『ヒデキ』という時代 | 海をみていたい

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日常。思ったこと、メモがわりだったり、テンションあがって発信したかったり、観劇、観戦、鑑賞日記です。
濱田めぐみさん、町田樹さん、パナソニックワイルドナイツ好き、現在連日HIDEKIさんを思い出しています。
趣味は携帯写真。

1970年代の『ヒデキ』は特別でした。

もしかしたら、当時の多くの『ヒデキ』ファンにとってもそうではないでしょうか?
 
あの時代のヒデキさんをまとめて『ヒデキ』という時代にしませんか。
 

今回の夜ヒットDVDのⅠ、ⅡのうちⅠのDisc2までが記憶に残る思い出でした。

収録されなかった楽曲も含めて1970年代にヒデキさんが歌った歌すべて、

代表曲:青春に賭けよう、ちぎれた愛、この愛のときめき、恋の暴走、至上の愛、ジャガー、若き獅子たち、セクシーロックンローラー、炎、ブルースカイ ブルー、ホップ・ステップ・ジャンプ、勇気があればまで1979年までを『ヒデキ』時代と。

つまり1979年までの昭和歌謡の中に『ヒデキ』というジャンルがある。何かに似ているだとか、何々風とかではなく、

唯一無二の『ヒデキ』という世界感。

そう、今になって気づかされてしまいました。

 

西城秀樹IN夜のヒットスタジオⅠDisc1

 

ヒデキさんが25歳になった1980年代からの映像は、実は、今回初めて観る、たぶんはじめましてのヒデキさんなんです。

もうファンではなかった、というわけではないんです。この夜ヒットDVDに関して、全く観た覚えがありませんでした。

懐かしいのはひたすら夜ヒットⅠのdisc1とdisc2なんです。

 

西城秀樹IN夜のヒットスタジオⅠdisc2

 

当時女の子たちは18歳くらいから20歳前後になると高校や短大を卒業して社会人になって、お勤めして2,3数年したら結婚する女性がほんとうに当たり前の時代だったので、ファンは10代後半で『ヒデキ』と決別するんだという、価値観を持っていたんだと思います。

いまさらですが、お嫁に行くから集めていたヒデキの切り抜きとかもらってくれないかしら?と云われていたことを思い出します。いまから思うと、その気持ちが切ないです。

だれもヒデキを嫌いになったわけじゃなく、“おとなになる”ということ、社会人になるということ、家庭に入るということは大好きだったことを処分することでもあったんですね。

決してヒデキに魅力がなくなったとかじゃないんです。当時のヒデキファンのその年齢層がごっそり適齢期で、覚悟を決めて青春から卒業していったんでした。

ヒデキファン仲間だった親しいお姉さまがたが離れてしまった時期と自分自身の学校生活、部活や受験や、アルバイトなど重なっていつの間にかテレビを見る時間もなくなってしまった頃合いが重なってしまったいて。それが70年代から80年に入る境目だったと思います。

そして、それがヒデキがレコード大賞をとれるか、獲れなかった、という願望が適わなかった事実ともリンクしていています。

 

彼女たちは人生の先輩でもありましたから、結婚を機に、そのお別れに数人で集まって、あこがれの新高輪プリンスホテルの隣の品川プリンスホテルに泊まって、修学旅行生のようにおしゃべりしながら一晩すごした思い出があります。その年長だったかたでも、まだ当時20歳過ぎだったと思います。

ほんの一瞬だけれど一緒に過ごした仲間のことはキラキラ蘇ってきます。

自分が大学生になってから、地方にお嫁にいったかたのお宅に遊びにいったこともありました。

しばらくはみなさんと年賀状などのやりとりをしていたのに、いつまでも仲良く、と思っていたのに、いつの間にか連絡先も忘れてしまいました。

どうしているかな?

かけがえのない仲間だったのに、不義理をして申し訳ありません。

 

いまなら、アイドルが25歳であってもまだ若者だし、逆にファンも自分より10歳も20歳も若いアイドルを追っかけていても誰も咎めもしないし、趣味の一環として恥ずかしいものでもなんでもないんですが、あの頃は違っていたんです。二十歳過ぎたらおじさん、おばさん枠だったんですから。

女性がクリスマスケーキとか揶揄されていました。24歳がイブ、25歳がクリスマスでそれを過ぎると売れ残り!だからヒデキさんが25歳になろうとしている、まだ若者で、さあ未来はこれから、という時期にごっそりヒデキファンが忽然と消えてしまったんだと思います。

残っていたのは子供たち(笑)

 

決別したお姉さまがたよりほんの少し長くファンでいられたけれど、最後まで応援されていたファンの方々の足元には全く及びません。

実際80年代になってからアルバイトもはじめて、貯めた軍資金でディナーショーに行けたり、最後の大阪球場にも行けたし、香港コンサート(クイーンエリザベス)にも行って、自分はいつまでも大ファンだと自負していたし、アルバムはカセットで購入して、これも頑張って買ったウォークマンでいつも聴いていました。たから少しづつ環境と自分のスタンスが変わっていっていたのに、70年代に夢中になっていた『ヒデキ』というあの時代を、ヒデキがレコード大賞獲れなかった1979年をしめくくりとして、卒業していたんです。その時には気づいていませんでしたが。

 

 

DVDはこのあたり(Ⅰdisc3)から初見でした。

限定公開

 

 

 

 

というわけで、

今晩<フジテレビTWOsmart >放送される

ザ・スター 西城秀樹 ~人生の四季~

元は1981年に放送されたらしいのですが、この番組の存在すら知りませんでした。
 
このチャンネルはテレビを持っていなくても、テレビの契約をしていなくてもひと月分(30日間)の料金(最低1100円)を支払えば即、スマホやPC,タブレットなどで観ることが出来ます。くくりがひと月30~31日間になっているので今日(5月29日)支払ったら来月の28日(6月)まで有効です。
ほかの有料チャンネルはテレビが受信できない場合、テレビを持っていない場合、オンデマンドだけの契約をして貰えないので視聴が出来ませんが、このチャンネルだけテレビの有無は問いません。
しかしながらこのチャンネルはコンテンツが少なく、再放送も少なく、観たい番組以外観るものがありません(笑)でもヒデキだけで十分かと。あとうっかり見逃すと放送時間以外に観る手立てがないので、再放送を増やしてもらえないでしょうか。
 
 
知らなかったのはテレビが壊れていたか?ちょうど両親が米国に移住してしまってたので、お金を貯めるため、アルバイトに精を出していたのかもしれません、あるいは夏休みに渡米していた時期かもしれません。
後年、父に、てっきりアメリカの大学に進学するんだと思っていた、と云われてたことがあり、その時はなんでヒデキが日本に居るのにカリフォルニアに行かなきゃならないんだ、と完全否定したんですが、
これも今となってはですが、
もしヒデキがアメリカ進出していたら…。
上手くいかないかもしれない、日本のファンが離れてしまうかもしれない、と秀樹さんご自身は悩んで選ばなかった道ですが、
いまさらですが、ヒデキは米国へ行くべきだったと。
チャレンジするべきだったんです。
歌謡界の『ヒデキ』というジャンルを確立したヒデキさんの次の目指すのが米国進出だったら、
と、タラレバですが  。
きっと、彼が一番好きだったロックに触れたり、あるいは様々な音楽からインスピレーションを受けたりして、
それまでの『ヒデキ』ではない、HIDEKI SAIJOという彼本来がやりたかったロックテイストのジャンルにつながったかもしれないし、それを逆輸入する形で日本でも受け入れたのでは?と。
秀樹さんが米国を選んでいたら、私の進学先も変わっていたと思います(笑)
 
妄想はさておき、とりあえず、日本にいたままの秀樹さん。今夜見ますドキドキ