珠光茶会が今日から奈良市で‥(^_-)-☆ | 寒がりたー坊のブログ

寒がりたー坊のブログ

(+_+) 楽隠居の喜怒哀楽 \(^o^)/・・
・・歩き遍路を通して人生を考える・・

読者、アメンバーもよろしくね・・(^◇^)

こんにちは‥(^_-)-☆

今日の奈良は4時過ぎからまた寒くなり始めて夜は寒いんですね?・・

今日も昼からはマリア猫が一階に降りて来ません?・・

夜にもう一度餌を食べに降りてくるのかなあ?・・

奈良市の寺や神社などを会場にした大規模な茶会「珠光茶会」が6日から始まりました。

今回で10回目を迎えるんですね。
「珠光茶会」は、室町時代に茶の湯の基礎を築いたとされる奈良出身の茶人、村田珠光にちなんで奈良市などが毎年、開いています。
初日の6日は奈良市の2つの会場で行われていて、このうち、大安寺には裏千家の茶席が設けられ、着物姿の男女20人が濃い茶と薄茶の2種類のお茶を味わっていました。
奈良市の70代の男性は、「きょうの茶席は奈良らしい取り合わせで春を迎える喜びを感じた。

古都・奈良にふさわしい茶会なので今後も続いていってほしい」と話していました。
茶席を設けた裏千家淡交会の山内宗美さんは「お客様が喜んでおられるのが伝わってきたし、私たちも貴重な時間が過ごせて楽しいです。

この機会にたくさんの方にお茶の楽しみを知っていただけたらうれしい」と話していました。
「珠光茶会」は、今月12日まで開かれ東大寺や春日大社などでお茶席がある。

「茶禮祖(ちゃれいそ) 珠光舊跡(きゅうせき)」の石碑(右)が立つ称名寺の門前=奈良市菖蒲池町

「茶禮祖(ちゃれいそ) 珠光舊跡(きゅうせき)」の石碑(右)が立つ称名寺の門前=奈良市菖蒲池町© 朝日新聞社

 「珠光茶会」が2月に奈良市であるんだって?

 奈良ゆかりの人物名を冠した大茶会で、今回で10回目の開催なんだ。

 そもそも「珠光」ってどんな人なの?

 珠光(1423~1502)は「茶の湯」の始祖で「茶祖」とも呼ばれる。

昨年が生誕600年だったが、室町時代中後期の奈良にいた僧侶だ。

伝承では、11歳の時に奈良の称名寺に入ったが、20歳前に出てしまった。

その後、応仁の乱のころに奈良に戻ったけど、遁世者となって東大寺転害門近くで草庵を結んだとされる。

晩年は京都に住み、80歳で亡くなったらしい。

 よく「村田珠光」とも言われるけど、「茶の湯の歴史」(角川ソフィア文庫)などを著した日本文化史・茶道史研究家の神津朝夫さん(70)によると、出家者には俗姓をつけないので、単に「珠光」とするのが正しい。

濁らずに「しゅこう」と読むのがよいという。

遣唐使らはきっと中国でお茶を飲んでいただろうし、遣唐使が日本に茶を招来した可能性はあると推測している。

鎌倉時代には興福寺や西大寺などにも茶園があったし、いろんな宗派のお寺で飲まれていた。

「茶の湯」の成立前、寺社門前の茶屋で参拝者に「一服一銭」で売ったり、茶道具を担いだ行商「荷い茶」もあったりし、喫茶の習慣は庶民にも広まっていた。

茶の産地を当てる賭け事「茶勝負」も流行した。

 一方、「茶の湯」というのは、喫茶を目的に、その場にある茶道具を使って目の前で茶を点てる寄り合いを意味する。

室町将軍家で生まれたとの説もあるんだけど、別室で点てられた茶を飲んでいただけで茶会は開かず、茶の湯とはいえないようだ。

 珠光がなぜ茶祖なの?

 実は茶の湯を始めたのが珠光だとする明確な史料はないんだ。

 神津さんが注目するのが、室町中期ごろの「おようのあま」という絵巻だ。

尼が訪ねた先の京都の草庵で、老法師がそばに置いた粗末な茶道具で茶を振る舞う様子も描いている。

こんな老法師は複数いて、珠光もそうした一人だったのではないかとみているんだ。

 粗末な草庵で念仏を唱え、来客があるとお茶でもてなしたというイメージだね。

 珠光はかつては多くの唐物を買い集めたとか、京都で豪商として成功したとかみられてきた。

でも近年発見された史料で、珠光の伝来品は下手物(量産された粗悪品)の青磁の茶碗だけで、一生僧侶だったこともわかっているんだ。

今の多くの茶道家のように秩序だった作法や書きものも残っていないんでしょうね。

だけど奈良の大茶会は奈良の大きな寺社で行われるんですが、参加方法が分からないので、10回も開かれているが参加はしたことはありません。

新聞などを見る限りでは一度参加したいですね。

今日も良い日でありますように・・(^_-)-☆