☆ TOM's blog ☆

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とみこのブログ♪ 座右の銘は「なんでも楽しむ!」
日頃の日記やら、考えやらを綴っていきます☆

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はじめの 一歩を 踏み出すことが

なによりも 一番 難しく

また とても大切だ



どうも、こんばんは。
TOMMYです。

気がついたら2012年も折り返し地点を通り越し、
じめじめとした夏を感じる時期になっていました。

震災が起きてから、これまでのこと。
少し記録に書きたいと思います。



震災が起きてから、
私の人生は大きく変わった。


適当に就職して、適当に普通の人生が送れればいい。


そんな風に思って生きてきたあの頃の自分は、
自分の目の前に大きな不幸が起こる事なんて、ありえないと思って生きていた。
普通に朝はやって来るし、外では遊べるし、夏にはあの海で遊べると思っていた。


でも、それは大きな間違いだった。

ある日突然、沢山のものが失われた。

見慣れた風景が
普通の日常が

大きな海に奪われた。



震災で、私は自分の命について考えるようになった。
死について、考えるようになった。

死を意識した時、始めに何を考えるか。
それは、生きる事だった。

なんとなく生きるよりも、
明確な目標を持って生きたいと、強く思った。


そこで私は難航していた就活を一切やめ、
自分の夢を叶えるための行動を起こすことを決意した。

小さいころからの夢であり、
ずっと何もせずに諦めていた夢。

「絵を描く」という仕事。




それから数か月間は、たくさんの事があって、あまり覚えていない。

ただ、あの時出会えた人達がいなければ、
今の私がいることは絶対にあり得なかった。

縁を結んでくれた友達や先輩、
そして会って様々なお話を聞かせて下さったみなさん、
本当にありがとうございました。


卒業論文を書き終え、卒業が決まった頃、
グラフィックデザイナーのアルバイトの就活を始めた。
それと同時に、両親への説得もした。

両親には沢山厳しい事を言われたけれど、最後には認めてくれた。
本当にありがとう。

アルバイトの就活は、時期が良かったのか、
2か月かからない位で終わった。

不安で仕方がなかったが、とても良い職場で働かせて貰っている。



全て独学で学んできた私が、グラフィックデザイナーとして働くのは、
なかなか大変。

まわりはとっても絵の上手い人達ばかりだし、
上司の納得がいく様なものを、毎回作ることもできない。

泣きたくなったり、情けなくなったり、悔しくなることなんて、
日常茶飯事。

それでも、
父親のように、優しく、時に厳しい上司と
太陽のように明るい先輩と、
個性豊かで笑いの絶えないアルバイト仲間たちに囲まれ、
一歩ずつ一歩ずつ成長している。

来年の今頃には、先輩のように
たくさんのデザインに関われるようなデザイナーになるのが今の目標。

そして後々は、
子育てしながら、世界中をワクワクさせるゲームのアートディレクターになる!!

その目標の為に、小さな仕事でも、真剣に取り組んで、
少しずつレベルアップしていくのだ。

夢はどんどん口に出していかなきゃね☆







さて。
そんなこんなで今にいたります。

思った事をだらだらと書きつづった記事になってしまいました。
此処まで読んでくださり、どうもありがとうございました!

このブログも、少しずつカスタマイズしていって、
きちんと使いたいですね。
明日で、震災から1か月が経とうとしております。
記録もかね、思ったことを書きます。




前を向こう、向こうと思いつつ、
心の底は、あの日から時間が止まったままでした。


実家に帰り、変わり果てた海岸を見た。

人気のない街を歩いた。


映像や写真なんかじゃ伝わりきらない現実が、

そこにはあった。



本当に沢山の思い出を、この震災で失った。


小学校から昨年まで、
何度も何度もお世話になった相馬市の自然の家は、津波で泥に埋もれた。

夏に遊んだ海水浴場は、地盤沈下の為に海の中へ沈んだ。

3年間通った高校は、一時、遺体安置所になった。


仙台に行く時に何度も通った浜街道の周りは、がれきのまみれに。
その道で一昨年のお盆の時に見た、
送り火に照らされる商店街がとても綺麗で、頭から離れない。


いわきに行くたび食べに行った海鮮屋さんは、津波で半壊した。

魚が全滅してしまったアクアマリンふくしまには、何回訪れただろうか。

トライアスロンの大会で応援に歩いた街並みは、見る影もなかった。


楢葉町のJビレッジにも、トライアスロンの大会でいった。

いまや、原発事故の影響で、再び行けるのかさえもわからない。


親戚や、友人も何人か流された。

哀しくて、悲しくて。。

ぶつける事の出来ない怒りが、心の中でくすぶり続けた。




また、
実家で過ごした日々は、放射能の恐怖との共存でした。


目に見えない危険は、人々を必要以上に恐れさせ、人々の感覚を麻痺させる。
それでも人々は、その街で生活している。

危険か、危険じゃないかなんて、その時には分からないもの。

まして、今出ている放射能は即発性の危機ではない。
だから、余計に怖い。


帰ってすぐの市内は、廃墟そのものでした。
車の通りはない。家の明かりもない。
店は閉まり、崩れた家がいくつもある。

ノラ犬はいたるところで悲しい目をしていて、
飼い主が帰って来るのを待っている。

海の方を見ると、残った防砂林が数本立っていて、
その手前はがれきが一面に積み上げられていた。


この街は、復興出来るのだろうか・・・

嫌でも不安になった。



しかしそれも、帰る頃には変わっていた。
この変化は、果たして良いものかは判断しづらいところだが・・・

先の見えない避難生活に、市民の殆どが帰ってきたのだ。

お店が開いている。
車が通っている。
人が歩いている。

この当たり前のことにさえ、感動してしまった。





放射線量に麻痺した私は、最後はマスクさえ付けないまま外にでた。



そこには、春のにおいがあった。









収束の見えない原発。

根拠のないフクシマ差別。




辛いことは、数えられないほど多い。

不安も、沢山ある。


けれど、私は生きる。



なぜか、それは生き残ったから。


自分には、ボランティアぐらいしかできないけど、

私が生きることが、復興につながっている。



被災者も
そうでない人も
関係ない。


一人ひとりが生きていることが、


未来への一番の希望なんだ。






まず。

間違って、2つの記事消しちゃったよー;;;

消えるの下書きだけだと思ってた・・・><;


仕方がないので、なかったことにします。。







改めまして。


今日、南相馬市内の鹿島区と原町区を少し回ってきました。




家を出て、国道6号線へと降りていきました。


途中、たくさんの家屋の屋根から瓦が剥がれ落ち、

ブルーシートがかけてありました。

綺麗に倒れたブロック塀、倒壊した蔵など、地震の被害もちらほら見えました。



6号線に出ましたが、そこはまだ見慣れた景色。

もう少し、海に向かって進みました。


すると、周囲の田んぼの色が変わっていきました。


☆ TOM's blog ☆-kashima1

道路もどんどん泥で汚れていきます。


そして、波が到達した付近まで進みました。





「たまげたなぁ、、、」


この一言しか出てきませんでした。

(この地区の方言で、たまげた=驚いた)




海から数キロあるこの距離で、

海と流されずのこった何本かの防砂林が目で確認できます。


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そこまで、一面が瓦礫のはらです。


数日前に捜索隊が入っていたのでしょう、

道路の脇には見つかった写真や思い出の品が、等間隔でまとめられていました。



道路の両脇に、冷蔵庫や農耕車、屋根や家具などが散らばっていました。


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津波が到達しなかった場所と比べたら、本当に別世界です。




ここには、アパートの2階部分だけが残っています。
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そこからさらに海側に向かうのは、恐怖が勝ったのでやめました。

もう一度6号線に戻り、今度はニュースでも写された野球場に向かいました。

こちらも、ひどい状況でした。。


こちらはまだ捜索隊が入っていない場所もあり、

毎年お祭りで活躍する馬が、瓦礫の間に倒れている所もありました。



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奥に見えるのが野球場のバックネット部分です。

泥がひどく、近づく事は出来ませんでした。



☆ TOM's blog ☆-kashima7

こちらも野球場の一部。


昔、従姉妹たちと巨人の試合を見に来ました。

まさか、ここまで波がくるとは、いったい誰が想像したでしょう?




南相馬市鹿島区は、ほとんどが30km圏外と言うこともあり、

捜索も進んでいます。


捜索の入っていない場所は、本当にひどかったです。

まだ多くのご遺体様もあるかと思うと、長く見ていることはできませんでした。


明日は、原町区カイハマの写真を上げたいと思います。

いままで、記録に残そうと書いてましたが、
今の精神状況では、描き続けられませんでした。
本当にすみません。


今、南相馬の実家に来ています。
原発からは34kmの距離です。

帰ってきた家は以前と何も変わらず、今のこの状況が嘘のようです。


今日、市内を回りましたが、津波が来た場所は、別世界でした。
後ほど、写真をあげます。



私は、家族も家も無事でした。


これは、奇跡です。


人間、生きている事が、奇跡なのです




父は、たまたま高台の事務所にいました。
津波が来たこと自体、知らなかったそうです。
目の前では、地滑りが起きていたそうです。

もう少し津波の到達が遅ければ、
現場に出て、波に飲まれていたでしょう。


母は、波のぎりぎり届かなかった小学校にいました。
津波があと数メートル高かったら、
母のいた小学校も波の被害を受けていたでしょう。


祖父は、家にいました。
私の家は、海から一番遠い地区にあるので、
津波の被害は一切うけませんでした。

地震の被害も、お皿やコップや割れたくらいで、
柱もしっかりと無事でした。


これだけの大災害の被災地に住みながら、
全く被害のなかった私の家族。

未だ、放射能という見えない敵に生活を脅かされながらも、
元気に生活しています。

私は、どれだけ恵まれているのでしょうか。
感謝してもしきれません。



残念ながら、親戚が一家族、流されてしまいました。
一刻も早く、綺麗な姿で全員見つかる事を祈ることしかできません。

同級生も一人、見つかりました。
同じ部活で、隣で楽器を吹いていた彼女。

あまり素敵な思い出を残させてあげられなくて、
本当に、本当に申し訳ない・・・






これだけ、恵まれた自分に今できること。

それは、この災害の真実と向き合い、伝えていく事。
父親からも諭されましたが、

この現実を目に焼きつけ、それを背負い生きていく。

自分の子供や、孫、友人や、将来のパートナー。
そういった人たちに、この事実を伝えること。

決して、この悲しみを風化させてはいけないのです。

最近、思う。
出世しなきゃだめ?
新しいもの見なきゃだめ?

私は、伝えたいだけ。
ものをつくりたいだけ。

私は「社長」じゃなくて「職人」になりたい。

これなら誰にも負けない

ここは私じゃなきゃできない

そういう分野を持つ人間になりたい。

誰もが主役にはなれなくて、
だからといって脇役になりたいわけでもなくて、

どちらかといえば、私は主役になりたがるキャラだけど、


本当は、
自分より優秀な人の右腕になりたい。

きっと、私がベースや低音楽器が好きなのも、
マネージャーを楽しんで出来ているのも、

その願望があるからだろう。

自分より目立つ人を、支えているという誇り。
私にとって、その誇りが一番大事なのかも知れない。

そして、同じ立場の人に認められたい。
あの会社は、あの人がいたから成長したんだ、って言わせたい。

友人が企業する時にスカウトされる人間になりたい。



少し甘くて、矛盾しているかもしれない。


でも、これが学生である私の今の考え。





自分の技術や知識で

誰かを支えられる

ありがとうと言われる

これ以上の幸せって

ありますか?