さんの「沼野さん」も、なんと沼野さん自身(当時からすると息子さんになりますが)がブログをされており、そこに当時のことが書いてありました!
おばあちゃんはパソコン画面の小さな文字は読めないので、要約して読み上げてあげました。)
そう?小学校の近くには他にも文房具屋さんがあったんだけど、沼野さん、そうそう。ショウブンドウという名前だったわね。正しいに文章の文、でしょ?
正文堂の方が少し大きかったの。
(話は変わり、小学校の時の印象的な出来事として、大正天皇の崩御の話になりました。)
おばあちゃんが小学校4年の時に、大正天皇が亡くなったの。亡くなったのは12月で、昭和と決まるまでの仮の年号で呼ばれてたのね。それは1週間ぐらいしかなくて、それから昭和元年になったんだけど、その後すぐに年が明けちゃったから、昭和元年っていうのは1週間ぐらいしかないのね。
11月頃から大正天皇がご病気だという話でね。おばあちゃんは行かなかったけど、皇居の前まで行って、こうやって土下座をして、「ご静養をお祈り申し上げます」って。そんなことをしていた人がたくさんいて、赤羽でも町会単位でツアーみたいなのが組まれたのよ。
でも、亡くなってしまって。翌年の2月に大葬の儀があった。
(天皇が亡くなられたことはどうやって知ったの?)
おじいさんたちからも聞いたし、ラジオでも聞いた。そのころ、ラジオを持っている家は少なかったのよ。おばあちゃんの家はそれほどお金持ちというわけではなかったんだけど、お兄さんの一人が商工の学校の授業で、ラジオの勉強をしてね。それで、家にラジオを買ってあった。
当時は冷蔵庫もなかったからね。スイカとか、冷やしたいものは井戸に吊しておいたのよ。30分も吊しておけばよく冷えたのよ。
後から、上に氷を入れる冷蔵庫を買ってからも、「やっぱりスイカは井戸で吊したほうがうまいねえ」なんて言っていたからね。
その頃はスイカなんて10銭もあれば買えたからね。50銭も出したら、立派な大きなものが買えた。縁日ではスイカやバナナの叩き売りが出てね。その売ってる人は、誰かが買わないで素通りしたりすると、「買っていけよ、バカヤローッ」って叫ぶのよ。最後は「持ってけドロボーッ」とか、威勢がよくて、見ていて面白かったのよ。
10日目)-1 小学校のこと
(先日おばあちゃんの出身小学校とのことで「岩淵小学校」を見に行きましたが、実は「岩淵尋常高等小学校」は、現在の岩淵小学校ではなく、現在の赤羽小学校だということがわかりました。)
<赤羽小学校が当時の岩淵尋常高等小学校だという記事>
http://www.kita-tky.ed.jp/~es16/rekisi/meiji-iwabutishou.htm
<赤羽小学校のホームページの中にあった、校史>
http://www.kita-tky.ed.jp/~es16/rekisi/shouwa.htm
(ここにはなんと、当時の卒業写真が1年おきぐらいにまとまっています!おばあちゃんが4年生の時に大正天皇が亡くなられたとのことで、昭和元年が小学校4年生。年が明けてすぐ昭和2年になったので、昭和4年の3月が卒業ということになりますが、、、
残念ながら、昭和3年と5年しかないですね。
<赤羽小学校ホームページ内の、昭和3年の卒業写真>
http://www.kita-tky.ed.jp/~es16/rekisi/shouwa/sho-3/sho-3-sotugyousei.html
もしこの写真が『昭和3年度』の間違いであってくれれば、おばあちゃんは女子2組とのことなので、そのどこかに写っているはずなのですが。
おばあちゃんにその説明をして見てもらったのですが、もう細かいところはよく見えないこともあり、よくわからないとのことです。
当時の校長先生の名前があったので、その名前に覚えがあるか、おばあちゃんに聞いてみました。)
西山富次郎校長先生?そうそう、校長先生はそんな名前の人だったわね。
小学校といえば、6年生の時の担任がキュウリ先生(笑)。
5年生の時は横田先生といって、女の先生でとてもよい先生だったんだけど、6年生の時、おばあちゃんは2組で、2組はキュウリ先生というあだ名の付いていた宮里先生という人だった。確か1組は津永先生で、3組の先生はなんといったかしらね。男女別で3組ずつ、合わせて6組あったのよ。
キュウリ先生は沖縄の自慢ばかりで、自分の出身学校の校歌をよく歌っていたわ。首里城がどうとか。
あまりいい先生ではなかったわね。
キュウリ先生ではないんだけど、一度理科の先生にひどく怒られたのを覚えてるわ。おばあちゃんはしていないんだけど、学級の幾人かが、登校途中の稲を引っこ抜いて遊んで、それを学校に持ってきて友達にあげてたの。それを先生がとても怒って、おまえ等は稲の害虫だ、って言われた。
(小学校は駅から近いのですが、当時は赤羽の駅近くでも田んぼがあったんですね。)
(つづく)
<赤羽小学校が当時の岩淵尋常高等小学校だという記事>
http://www.kita-tky.ed.jp/~es16/rekisi/meiji-iwabutishou.htm
<赤羽小学校のホームページの中にあった、校史>
http://www.kita-tky.ed.jp/~es16/rekisi/shouwa.htm
(ここにはなんと、当時の卒業写真が1年おきぐらいにまとまっています!おばあちゃんが4年生の時に大正天皇が亡くなられたとのことで、昭和元年が小学校4年生。年が明けてすぐ昭和2年になったので、昭和4年の3月が卒業ということになりますが、、、
残念ながら、昭和3年と5年しかないですね。
<赤羽小学校ホームページ内の、昭和3年の卒業写真>
http://www.kita-tky.ed.jp/~es16/rekisi/shouwa/sho-3/sho-3-sotugyousei.html
もしこの写真が『昭和3年度』の間違いであってくれれば、おばあちゃんは女子2組とのことなので、そのどこかに写っているはずなのですが。
おばあちゃんにその説明をして見てもらったのですが、もう細かいところはよく見えないこともあり、よくわからないとのことです。
当時の校長先生の名前があったので、その名前に覚えがあるか、おばあちゃんに聞いてみました。)
西山富次郎校長先生?そうそう、校長先生はそんな名前の人だったわね。
小学校といえば、6年生の時の担任がキュウリ先生(笑)。
5年生の時は横田先生といって、女の先生でとてもよい先生だったんだけど、6年生の時、おばあちゃんは2組で、2組はキュウリ先生というあだ名の付いていた宮里先生という人だった。確か1組は津永先生で、3組の先生はなんといったかしらね。男女別で3組ずつ、合わせて6組あったのよ。
キュウリ先生は沖縄の自慢ばかりで、自分の出身学校の校歌をよく歌っていたわ。首里城がどうとか。
あまりいい先生ではなかったわね。
キュウリ先生ではないんだけど、一度理科の先生にひどく怒られたのを覚えてるわ。おばあちゃんはしていないんだけど、学級の幾人かが、登校途中の稲を引っこ抜いて遊んで、それを学校に持ってきて友達にあげてたの。それを先生がとても怒って、おまえ等は稲の害虫だ、って言われた。
(小学校は駅から近いのですが、当時は赤羽の駅近くでも田んぼがあったんですね。)
(つづく)
8日目)2、赤羽の家を訪ねて-2
(赤羽の駅前を通って、岩淵小学校に着きました。小学校の目の前の道路は狭く、車を停めておけないのでおばあちゃんと僕が校門の前で降り、叔父さんは少し離れた場所に車を停めに行きました。小学校は3階建てで、みるからに新しい校舎でした。校庭もコンクリートで覆われていて、かなり新しい感じがしました。)
おばあちゃんが通っていた頃は2階建てだったのよ。その校舎は関東大震災でも倒れないで、そのまま残っていたの。おばあちゃんは震災の時に1年生だったからよく覚えているわ。ここには尋常高等小学校もあって、小学校の後に付属で2年間の高等学校にも行けたのだけど、おばあちゃんは他の女学校へ行ったからここへは小学校の間しか通っていないの。
近くに製麻会社、麻を作る工場があって、5月のお祭りの時にはそこで働いている人たちが四十七士の格好で練り歩いたりして、とても盛り上がったのよ。
(叔父さんが近くに車を停めて戻ってきました。『そばにいたおじいさんに文房具屋がないか聞いたんだけど、こちら側にはなくてこの反対側に一軒あるって。ただ、おじいさんって言っても60,70ぐらいの人だから、、、。』)
そうねえ。おばあちゃんの知っている文房具屋さん「沼野」さんはこちら側だったから、火事でやけちゃったのかしらねえ。あの空襲の時の火事で。もう、80年以上前の話だから、その方もわからないでしょうねえ。
(そのおじいさんも、この近所のかつての話を聞かれて、まさか自分が生まれる前の話を聞かれるとは思っていなかったでしょう。残念ながら、その方もその文房具屋さんはわからないようでした。
本日は、そんなところで学校の前で記念撮影をして帰りました。)

9日目)2、赤羽の家のこと
赤羽には私が幼稚園の頃に引っ越したの。その前は、大塚に住んでいた。茗渓会館の近く。大矢さんの靴屋さんは御茶ノ水大学のすぐ脇にいまだにあるのよ。ほら、おばあちゃんのお父さんが運送屋をたたんだあとに靴販売を教わったところ。おばあちゃんの家の方はもうなくて、文京区の施設になっていた。小石川支所とか言ったかしら。でも、そこにはまだ当時あった池、蓮池がいまもあるのよ。おばあちゃんの家の庭にあったものなの。以前に確かサントレの仲間と打ち合わせか何かでその施設を使わせてもらったときに、その池を見たの。いまでも、お願いすれば見させてもらえるのよ。
赤羽に着いたときに、なんとも田舎でびっくりしちゃった。師団坂なんて、(手でスイカぐらいの丸を示して)これぐらいの石がごろごろしていて。家でもヘビが、青大将が出るのよ。青大将が出たときはホントいやだった。
それが、おばあちゃんが小学校6年のときだったかしらね。『京浜線』が通ったのよ。いまは京浜東北線っていうでしょ。赤羽から蒲田まで。これが、初めて上を取る電車だったのね。上って、高架よ。だから、電車に乗るのに階段を上ってホームに行ったの。それはこの京浜線が初めてだった。
赤羽にはそれ以前にも東北本線が通ってたんだけど、これは汽車だったのね。京浜線の方は省線電車、なんて言ったわね。鉄道省の電車、ってことなんでしょう。
京浜線はちょうどおばあちゃんが高等家政科学校に行く時にできたから、兄たちから「良かったなあ」って言われたの。それまでだと、学校に行くのに汽車に乗って、そのあとに都電の王子電車に乗らなければいけなくて、とにかく不便だったの。あ、当時は東京市だから市電って言ったわね。
高等家政科学校へは、小学校の時の先生がうちの両親を説得してくれたの。その頃、お父さんが病気になってしまって、とても学校になんて行かせられないって言われてたのだけど、おばあちゃんは小学校では役員だったし、勉強も好きだったから割とできたのね。それで先生が親に話してくれて、女学校に行かせた方がいいと。それも、普通の家政学校ではもったいない、高等家政学校に行かせなさい、と言ってくれて。私立ではいい学校だったのよ。お嬢様学校とか言われてね。
おばあちゃんはおてんばだったんだけどね。ロクボクってあるでしょ。あれに上って、テッペンのところを歩いていたりしたの。そんなこと、男の子でもほとんどしないのに。
高等家政学校に行ってからしばらくして、お父さんの病気が悪くなってしまったので学校を辞めて、お裁縫なんかのお稽古に行っていたの。それと、『田所さん』のところにお手伝いに行ってね。
それであるときほら、前にも話した明治書院の創始者の三木一平さんがいらした時、お茶をお出ししたら「ずいぶんいい娘さんになったね。よかったらうちに手伝いに来てもらえないか」って言ってくださってね。それから、おうちの手伝いをしていたの。でも、前にも話したように、ずいぶん勉強を見てあげてね。授業参観にもおばあちゃんが代わりに行ったりして、『教育係』なんて呼ばれてたのよ。おばあちゃんもその頃ずいぶん勉強させてもらった。英語を習ったりね。(『初日』参照)
おばあちゃんの家は広かったのよ。庭にはブランコや滑り台もあって、涼み台もあって、そこから見ると、ちょうど下の家の2階部分がその涼み台と同じ高さだったの。見晴らしがよくて。
上の段の2階屋におばさんが住んでいてね。そのおばさんの結婚式も、おばあちゃんの家でしたの。昔はみんな家で結婚式を挙げた。おばあちゃんも出たんだけど、まだ小さかったから、とにかく退屈で眠くてね。でも、お嫁さんのようすが見たい一心で、がんばって起きていた。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
(今回は関連する写真がありませんが、孫である僕の『姉』とおばあちゃんの写っている写真を見つけたので載せておきます。もう30年ぐらい前の写真です。)

9日目)1、赤羽のこと
(先日の赤羽の実家が詳しい場所がわかったそうで、今回はその話から始まりました。先週行った小学校はまさしくおばあちゃんが通っていたところだったんですが、家はそこから7,8分歩いたところだそうで。叔父さんがいろいろと調べているうちに『師団坂』というキーワードが見つかり、その坂は現在もあるのでそこから正確な位置がわかったそうです。)
大きな地図で見る
そうそう、師団坂。星美学園の近くでね。東京市北豊島郡岩渕町赤羽1-11。区になってからは、王子区赤羽。袋町にあたるのよね。星美学園ができたのは戦後。戦前は軍の施設があってね。私の家の近くから工兵第一大隊がまずあって、その横に煉兵場があって、その向こうは近衛工兵の施設だった。近衛工兵は工兵第一よりも偉かったのね、近衛、というぐらいだから、天皇陛下をお守りするってぐらいだから。
おばあちゃんの家のすぐ後ろが工兵第一大隊の正門でね。イバラの生垣があって、施設の中は桜がとてもきれいでね。4月に1日だけ、一般に開放してくれたの。その日は演芸なんかも呼んで、とても盛り上がったのよ。茨の生垣は、ほらトゲがあるから、外から人が勝手に入ってこれないように。これにも小さな花が咲いて、小さな実がなっていた。
近衛工兵の向こうには衛璽?(えいじ)病院があって、軍のための病院ね。その向かいにお団子屋さんがあったんだけど、入院してる兵隊さんが他の人に見つからないようにチョイチョイって手招きしてそのお団子屋さんを呼んで、こっそりお団子をもらって食べてた。(なんで普通に買いに行かないの?)だって、そこに来ている兵隊さんは、ケガや病気をして入院しているわけでしょ?そんな人が甘いものなんて、食べてはいけないって言われてたの。昔は規律が厳しかったのよ。
お団子屋さんといえばね、そのお団子屋さんは高いところ、ちょうどうちの前の坂を上がったところにマンションがあるでしょ。そこぐらいの高いところにあったんだけど、昭和3年だったかしらね、大きな台風が来たときに荒川が氾濫して、そのお団子屋さんにまで水があふれたのを覚えてる。しかも、その水が4,5日引かないのよ。その後、荒川水門ができて、やっとそういうことはなくなったんだけど。そのときは、川の向こう側の川口町なんて、駅ごと浸水しちゃってずいぶん大変だったらしいわよ。
そういう時に、兵隊さんがとっても活躍してくれたのも、よく覚えてるわ。
8日目)1、赤羽の家を訪ねて-1
(今回は到着するとすぐ、おばあちゃんから提案がありました。)
赤羽の家があった場所に行ってみない?駅の近くまでいけば、だいたいわかると思うのよね。大きな道沿いだったし。
(それから叔父さんとともに、おばあちゃんの言うキーワードをいろいろと調べ、『岩淵小学校』が鍵になりそうだ、とわかりました。ここはおばあちゃんの通っていた小学校と思われるので、そこまで行けばわかる、とのこと。但し名前が変わってしまっており、おばあちゃんの言うのは『岩淵第一尋常小学校』でしたが、それと同一と思われる小学校は『岩淵小学校』です。車で15分ほどなので行ってみることにしました。)
その前に、ちょっとお墓に寄ってもらえる?お花屋さんでお花を買ってから。
(途中、花を買い、僕は初めて来る墓地の前で泊まりました。裏口なのか、お寺がなく、小さな小屋があるのみです。)
ここは、おばあちゃんの先祖が眠っているお墓なの。いつも行っているのはうちの家のお墓だから、おじいちゃんの家系のお墓ね。おばあちゃんの両親、兄弟もここで眠っているのよ。
ここ、ここ。ここがおばあちゃんの家系の方のお墓。お盆に誰か来た見たいね。花が新しいし、ほら、お塔婆の真新しいのが立っている。この家は、毎年お盆にお参りに来るたびに、新しいお塔婆を建てるの。
この墓地はね、お墓の引越しがあったのよ。ほら、赤羽に京浜線、いまでいう京浜東北線が通ったときに、ちょうど線路のところにお墓があったので、ここの場所に引っ越してきたのよ。でも、お寺の方はいまだに駅の近くにあるの。だからここにはさっきお線香を買った、あの小さな小屋があるだけなのよ。
ここは歴史が古いお墓が多いのよ。(古そうなお墓を見ると、貞享元年、とありました。江戸時代、ですね。あとで調べたところ、西暦でいうと1684年のようです。第5代将軍 綱吉の時代!
ひととおりお参りが済むと、おばあちゃんは少し改まった調子で叔父さんと僕に言いました。)
ありがとう、本当に久しぶりに、ご先祖様にお参りすることができました。
それじゃあ、小学校の方に行ってみましょうか。確か校門の前に文房具屋さんがあったはず。
(つづく)